新生活16日目
翌日。
私は、太陽がずいぶん高くなってから、ようやく起き上がった。目はもっと早くに覚めていたのだけれど、ベッドの中でゴロゴロと、布団にくるまったまま動けずにいた。
……なんだか、やる気が出ない。でも、こういう時はきっと身体が「休んでいいよ」と言ってるんだ。前回みたいに、無理をして熱を出したくない。
身体の声には、素直に従うことにした。
しばらくして――お腹が、くぅっと鳴いた。さすがに食欲には勝てない。私はのそのそとベッドから這い出した。日がこんなに高くなっても、井戸の水はびっくりするほど冷たい。そのひやりとした感触に、思わず息を吸い込んで――ようやく、ぱちりと目が覚めた。
今朝は、たっぷりの野菜を細かく刻んで、干し肉も小さくしてスープに入れた。ことことと煮える匂いが、なんだか気持ちを元気にしてくれる。
ベッドでごろごろしていた時、ふと祖母の「煎餅焼き」が頭に浮かんだ。小麦粉と、少しの砂糖と、水だけで作っていた、あの素朴なおやつ。今日は砂糖なしで作ってみることにした。
小麦粉を水で溶いて、ぐるぐる混ぜる。鉄板に薄く伸ばして焼けば――香ばしい匂い。
本当は、もちもちのクレープも恋しいけれど、あれは生地を寝かせないといけない。
それに、この小麦粉でうまくできるかもわからないし。
だから今日は、残念ながら煎餅焼き。
でも薄い分、すぐに焼き上がってくれる。
少し、多めに焼いておいた。
焼けた生地に、蜂蜜を薄く塗って、小さくちぎりながら食べる。……蜂蜜って、最強かもしれない。
片付けが終わったら、午前中は作品づくり。
大分増えてきたし、午後に時間ができたら、孤児院に持って行こうかな。
そんなことを考えるだけで、少し心が弾んだ。
お昼ご飯は、朝の残りを温めてすませた。寝坊したせいで、時間が足りないのだ。
まあ、そんな日もある。
昨日から気になっていた蜜蝋を覗き込む。
……しっかり固まっている。まるでバケツに張った氷みたいに、つるんと一枚。そっと持ち上げてみれば――
……すごい。ちょっと感動。
けれど、よく見ると何か色々混じっている。
花粉?小さなごみ?虫の名残?うーん、まあ自然のままってことなんだけど。正直、汚ない。
固まった蜜蝋と水を鍋に戻して、もう一度湯煎にかける。完全に溶けたところで、布を使って慎重に濾した。
……まだ、微妙?
もう一度、布濾しを繰り返す。…4度目なら、どうだ。
…うん。今度はまあまあ綺麗。
綿の服を裂いて芯にすれば、ろうそくも作れそう。それか、蜜蝋と植物油でリップクリームとかハンドクリームとか……肌にもいいはずだし。荒れなければ、の話だけど。
さて、あとは固めるだけ――そこで私は、部屋を見回した。……型にできそうなもの、どれを使えばいいんだろう?少し顎に手を当てて、考え込んだ。
一番小さな器の上に、小枝を一本、そっと横に渡した。その小枝に、太めの綿の糸を引っかけて下へ垂らす。布は次回、試そう。……うん、これで芯の準備はできた。あとは、この中に溶かした蜜蝋を流し込めば――蝋燭になる、はず。
次に、少し小さめの器を取り出す。そこへ、蜜蝋と植物油を同じ分量ずつ入れて、ゆっくり混ぜ合わせた。固まれば、リップクリームか、ハンドクリーム。きっと、手に塗ったらほんのり甘い香りがするだろう。
残った蜜蝋は、このまま固めて保管しておこう。ハンドクリームは保存料がないから早めに使い切らなくちゃいけないし、蝋燭は、どれくらい使うことになるか分からない。
でも、蜜蝋そのものは、ちゃんと保管すれば長持ちするはずだ。
一通りの作業を終えると、私はふうっと小さく息を吐いた。部屋には、ほんのりと甘い香り。何だか、心まであたたかくなるような気がした。
夕方まで、まだ少し時間があった。
私は出来上がった作品を孤児院に届けることにした。
髪を三つ編みにして、肌を少し茶色く染め、
目薬で瞳の色を変える。作品を丁寧に鞄へ詰め、扉を閉めて家を出た。
孤児院に着くと、建物の中は妙に静まり返っていた。いつもなら、子どもたちの笑い声がどこかしらから聞こえるのに。どうしたのだろう?私は少し首を傾げながら、院長室の扉を叩いた。
「誰かしら?」と、中から穏やかな声。
「ノエルです。作った分を持ってきたのですが……」
「どうぞ、入って」
扉を開けると、院長はいつものように机の前に座っていた。私は作品を差し出した。
「作ったものを持って来ました。今回は、少し形の違う小物入れも、作ってみました」
「まあ、速いわね。いつもながら、丁寧な作りね。売上は、もう少し、待ってくれるかしら?」
院長はにこやかに受け取りながら言った。
「ところで、子どもたちはどこに?」
「今日は町でお祭りがあるの。皆、今まで貯めたお小遣いを持って出かけたのよ。もうすぐ帰ってくると思うけれど……」
お祭り。――そんな日だったなんて、全く知らなかった。
「そうそう」と院長が思い出したように言う。
「前の注文の件、詳しく聞いたの。孫たちそれぞれの好みを書いてもらったから、読んでみて」
私は差し出された紙を受け取って目を通した。緑色が好きな子、黄色が好きな子、花が好きな子……ひとつひとつの言葉に、想像が膨らむ。
「…馬が好きな子とは?」
「ああ、その子の家で白い馬の子が生まれたそうなの。子馬がとても可愛いのですって」
白い子馬――想像しただけで胸が温かくなる。けれど、形にするのは少し難しそう。
挑戦しがいがあるわね、と微笑んだそのとき。
外から、わっと賑やかな声が聞こえてきた。
「――あら、帰ってきたみたいね」院長が立ち上がる。
私は玄関へ出て、子どもたちに声をかけた。
「お邪魔してます」
けれど、笑顔で返す子は少なかった。
一人の女の子が泣いていて、周りの子どもたちは皆、沈んだ顔をしている。
「……どうしたのです?」院長が優しく問いかける。
前に出たマヤが、少し震える声で言った。
「この子が、ノエルにもらったリボンをつけて行ったんです。でも途中で落としてしまって……。綺麗な服を着た女の子が拾ってくれたんですけど、返してって言ったら『こんな綺麗なリボン、持ってるわけないでしょ。どうせ盗んだんじゃないの?』って言われて、結局、返してもらえませんでした……」
すすり泣く少女の肩に、隣の男の子がそっと手を置く。私は、胸がぎゅっと締めつけられるような気がした。けれど、何と言葉をかければいいのか分からなかった。
「……そう。それは、辛かったわね」
院長は静かに言った。そして、子どもたちを見回しながら、少し柔らかい声で続けた。
「とりあえず、夕食にしましょう。ノエル、外が暗くなってきているわ。もう、帰りなさい」
「……はい」
私は小さくうなずいた。
スカートの裾をぎゅっと握りしめたまま、孤児院を後にした。砂利を踏むたびに、足音が小さく響く。とぼとぼと歩く。
――かける言葉が、見つからなかった。
慰めも、励ましも、何一つ。ただ見ていることしか、できなかった。
何もできない自分に、胸の奥がじくじくと痛んだ。腹立たしく、そして悲しかった。
世界は、平等ではない。
そんなこと――日本にいた頃から、知っていたはずなのに。それでも、目の前で泣く子を前に、心は静まらなかった。
「私に、何ができるんだろう……」
帰ってからも、その問いが頭から離れなかった。朝の残りのスープを温めて、煎餅焼きを食べる。片付けを済ませ、ベッドに横たわる。
天井を見つめながら、私は考え続けた。
夜が深くなっても、答えは見つからなかった。それでも、考えることをやめられなかった。
ーーー皇子視点
俺たちは隣町へと到着した。
本来ならアレクシス皇子として領主に表向きに会うこともできるのだが――今の俺はアレン。立ち回り方に迷いながら、町の様子を観察する。
そんな俺に側近が声を掛けた。
「文官と共に少し調べたいことがあります。
アレン様のお手を煩わせるようなことではありませんので、休憩なさりながらお待ち頂けませんか?……丁度、あそこに良さげな店が」
視線の先には、宿屋兼飲み屋といった賑やかな建物。
「……わかった」
人々の暮らしぶりを探るのも必要だ、と俺は席に着いた。飲み物と軽いつまみを頼み、周囲に目を向ける。やはり値は高い。ここに来るのは羽振りの良い者たちなのだろう。
そんなことを考えていると、上から艶のある声が降ってきた。
「お兄さん、ひとり?」
見上げれば、露出の多いドレスを身に纏った女。整った顔立ちで、笑みを含んだ瞳。
「ああ。人を待っている」
俺がそう返すと、女は唇に指を添えた。
「それなら、連れが来るまで話相手になってくれないかしら?ちょうど暇なの」
「……連れが来るまでなら」
俺は、静かに了承した。
どうやら、女は領主のお気に入りらしい。時々、領主がお忍びでここに来ると、カウンター越しに小さく笑いながら言った。
「あの人は、平民には何もしないのよね。
でも、お金だけはしっかり持ってるから、いいお客様よ」
続けて口を滑らすように、領主は女を囲い、妻は妻で若い男と遊び呆けていると。
――領主。クビだな。
俺は、静かに内心で宣告した。
「素敵な人もいないし、ここは退屈な場所よ。ねぇ、今夜はどこに泊まるの?」
まだ決めていない、と答えた俺に、女は色っぽく微笑んだ。
「それなら、今夜はどうかしら?」
ちょうどその時、タイミングよく声が掛かった。
「お待たせしました。アレン様」
側近が戻ってきたのだ。
「悪いが、話はここまでだ。有意義な時間だったよ」
軽く礼をして席を立つ。外の空気は、少し冷たくて、妙に気が引き締まった。
しばらく歩いてから、側近が俺に尋ねた。
「良い情報、ありましたか?」
「……まあ、色々とな」
そう答えると、文官が目を輝かせた。
「さすがアレン様です!情報収集能力が高いですね!」
――褒められている気がしないのは何故だ?
それでもひとつ、確かな収穫があった。
王都へ着いたら、やることがひとつ増えた。
ため息をつきつつ、空を見た。
………「それなら、今夜どうかしら?」
もし――もし、この言葉が
彼女の唇から零れ落ちたのなら。
俺はどうしただろう。
指先を絡めて、夜の小径を歩いただろうか。
隠した想いが、そっと触れ合って、熱を帯びるだろうか。
……叶わないと知りながら、
心は勝手に走り出していた。




