バグ、それは朝の挨拶
「……また、落ちてる」
私は、吐息と一緒に呟いた。モニターに映るのは、真っ黒なコンソールログ。赤く表示された「Segmentation fault」の文字が、朝のコーヒーより効いた。
デバッグ。
この世でもっとも地味で、報われにくく、それでいて必要不可欠な作業。
それを、朝イチでやらされる悲しみを、誰かと共有したかった。
だが、今の時間帯、会社にはまだほとんど人がいない。
唯一聞こえてくるのは、ビルの空調の唸りと、私のキーボードを叩く音。
「──おはようございまーす!」
ドアが開き、勢いよく声が響いた。
うるさい。
私は無言でチラと目線だけを動かす。声の主は──新人の西田翔太だった。スーツにリュック、髪が跳ねてる。毎朝寝坊してるとしか思えない寝ぐせ具合は、もはや彼のトレードマークだ。
「朝倉さん、おはようございますっす!えーっと、今日のタスクってどれからやれば……」
「Slack見て」
「っすね!」
このやり取り、今週だけで5回目。
たぶん来週もやる。いや、来月もかもしれない。
翔太は私の2ヶ月前に配属されたばかりの新人エンジニア。悪気はないが、容量はあまりよくない。わかっていても、彼の「元気さ」に朝から直撃されると、なんとなくHPが削られる。
私は再びエディタに戻る。目の前にあるのは、昨日の夕方にマージされた機能のバグ。とあるAPIのエンドポイントにアクセスすると、特定の条件下でアプリが落ちる。嫌な予感がした通り、原因は──
「あー……なんで例外処理、書いてないの」
これは私が書いたコードじゃない。真理か翔太か……いや、ログを見る限り、最後に触ったのは翔太らしい。
「翔太くん。これ、nilチェック抜けてたよね?」
「あ、え?マジっすか!? ……うわ、ほんとだぁ……」
目を見開く翔太。素直なのは良いけど、チェックしないのは問題だ。
「たぶん、ここの構造体、null入ってる可能性あるよって前も言ったよね」
「はい……すみません……修正します……」
こうして、今日も朝から一つ、バグが生まれ、そして潰された。
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「ふー……ちょっとコーヒー行きません?」
午後1時。
休憩がてら、フロントエンド担当の佐倉真理が席を立ち、私に声をかけてきた。
「……別にいいけど」
私はローカルのテストを回しながら、モニターから目を離す。
真理は学生時代からの友人だ。性格は真逆。口が悪くてテンポが早くて、でも裏表がなくて、結局なんだかんだ付き合いやすい。
「新人、翔太くん?あの子めっちゃ元気じゃない?」
「元気すぎて、逆に電池切れそうになる」
「わかる。てかさ、コードレビューでvarとlet間違えてるの見てちょっと泣いたよ。今の時代の子って、JavaScriptも読めないの……?」
「うちはGoとPythonがメインなんだし、JSは勉強中でしょ」
「凛、甘い。絶対甘い。っていうか最近、技術的に優秀でもチームワークできない人多すぎ問題ない? 逆に翔太くん、チームワークだけはあるからバランス取れてるけど……」
コーヒーを口に含み、私は小さく頷いた。
──真理の言うことも一理ある。
だけど、私にはわかる。翔太は伸びるタイプだ。
ポテンシャルがある。いや、というより……私の過去に、少し似ている。
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オフィスに戻ると、翔太はひたすらパソコンに向かっていた。
モニターの右上、チカチカと点滅するビルドのインジケーター。何度も試して、何度も落として、また修正してるらしい。
私は彼の背後に立ち、モニターを覗く。
「この変数、グローバルで使う必要ある?」
「……うわ、ないっす。あー、しかもこれ、ローカルにしても影響ない……!」
「うん。グローバル汚すと、バグの元だよ」
翔太はしばらく無言でキーボードを叩き、手を止めた。
「……朝倉さんって、ミスしないんですか?」
「するよ。いっぱい」
「うそだー」
「ほんと。ログの海に5時間潜ったこともある。バグひとつで徹夜もした」
「へぇ……そういうの、想像つかないっすね」
「今はね。だけど、あんたぐらいの頃は、ほんとひどかった」
翔太がふっと笑う。その笑顔に、少し救われたような気がした。
「じゃあ、俺も……そのうち、凛さんみたいになれますかね?」
「……目指すところ、間違ってないなら、たぶん」
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夜。
帰宅後、私はPCを開き、Slackをチェックした。チャンネルには翔太の報告が上がっていた。
・今日の進捗:バグ修正&テスト完了しました!
・朝倉さん、レビューありがとうございました!
・次はnullチェック意識します!
何気ない言葉だけど、成長の痕跡がある。
きっと明日も、またバグは出る。でも、それをひとつずつ潰して進むしかない。
──それが、私たちの仕事だから。
私はAIアシスタントのウィンドウを開く。
「ユニ、明日の天気は?」
「曇りのち、きっとバグです」
毒舌だ。けど、たしかにそうかもしれない。
明日も、バグと戦う一日が始まる。
でも──
そのたびに、少しずつ前に進んでいる。
たぶん、それでいい。