新生活17日目①
長いので、分けてます。
翌朝、私は日の出と共に目を覚ました。
胸の奥で、何かが静かに燃えている。
――やることを、決めたのだ。
顔を洗い、髪をまとめ、手早く野菜を刻む。
鍋に水を張り、雑穀を入れて煮込む。
庭で摘んだハーブを少し加えると、ふんわりと香りが立った。
雑穀雑炊。素朴だけれど、栄養バランスは十分な朝食だ。
食べ終わると、すぐに片付けて、作業に取りかかった。机の上に色とりどりの布を並べ、リボンをいくつか作る。
淡い色、明るい色、落ち着いた色。
それぞれに、“N”の刺繍を入れた。
次に、紙を二片用意し、丁寧にあるものを書き込んだ。それを鞄に入れ、リボンや糸、針、お財布を詰め込む。
身支度を整え、三つ編みにして、肌を少し茶色く染めた。瞳の色を変える目薬を差し、鏡の中に映る自分を見てうなずく。
――いつもの“ノエル”の姿だ。
孤児院に向かう途中、道端の花が朝日に透けていた。それを一輪摘んで、鞄の端に挿す。
孤児院に着くと、子どもたちは元気に走り回っていた。
「――あ、ノエルだ!」
誰かが気づいて、駆け寄ってくる。
「院長と、今、お会いできるかしら?」
私が聞くと、「ほら、あそこにいるよ」と指をさした。
見ると、院長が建物の影から皆を見守っていた。私が近づくと、院長は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「以前、皆にあげた物に、名前の刺繍をしたいのですけど……よろしいですか?」
「まあ、素敵な考えね。いいわよ」
院長は数人の子どもたちと、マヤを呼んでくれた。私は空いた机を借りて、一人ひとりに名前を聞きながら、丁寧にイニシャルを縫い込んでいった。
ここでは、大きい子の多くが字を読める。
だから、自分の名前の入ったものを持てることが、きっと嬉しいはずだ。知識を学ぶ機会を与える――院長は、本当に優れた人だと思う。子どもたちの未来を見据えている。
昨日落とした子以外の、全員の分を終えた後、私はふと手を止めて言った。
「昨日の女の子に、会いに行きたいと思うの。どんな子か、教えてくれない?」
マヤが、少し遠くを見るような目をして言った。
「悔しくて、あの子の跡をつけたの。住んでる場所、知ってるよ」
「案内してほしいのだけど……院長、良いですか?」
私が尋ねると、院長は少しの間考えてから、ゆっくりとうなずいた。
「……危険なことは、しないと約束できるなら。マヤ、お願いできるかしら?」
「はい」
私は小さく頭を下げ、院長にもう一つ、お願いをした。そして私とマヤは、静かな町へと歩き出した。マヤと私は、町へ向かう道を歩きながら、たくさんの話をした。
マヤは、赤ん坊の時に孤児院の前に捨てられてて、院長が自分にとっての「お母さん」そのものだということ。読み書きを覚えた今は、次に計算を覚えたい、そして、大人になったら孤児院を手伝い、院長を支えたいという夢を持っていること。
そのどれもがまっすぐで、まぶしかった。 ――マヤは、私よりずっと大人に見えた。その眼差しの奥には、芯の強さと優しさが同居していた。
「リボン、とっても素敵でね。ずっと大事にしてるの」
マヤは笑いながら言った。
「今日、名前を入れてもらって、本当に嬉しかった」
その笑顔が、太陽の光よりも眩しく見えた。
やがて町が見えてきた。石畳の道の先に、白壁の家が並ぶ。マヤは一軒の家を指差して、低い声で言った。
「あの家だよ」
平民にしては、ずいぶんと立派な家だった二階建てで、玄関脇には鉢植えの花。使用人の姿もちらりと見える。
「……どうするの?」とマヤが不安そうに尋ねた。
「そのまま行くよ」私は静かに答えた。
私は耳元のイヤリングを外し、丁寧に鞄へしまった。そして、玄関の呼び鈴を鳴らす。
やがて、扉が開き、中から一人の女性が現れた。彼女は私たちを頭のてっぺんからつま先まで一瞥し、少し鼻を鳴らした。
「……どのようなご用件ですか?」
胡散臭そうな視線。けれど、私は一歩も退かなかった。
「昨日、リボンを落とした件でお話に伺いました」
「リボン?――ああ、あれね。でも、持ち主なんて分からないでしょう?どこにでもあるリボンなのだから」
――それは、違う。
あれは私がひとつひとつ手で縫い上げたもの。イニシャルの刺繍には、微かに魔力を込めてある。本物は、私にしか作れない。
「実は、あれは普通のリボンではないのです」
私は静かに言葉を重ねた。
「もし、そのまま持っていると……何が起きるか、分かりません。至急、見せていただけますか?」
その真剣な表情に、女性の眉がわずかに動いた。
「……何が、とは?」
「それは、リボンを見せていただければ分かります」
しばらくの沈黙の後、女性は家の中へ向かって声を張り上げた。
「――マリィ!リボンを持っていらっしゃい!」
不機嫌そうな足音が響き、やがて小さな女の子が現れた。手には、見覚えのあるリボン。
……間違いない。私の作ったものだ。
「……ああ、なんてことなの」
私はリボンに触れるふりをして、手の内に忍ばせていた極小の魔法陣の紙片をそっと稼働させた。
ぱちん。
一瞬、空気が揺れたかと思うと――リボンは、ふっと消えた。
「消えた!?」「何をしたの!」
女の子と女性が同時に叫ぶ。
「リボンは、本当の持ち主のところに戻りました」
私は静かに答えた。
「持ち主が泣いていたので。……良かったですね。リボンがあなたたちを恨む前で」
ざわめきが起こった。
「信じられない」「どこかに隠してるんでしょう!」
口々に非難の声が上がる。
「調べてもらって構いませんよ」
私は落ち着いた声でそう言い、上着を脱いで彼女たちに差し出した。
驚く二人をよそに、私は鞄の中身をすべて並べて見せた。針、糸、布、そして何本ものリボン。その色も模様も、さっきのリボンとは全く違う。
周囲に人が集まり始め、ざわつきが広がる。
「……その、リボンは?」と女性が震える声で言った。
「私が作ったものです。これは、これから売る予定の分。先ほどのリボンは、私が作った物のひとつなのですよ」
そう告げると、女性は顔を青ざめさせた。
「やめて。……もう、わかった。あのリボンを持っていないことは、わかったから」
「分かっていただけたようで、何よりです」
私は微笑み、服を着直し、鞄の中身を整えた。女の子はただ、呆然と私を見つめていた。信じられない――そんな表情のままで。
そして、私は一礼し、マヤと共にその場を去った。
私はその家から離れると、すぐにイヤリングをつけ直した。冷たい金具が耳に触れて、ようやく落ち着く。
マヤが、不思議そうに私を見た。
「ねぇ、何をしたの?」
「リボンを、孤児院に返したのよ。きっと帰ったら、戻っているはずだから」
私がそう言うと、マヤは目を丸くしたが、それ以上は何も聞かなかった。
「さて、帰ろうか。せっかく町まで来たんだから、何か買い物していっていい? 本当はミルクかチーズが欲しいのだけど」
私が言うと、マヤは「ミルクやチーズは町では買えないんだよ。大体、直接買いに行くものだから」と笑った。
「でも、帰り道の途中にあるから、寄っていこうか?」
「お願い!」
思わず、私はマヤの両手を取って言った。マヤは少し照れたように笑う。
「ねぇ、お昼に何か食べて帰ろうよ。お金は出すから」
「いいの?嬉しいな。もうお昼近いし。食べるなら、こっち」
マヤは私の手を引いた。通りを外れて少し入った場所に、小さな店があった。目立たないが、外で食べている人たちの笑顔が温かい。
「ここが一番安くて美味しいと思うよ」
「これで足りるかな?」
私は財布から銀貨を数枚見せた。
「大丈夫。ミルクもチーズも買えるくらい余るよ」
「じゃあ、私ここで座って待ってる。おまかせでお願い」
マヤは頷いて、器用に片手で飲み物を二つ、もう片手でパンのようなものを二つ持って戻ってきた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
私は少し反省した。一緒に行けばよかったな、と。薄く切ったパンには、細かく刻んだ塩漬けの野菜と焼いた肉が挟まっていた。
「こうやって、がぶりって食べるの」
マヤは豪快に食べて見せた。私も真似してかぶりつく。
……塩気が少し強いけれど、悪くない。
果実水の酸味と甘味が、身体に優しく沁みた。
「美味しい」
「でしょ?」
マヤの笑顔が、やけに眩しく見えた。
誰かと一緒に食べる食事って、心まで温かくなるんだな、と思った。




