玉坐
〈中空の一點となりいかのぼり 涙次〉
【ⅰ】
雪川組で人事異動(?)があつた。
一介のヒットマンであつた牧野旧崇が、空席であつた若頭に抜擢されたのだ。
先日の、カンテラ事務所襲撃には、小者が2・3人着いて行つたのだが、例の龍の件、見届けた筈である。それと、関係があるのか、ないのか。兎に角、固めの盃以來の昇進が、その抜擢である事で、ヤクザ界に激震が走つた事は確かである。
歌舞伎町の、と或るクラブで... 昇進記念パーティが廣かれてゐる。すつかり大物氣取り、ならいゝのだが、牧野は縮こまつて、まるで他人の昇進であるかのやうだつた。ヒットマン氣質が、拔けきらないのである。
「頭、次ですぜ」「は、はい、いや、うむ」カラオケも儘ならない。『兄弟仁義』を歌つた牧野は、先代の若頭Tの事を思ひ出してゐた。【魔】に身を賣つた、Tである。
かうなると人間恐ろしいもので、牧野自身も、一歩【魔】に近付いた如く、彼の新しい部屋には、ルシフェルの遺影が飾られた... しかし、あれ以降、「龍」は現れない。だうやら、牧野の身に危険が迫つた時、彼は現れるらしい。謂はゞ、牧野の守護神なのだ。
【ⅱ】
さりとて、そのルシフェルは、今や魔界に、ない。その玉坐に坐る者は、今ゐないのである。
「いつちよ、俺が...」氣が大きくなると、牧野はそんな大望を抱いた。
カンテラの許にも、牧野の一大昇進の報は入つてゐた。テオ-「困つた事になりましたねえ。奴、絶對に、魔道に墜ちる羽目になる」カンテラは、外殻(=カンテラ)に入り、「その時」に備へてゐる。悦美は、「今度こそ、カンテラさんの身が危ない」との予感に、震へた。
女の勘は、当たるものである。カンテラ存亡の危機が、訪れやうとしていた...。
【ⅲ】
「俺は、あの『龍』に克つ事が出來るのだらうか?」一旦さう思ひ始めると、いかなカンテラと云へども、不安が不安を呼ぶ。カンテラは、己れのディレンマに、絡み取られてしまつたのだ。彼獨特の、冷酷さや野性、と云ふものが、日に日に衰へてゆく。
やつれた顔など、皆に見せられぬ、さう思ひ、カンテラは外殻に籠もりつきりになつた。呼んでも、出て來ない。リーダー不在の狀態が、カンテラ事務所全體を、不安に陥れた。
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〈この不安あの不安など思ひ病み私ハ一體何処ヘ行ツタノ? 平手みき〉
【ⅳ】
カンテラは、深夜獨り、己が太刀をしげしげと眺めた。「大分研いだので、痩せさせてしまつたな」-ふと、我が身が可笑しくなつたカンテラは、笑つた。己れの道は、己れで伐り拓くんぢやなかつたつけ? と一人ごちる。悦美が、ふと起きてきた。「カンテラさん、泣きたい時は、泣くものよ」カンテラの身にはしかし、泣く、と云ふ便利な機能が、ない。たゞ、邁進あるのみ、か。カンテラは、己れとの闘ひの、渦中にあつた。
【ⅴ】
そして、牧野はふかふかの玉坐を夢見、カンテラ事務所はヒーロー復活を夢見、夜は更けてゆく...
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〈ただいまと扉を叩くのは化け物かイエスと云ふは愚か者一人 平手みき〉
インタールード。悩みの時。カンテラにも、作者にも。