新生活14日目(修正版)
翌朝。
太陽がまだ山の端にも顔を出していない頃、私はふいに目を覚ました。
……珍しい。
一人なのだから、もっとゆっくり寝ていてもいいはずなのに。でも、目が覚めるのはきっと元気な証拠だ。
「よし、今日は作品づくりを頑張ろう」
そう心を決め、井戸へ向かう。両手ですくった水はひんやりとして、とても気持ちが良かった。
畑を眺めると、胸がふわりと温かくなった。
マヤが作ってくれたこの畑のおかげで、私の毎日に、ちゃんと未来がある。昼には森へ行って、腐葉土を採ってこよう。もっと良い土を作ってあげたい。こうして今日の予定が、すっと決まった。
朝ご飯は、卵と雑穀とニラを入れた雑炊。
病人食みたいだけれど、栄養はしっかり。
……醤油が欲しい。大豆があれば、作れるのかな?
足りない分はナッツで補って、片付けを済ませる。そして作品づくりへ。今日はなぜか指先が軽い。集中力も冴えていて、いつもよりたくさん仕上げることができた。
「頑張った、私」
小さく呟いて、お昼は朝の残りをさらりと食べる。それから腐葉土採りの準備。掘る道具と、背負い籠。
孤児院の子供たちとよく行った森とは違う方向だけど、浅い場所なら、きっと大丈夫。
そうして、森へ行った。
腐葉土は、黒くて、ふかふかで、しっとりしている。豊かな森の恵みが、手のひらに伝わる。あまりにもたっぷりあるから、ついつい欲張って籠に詰めすぎてしまった。
……重い。
これを背負って帰るなんて、とても無理。
仕方なく、持てる量だけ残し、森へそっと返した。
「よいしょ」
籠を背負ったその時。目の端を、何かが飛び交う影が横切った。
……虫?
いや、もしかして――蜂?
まさかと目で追いかける。小さな羽の向かう方へ、自然と足が動いていた。
少し歩くだけで、木の洞にたどり着いた。
そこには蜂が群れ、巣がある。
じいいーーっ……。
「……どうしよう」
蜂蜜、きっとある。
甘くて、とびきり贅沢な宝。
でも……蜂が、こんなにたくさん。
怖い。
風の音と羽音だけが響く中、私はしばらく立ち尽くしていた。
私は、心を決めた。――蜂蜜を取る。
今の装備では無謀だと分かっている。だからこそ、一度帰る。腐葉土を背負ったまま、私は小屋へ駆け戻った。
雨の日用の厚手のフード付き上着を取り出す。フードの顔の部分に、薄い布をさっと縫い付けて、即席の面布にした。それから、手袋を二重、三重に重ねる。予備のミトンも装着。……これなら大丈夫?
道具も用意した。空の鍋、ナイフ。太めの枝に布を巻き、食用油を染み込ませる。埋火から火を移し、松明が完成。
「……これで、挑戦」
私は勢いに背中を押されるように、再び森へ駆けた。
蜂の巣の周りには、まだ多くの蜂が飛んでいた。近くの燃えやすい小枝や枯れ草を集め、風向きを確かめ、火をつける。
煙で、巣をいぶす作戦。けれど、なかなか煙が巣へ届かない。
……考えが甘かった?
焦りかけたその時、風がふっと揺れた。ゆらりと流れた煙が、ちょうど巣へと吸い込まれていく。
「……よし」
手のひらにじっとりと汗がにじむ。巣を注視する。
蜂の動きが――鈍い。
装備をもう一度確認。鍋を片手に、私はゆっくりと巣へ近づく。
蜂が飛んできて、手袋に止まる。刺されない。……いける。
私は思い切って、巣へ手を突っ込んだ。
――固い。
マヤのようにはいかない。指先の力が足りないのか。私はナイフを取り出し、巣にぐりぐりと刺し込む。そして再度手を入れると――巣がゆっくり動いた。
慎重に、鍋へと巣をはぎ取っていく。まだ奥に残っているけれど、全部取ってはだめ。
確か、女王蜂と巣の一部を残せば、また作ってくれるはず。
巣の一部を残し、私はその場からすっと離れた。鍋の中には、蜂付きの巣。蜂は、手で払っても、まだまだしがみついてくる。なんくいも、蜂を払った。
蜂の巣は茶色や黒っぽい部分があった。そして、この部分、きっと蜜だ。……多分。
火が完全に消えたのを確認し、巣を大事に抱え、小屋への帰路につく。
胸の鼓動はまだ速い。恐怖もあったはずなのに、それを上回る高揚感。夢の中を歩いているみたいだった。
小屋に帰りついた頃には、外はすっかり夕暮れだった。私は鍋をそっと置き、中身を覗き込む。
巣の一部が――薄い黄色。日本で見たことのある、あの色。六角形の小さなお部屋、一つ一つに蜜が詰まっている。
ナイフでそっと削り取り、口へ。
……甘い。
甘いよ。蜂蜜だよ。
本物の――蜂蜜だ。
喉の奥へ流れ落ちるその瞬間、胸がふわっと熱くなる。
「天にも昇る気持ちって、こういうことを言うんだ…」
夢見心地で噛みしめていると、部屋を形づくっていた壁が、口の中に固く残る。
味はしないけれど、確か、栄養はあるはず。
……もぐもぐ。ちょっと、しんどいけど。
「蜜だけが、いいな…」
小さくつぶやいてしまった。
本格的に蜂蜜を取り出すのは明日にしよう。
今日はもう充分がんばった。鍋に入れておけば、蜜が流れ出して少しは溜まるかもしれない。
夕食は、残りの雑炊を温めて食べた。そして――最高のデザート。
パンに、蜂蜜を塗って。
……甘い。幸せ。
食器を片付け、ベッドに潜り込む。今日の感動を胸いっぱいに抱えたまま――。
しかし、眠りにつく前、ふと考えてしまう。
もし、アレクシス皇子がここにいたら――
私と一緒に森へ行って、蜂蜜を採ってくれるだろうか。火を囲んで、同じように胸を高鳴らせてくれるだろうか。
「甘いですね」なんて、二人で味見をして、顔を見合わせて笑いあえたら。
そんな時間が、もしもあったなら。
――きっと、どれほど幸せだっただろう。
叶わないと、分かっている。
手を伸ばしても、届かない人。
それでも、心は勝手に夢を見る。
遠い空へ、そっと想いを手放しながら
小さくひとつ、ため息を落とす。
そして私は、静かな夜に身を預けた。
私はすぐに眠りに落ちた。
ーーー皇子視点
俺と側近、そして文官は、転移陣の淡い光の前に立った。旅の荷は最小限――と言いながら、文官の鞄だけは明らかに重量が違う。
中身はきっと、ぎっしり詰まった書類だろう。……あえて触れないでおく。
その他の荷物は、別に送られて王国に届く段取りになっている。皇国内をのんびり馬車で揺られるほど、暇ではない。
側近の用意した服に袖を通す。
鏡に映るそれは、どこにでもいそうな、品の良い“普通の貴族”。
少しだけ胸を撫で下ろした。
フリルや宝石で着飾られていたら……さすがに耐えられない。
「行くぞ」
短く告げ、転移陣に魔力を流す。
光が足元から立ち上り、視界が白に染まった。
王国との国境――関所の手前に、俺たちは転移した。
側近が小声で言う。
「こちらが身分証です。……アレクシス皇子、これからは“アレン様”とお呼びします」
まあ、好きにしろ。
任せると言った以上、従おう。
文官まで妙に真剣な顔で頷く。
「アレン様、ですか。……何だかよくお似合いです」
……どういう意味だ。
ふと、気がついた。視線が刺さる。
俺が何かしたか? いや、まだ何もしていない。側近も、視線を同じ様に感じているようだった。
側近が一歩前に出て囁いた。
「関所です。アレン様は……極力、喋らないように」
俺は黙って歩くことにした。
……側近が守衛と数言交わす。
ほんの数分で、俺たちはあっさりと通された。
「……何を話していた?」
俺が問うと、側近は微妙な顔で答えた。
「アレン様の滲み出る高貴さを……侮っていました。なので――“女性に恨まれ、刺されそうになって、お忍びで逃げている放蕩貴族”という設定にしました。そうしたら、すんなりと通してくれました」
…………俺をどんな人間にした。
文官は、何故か満足げに頷いている。
――お前ら、今夜は覚悟しておけ。
心の中で静かに、決意した。
こうして俺は――彼女が暮らしていた王国へと、足を踏み入れた。
魔道具は、皇国内では一度も彼女を示さなかった。もっと小型なら、持ってこれたのだが。青年には、小型化も進めるように指示は出したが。……泣きそうだったな。
皇国にはいない、それならばきっと、この王国のどこかで……彼女は今も息づいている、かもしれない。
同じ空気を吸い、同じ空の下にいる。
それだけで、胸の奥がじんと熱くなる。
――もし巡り会えたなら。
今度こそ、彼女の手を掴む。
……たとえ運命が試すとしても。




