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まだ授業が始まっていない年明けの学校に、先生たちは来ているからと、門を開けてもらい、教室の暖房をつけ、しめしめ一人、広い教室を……。
「ほのか」
「おはよう、流子ちゃん」
先客。少し驚いた。
少しうねりのある流子の髪と違い、雪屋ほのか(ゆきや・ほのか)の髪はスッと縦に落ちたストレート。片耳を出して、そこに綺麗な銀のイヤリングをしている。指にも銀の指輪を二つ。手首にはカルティエのリストウォッチ。
耳にアクセサリーをつけるのも、指輪をはめるのも、腕時計が超高級なのも、下北沢ではお咎めの対象にはならない。
なんならアクセサリーがあった方が逆に清楚であることを、ほのかは証明している。
「ちょうどよかった、流子ちゃん。このベクトルの問題がわからなくて。先生に時間外労働を押しつけてもいいか迷っていたの。でも同級生は、同級生のために献身するべきよね? もちろんお昼をおごります」
「やったあ、天丼? 鶏? ハンバーグ? タイ料理?」
「天丼で」
「契約成立。どこがわからないの?」
教室の黒板に、流子は図を書いて説明する。
空間図形の中にメネラウスの定理が隠れていて、二人はそれを明らかにすると笑った。
流子は年末に結果が渡された模試の直しをする。
難関模試だったから、そんなに成績は良くなかった。それでも偏差値六十五は切らない。東大はB判定。京大はA判定。学年でも五指には入っている。流子は科目バランスよく得点できるのが強みで、判定が悪くなることはほとんどなかった。
ほのかは、ロッカーに入れていたミニスピーカーの電源を入れて、音楽を流した。
ほのかの選曲に文句を言う一年二組の生徒はいない。今日流れたのは中国のスマホゲームのサウンドトラックだった。
誰も聴いたことがないのに、厨二心の残滓を抱く高一の流子たちに深く突き刺さる。
誰も直接聞くことはないが、ほのかが中国語を話せることを、疑う同級生は一人もいない。
「あけおめー」
「白石君じゃん。あけおめー」
がらがらと扉を開け、教室に入ってきた蒼に、流子は顔を向ける。
「あれ、夕陽来てないの?」
「神代くんは、私が振りました」
ほのかがぼそっとつぶやく。
「雪屋さんに。それは手痛いな。ショックでどっか行ったのか。まあいいや数学やろ」
驚いてやることもない、ひんやりとしたジョークの交換。
蒼が「大学への数学」を取り出す。
「ねえ、白石君。学コン?」
雑誌「大学への数学」の誌上模試「学コン」に取り掛かる白石に流子は声をかけた。
「三条さんもやる?」
蒼はいそいそと黒板に問題を書く。
流子と蒼が時を忘れて「大数」の問題を解いていると、また一人教室にやってきた。
「おお、級長」
蒼が声を上げた。銘凛だった。
「あけましておめでとう」
凛はカバンを机に下ろすと、また教室の外に出ようとした。
「銘凛、コンビニ行く感じ?」
ほのかが聞いた。
「そうだよ。一緒に行く?」
「うん。流子ちゃん、白石くんも、何か欲しいものがあったら、買ってくるよ」
「ポテチ。みんなで食お」
蒼は手を挙げた。
「コンソメでいい?」
「いい」
「流子ちゃんは?」
「リプトンのミルクティー。ちなみに、不肖三条流子は、昔ポテチの塩分とミルクティーの糖分が中和して、カロリーがゼロになると思っていた時期がありました」
「とんでも理論だ」
「そうなんです」
「リプトン了解。ああ、ああ、そんなそんな。財布なんか出しなさんな。ポテチとミルクティーくらい、何でもなくてよ。銘凛が払います」
「え? 俺が?」
「当たり前でしてよ」
「まあ、いいけど。行こうか」
ほのかはコートを着る。凛と連れ立って教室の外へ出る。髪を耳にかけるのを忘れない。
わずかな間の後に、廊下で声がして、声音から夕陽が来たのだとわかる。
「あれ? 雪屋さんに振られたんじゃなかったの?」
蒼が教室に入ってきた夕陽にふっかける。
「告白してないのに振られた……。好きなのに」
「好きなのに」
流子は慰めモード。「かわいそうな神代君。学コン二問解いたよ」
「俺がかっこよく解くつもりだったのに」
夕陽はさらにしょんぼりしている。
「寝坊するのが悪い。というか夕陽より、三条さんの方ができるかも」
蒼がそう言うと、夕陽はあからさまに落胆した。
「雪だ」
流子は窓の外を見て声を上げた。
「本当だ」
蒼が続く。
「ほのかと銘は、雪の中か」
「なんで雪屋さんと凛が一緒なんだ?」
夕陽はほのかが好きという設定に忠実だった。
「傘持ってったかな?」
流子は夕陽へのレスポンスを省略した。
少し時間が経って、ほのかと凛が帰ってくると、雪がついて濡れたビニール袋一杯に、お菓子や飲み物が詰め込まれていた。
五本の様々な種類の飲み物を、その場に居合わせたクラスメイトに配り、みんなで乾杯した。
「今年もどうぞよろしくお願いします」
昼になると銘々勉強を切り上げる。荷物をロッカーに入れて、流子はほのかと一緒に天丼を食べに外へ出る。
男子たちは男子たちで「カレーを食いに」とのことだったから、ちょうどよかった。
下北沢に舞う雪は、手の甲でゆっくりと溶けていく。コートの胸や肩に、雪の結晶が付着する。
「天丼、特上でもいい?」
流子はほのかに聞いた。
「いいよ」
「やったあ!」
天丼を食べた後は、ヴィレッジヴァンガードを放浪し、行くと決めているいくつかの古着屋を回り、雪の中を傘一つ、二人でてくてくと下北沢を巡った。
ミカン下北の蔦屋書店で新刊や特集をチェックする。雑誌を手に取る。ファッション誌が充実しているし、Tポイントも貯めているから、下北に蔦屋があるのはとてもありがたい。
二時過ぎに、学校に戻る。
廊下で先生に出くわす。流子はぺこりとお辞儀をするだけ。
流子たちが教室に着くと、男子陣はまだお出かけから帰ってきていなかった。
音楽がずっと流れている。置き去りにされた文明の利器だった。
かつて糖塩中和反応を発見したと主張した流子は、置いてあったポテチコンソメ味をいそいそと開け、バリバリと食べ、リプトンのミルクティーにストローを刺し、ごくごくと飲んだ。中和滴定。
男子たちは五時になっても戻らず、流子とほのかは黒板に、「お先です」と書いて高校を後にした。
高校には流子たちしかいないわけではなく、気まぐれに登校している生徒の声が聞こえる。笑い声がところどころで漏れ、楽しそうにしているのが伝わってくる。
小田急に乗るほのかと別れ、流子は家路につく。
今日は模試の直しをして、塾の課題を片づけることができた。満足。