新生活13日目
翌朝。
私は差し込む朝日がまぶしくて、ゆっくりと目を開いた。……身体が重い。昨日、慣れない畑仕事をしたからだろう。
それでも胸はすこし弾んでいる。
畑ができた喜びが、まだ身体の内側で小さく光っていた。
井戸で冷たい水をすくい、ぱしゃりと顔を洗う。眠気がすぐに引いていった。
そして、作ったばかりの畑へ歩み寄る。
黒い土が、朝日に照らされてきらきらしている。ここから野菜たちの命が育つなんて、考えただけで、にやけてしまう。
「早く元気に、大きくなーれ」
小さな願いを、そっと土に預けた。
朝ご飯は、野菜と雑穀の雑炊に、細かく刻んだ干し肉を入れて煮込んだもの。デザート代わりに果実をひとつ。滋味深い味が、胃と心に染み渡る。
今日の予定は決めている――保存食を作ること。病気になったとき用に、簡単に食べられるものを。私は材料を並べた。小麦粉、卵、植物油、塩。……砂糖は無い。やっぱり無い。
仕方ない。“塩ナッツクッキー”ということにしよう。煎ったどんぐり細かく砕き、卵黄、植物油、小麦粉、塩を入れて生地をまとめる。(卵白は捨てるのがもったいないので、あとでスープに。)
日本では量をきっちり量っていたけれど、今は手の感触が頼り。まあ、日本にいた時に何度も作ったから、あまり心配はない。
生地がまとまったら、小さな丸にして、平らにして天板に並べる。
「よし、焼こう」
薪を組み、火をつける。ぱちぱちと、小さな音が立つ。少しずつ、かすかな香ばしい匂いが漂い始めた
クッキーが焼き上がった。
オーブン代わりの鉄板を覗き込むと、薄い黄色のクッキーたちが並んでいる。でも――バターと砂糖がないせいだろうか。香りは、どこか物足りない。あの、甘くて夢みたいな匂いとは違う。
ひとつそっと手に取り、まだ温かいそれを口に運ぶ。
ざくり。
歯ごたえは、悪くない。少し香ばしくて、どんぐりの風味がほんのりする。でも。それは、私の知っているクッキーとは、別物だった。
日本で何度も作った、あの幸せな甘さには全く届かない。……私は肩を落とした。
けれど、これは――自分の力で作った、私の生活の味だ。
「……まぁ、いいか」
そう呟いて、もう一口かじった。
……このクッキーは、お酒を飲む人に合いそう。味見をしながら、ふと思った。塩味のクラッカーや、カリッと焼いたチーズのような――そんな方向性なのかもしれない。
日本は、何でも美味しい世界だった。
思い出すほどに、恋しくなる。
私は、クッキーをじっと見つめる。甘さはない。けれど、一応栄養は取れる食料品ができた――それは十分すぎるくらいに、ありがたい。
冷めたクッキーをそっと保存箱にしまい、お昼からは作品作りに取りかかる。ひとつ、ひとつ。丁寧に、心を込めて。
今日は私の瞳の色をしていたドレスに、はさみを入れた。深く、鮮やかな赤。懐かしくて、胸が少し痛む色。
『どうか、良い人に買われますように』
心の底で、そっと願いながら。銀色ので“N”の刺繍を少しずつ加えていく。そして――リボンをひとつだけ、自分のために作った。
アレクシス皇子の色を纏うだなんて。なんて贅沢で、なんて嬉しい罪。指先が軽やかに動く。気づけば、口元が自然と緩んでいた。
気がつけば、もう夕方だった。本当に、1日って早い。昨日、マヤが作ってくれた畑を見に行く。朝にも水をあげたけれど、小さな命にケチってはいけない気がしてもう一度、水を汲みに小川へ向かった。
苗にも、種の場所にも、たっぷりと水をあげる。きっと、ちゃんと応えてくれる。
少し成長したら、草むしりもしなきゃ。森に行って、腐葉土も手に入れよう。やるべきことが、次々浮かんでくる。
庭の隅に、野の花が咲いていた。そっと一輪だけ摘んで、小さな器に飾る。それだけで、家が少し明るくなった。
……明日も忙しくなりそう。
夕食は、朝のスープに野菜を足した。足りなく感じて、パンも齧る。ひとりの食事にも慣れてきたけれど――やっぱり、少し寂しい。話し相手は、器の中の花だけ。
風が優しく、夜が静かに降りてくる。
そうして、今日という1日が終わった。
---皇子視点
「王国に行く準備が出来ました。いつでも出立可能です」
あの子爵家の文官が面会を求め、開口一番そう告げてきた。……早いな。やはり、有能だ。
彼は間髪入れずに分厚い資料を差し出してきた。
「アレクシス皇子が同行してくださると伺いました。旅の途中、色々お話できるようにまとめておきました」
……旅の途中に、これを?
本気で言っているのか。冗談なら笑える。
「では、泊まる場所を手配しよう。それなりの護衛も必要だな」
そう言うと、文官は首を横に振った。
「現場を、そのままの姿で見たいのです。
身分を隠して行くことは……可能でしょうか?」
思わず側近を見る。側近は、少し考えてから言った。
「不可能ではありません。ただし、安全の保証は……」
「統治代行として赴くのなら、それくらいの危険は承知の上です」
文官の瞳は熱を宿していた。……良い人材を見込んだ。間違いない。
側近は続けた。
「皇子は放蕩貴族という設定で。予約もせず、ふらりと旅をする自由な貴族。我々はその供、ということでいかがでしょう?」
……俺が、放蕩貴族?
ぎぎぎ、と側近を見るとなぜか誇らしげに微笑んでいる。
「なるほど。素晴らしい案ですね。それなら人数も少なくて済むし、必要な物資は別便で王国に送っておけます」
文官は拍手でもしそうな勢いで頷いた。
「……だが、そのような服など持っていないぞ?」
「すぐに用意いたします。ご心配なく」
側近の返答は、やけに自信満々だ。
……嫌な予感しかしない。
こうして、王国への出立は明日と決まった。
放蕩貴族、か。俺にそんな真似ができるのだろうか――思わず言葉が漏れた。
それを聞いた側近は、なぜかとても爽やかに笑って言った。
「全く問題ございません。皇子はいつものままで、十分でございます」
……その笑みは、何だ。嫌味か、それとも本気か。判別がつかない。
「では、私は支度がありますので」
側近は颯爽と立ち去っていった。
残された俺は、深くため息をつく。
王国へ向かう実感は、まだ遠い。
――だが。
放蕩貴族という仮面があれば、
もし彼女に出会えたとしても、
肩肘張らずに声をかけられるのではないか?
「やあ、偶然だな」と。
何でもない顔で、近づけるのではないか?
会える保証など、どこにもない。
それでも、胸のどこかが期待を捨てきれずにいる。
彼女へ続く物語が、明日――動き始める。……そんな気がした。




