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 土曜日は、中学だけ行事があり、流子は先に高校を後にした。

 家で軽くシャワーを浴び、薄くメイクをして(薄くというのがポイント)、青のニットにベージュのコートを合わせた。それはもちろん下北沢で買った古着。男物だが、背が高い流子には抜群に似合っていた。

 いつもは結っている髪を下ろし、自然なうねりを残す。

 笹塚の駅のホームで待ち合わせすると、文継は私服で待っていた。

 流子は目をぱちぱちさせる。

「三条先輩、こんにちは」

「こんにちは……」

「期待通りの反応です」

「驚いた。服、持ってきてたんだ」

「はい!」

「びっくりするほど垢ぬけてる。見直した」

「ふふ、ありがとうございます。姉が気を利かせて用意してくれたんです」

「文継のお姉さんか。私より年上?」

「大学生です」

「少し年が離れているんだね。頭が上がらない」

「気にしないでください。姉がいることと、三条先輩を好きなことは、何の関係もないので」

 電車が到着した。

 服で膨らんだ学生カバンを探したが、文継が持っているのは、小さなトートバッグ。ちょうど今日の「本屋行」で買った本を収めるだけの容量。

「カバンは?」

「コインロッカーです」

「ぅ、やるじゃん」

 電車は地下に潜る。席に座ることはない。誰か座りたい人に譲る意味合いが一つ。でも、向かい合って話したいというのがもう一つだった。

 文継の白い歯が、まぶしい。流子の髪の香は、文継の鼻孔をくすぐる。

 文継の目から見ると流子は、快活さと明朗さを兼ね備えた、追いつくことのできない先輩。

 流子の目に映る文継は、素直で誰にも負けない元気を持った、端倪すべからざる後輩だった。

 新宿を過ぎ、京王線は都営新宿線に接続する。

 手をつないだりはしない。彼氏じゃないから。彼氏じゃないからというのもあるが、流子の感覚からすると、恋人がいても、人前で手をつなぎたいと思うかは微妙だった。

 お互いの心を重ねるために、手を重ねるという行為が、ともすると束縛であり、嫉妬の裏返しのように、今は感じられる。

 そういう呼吸を文継は気づいているのか、今のところ、お互いそういう風には踏み込まない。

 二人の間を取り持つのは憧れと敬意。それを支えるのは、誰を裏切ることもない学業だった。

 神保町に着く。水筒の水を飲む流子を見て、文継は軽く喉を鳴らす。流子はそれを見逃さない。妹がいるから、よくわかるのだ。

「喫茶店行く? おごってあげるよ」

 文継はうなずく。払いますだの、すみませんだのは言わない。おごられるものは、神妙にそれを受けるに限る。そもそも文継に会計をする権利はない、とまで流子が考えているわけではないが、流子と文継の「関係に依存した取り決め」はいくつもいくつもある。これもその一つ。

 午後三時半。

 ホットココアとガトーショコラを仲良く二人前注文し、流子はゆっくりと食べる。先に食べ終わって手持無沙汰に何とか話題をしぼり出そうとしている文継を見るのが、流子の大好物だった。

 流子がどんな表情をするかによって、文継は言葉を変化させる。ありきたりなことを言うこともあれば、流子を驚かせることもある。胸を貸すというように、流子は文継の変化を読み、返事をする。適当なタイミングでココアを飲み、視線を外すと、その視界の端で文継が口をパクパクさせて、気持ちをはやらせるのが見える。それは極上のお茶請けだった。心中でにまにまが止まらない。

 女の子の可愛さに萌えるのなら、男の子の健気には「くすぐられる」。

「くすぐらないで」

「そんなことしてないですよ」

「なんか、笑っちゃうわ」

 ガトーショコラの載っていた皿に、小さいフォークをカランと投げる。

 流子がお手洗いに行っている間に、文継は氷の溶けた水を一口飲む。

 店内に飾られた絵を見るが、何を感じ取ることもない。

 自分が矮小な存在なのではないかと危ぶむが、文継の常識は、つぶやく。「全てを目の前の偉大な先輩と比べるからいけないのだ」と。

 流子は会計を済ませ、二人は喫茶店を出る。

「目標は?」

 流子が文継に聞いた。

「面白い海外文学」

「どうして海外文学なの?」

「読みやすくて」

「逆じゃない? 文継は翻訳文体が好きなの」

「はい」

「例えば?」

「フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』」

「それは村上春樹訳が絶妙ってことじゃない?」

「そうかも」

「そうだよ」

 流子は村上春樹作の小説を今までに二作品読んでいた。一つは『風の歌を聴け』で、もう一つは『ノルウェイの森』だった。

 大学を卒業するくらい成熟した男女がこれほどまでに奇妙で愚かなのだ。未体験のモラトリアムを、尖った都市文学から読み取る。奇妙で愚か。それをうまく自分の元へスライドさせて比喩として受け取ることができないから、流子は村上春樹がそんなに好きではなかった。

「三条先輩は?」

「内田樹。はまってるの。それに付随してレヴィナスも。悔しい。だって面白くて……」

 文継は「何言ってんだこの人?」という奇異の目を向けたが、「そういえば内田樹の著作に『村上春樹にご用心』ってありましたよね」と続けた。

「村上春樹、読んでる?」

 文継は、それはもう目を輝かせて、『海辺のカフカ』、『ねじまき鳥クロニクル』、『1Q84』の話を膨らませる。

 世間に劣後することがどういうものか、好きな人ともう会えない時どんなことを考えるべきか、冷たさが失われた生ぬるい孤独とどう戦うべきか。

「『街とその不確かな壁』読んだ?」

 流子は文継に聞いた。

 文継はとても恥ずかしそうに、「読みました」と言った。

「村上先生には申し訳ないけど、私はタイトルの『街』は『街路の街』じゃなくて『町内の町』の方がいいと思った」

「三条先輩は読んだんですか?」

「ううん」

 文継の目が「はぁ? それなのに街路とか町内とかぬかしてんのかよ」と語っていた。でもあまりにもあっさり流子が白旗を上げるものだから、追及することができなかった。

 でも、文学少女を称するために村上春樹の最新作を取り上げることを、流子は禁じえなかった。

 東京堂書店で、二人は日が傾くまで過ごした。

 小さい声で、驚きや共感を交わすと、正真正銘の笑みが花を咲かせた。

 流子と文継の距離はあくまでも近く、まるで恋人同士みたいだった。

「文継。ご飯、一緒に食べる?」

「ぜひ」

「幡ヶ谷でいい? 私この世で一番やりたくないことが、新宿とか渋谷で一見のレストランに入ることなの」

「先輩らしいですね。幡ヶ谷、僕は詳しくないです」

「スパゲッティ。きっと気に入ると思うよ。あ、おごるのであしからず」

「はい!」

 京王新線の幡ヶ谷駅。地上に上がって六号通り商店街を歩き、路地を曲がったところにあるスパゲッティ屋さん。

 まだ夜には早いから、並ばずに入れた。カウンターに通される。

「二人です」

 流子が、少し神妙に人数を告げた。

「彼氏?」

 マスターが聞く。

「違います」

「後輩です」

 文継が答えた。

「認識は一致しているんだ」

「ええ」

「今日は何にする?」

 マスターが聞く。

「牡蠣とほうれん草のペペロンチーノ」

「僕は、タラコとウニとイカのスパゲッティです」

「はいよ。彼氏の方は、大盛りじゃなくていい?」

「彼氏じゃないから!」

「大盛りで」

 大人にくすぐられまいとする気持ちが露わになって、文継の声はうわずった。

 マスターは笑顔を見せて、何回かうなずいた後、スパゲッティを沸騰する鍋に入れ、茹で始めた。

「後輩君も、下北沢なの?」

 カウンター越しに聞く。

「そうです」

「どこに住んでんの?」

「高井戸です」

「井の頭線」

「そうです」

「後輩君、流子は頭いい?」

「それはもう」

「そっか」

「あり得ないくらい課題やってますから」

 流子が水を飲みながら、少し肩を上げる。

「東大行けそう? お父さんも期待しているんじゃない?」

「うちは、緩いですから期待とかは。……でもそれは、……実桜かなー。実桜の方が要領いいし」

「実桜は頭いいよな」

「むかつくくらい頭いい」

「でも、流子の方が努力してんだから。大丈夫だよ」

 そう言われると、本当にそんな気がしてくる。努力していることを認めて、それを口に出して励ましてくれる人は少ない。家族を知って、その中の個人として自分を見てくれて、長い間お世話になっている。それはとても稀有なことで、流子は感謝するばかりだった。

 スパゲッティが出来上がる。

 いつもはゆっくり食べる流子も、牡蠣を見て唾液を飲み込み、ニンニクの香りを吸うとがつがつと食べ始めた。

「三条先輩は、ここよく来るんですか?」

「よく来るってもんじゃないよ。塾帰りとか、隔週で来てるね。私のルーティーン。①六号通り商店街の洋食屋さん。②ここ、スパゲッティ屋さん。③幡ヶ谷駅上のカレー屋さん。④水道道路沿いの中華。家族とは、モンゴル料理屋さんとか、駅の傍の小路にある洋食屋さんとかも行く」

「幡ヶ谷が好き」

 文継は、平叙文を読み上げた。

「うん!」

「お菓子あげる」

 マスターが珍しいチョコレートをくれた。

「お会計、流子が払うの?」

「先輩なんで」

「そういう設定なんだ」

「お小遣いはうち、無制限なので。……良くないですよね」

「女の子ってそんなもんじゃない?」

「そう言われると、ほっとします」

「そうでもないと、彼氏はうちに来てくれないしね」

「彼氏ではなく、後輩です」

「でも、好きなんでしょ?」

「そういうのは物事の一側面ですから」

「物事という言葉を久しぶりに聞いた。また来て。後輩君もね」

「はい。ごちそうさまでした」

 文継は、深々と礼をした。

 幡ヶ谷駅まで文継を送る。流子は途中コンビニでホットミルクティーを買い、文継に渡した。

「今日は寒いから」

 文継は頭を下げた。バランスを崩している二人の関係は、まるで純文学の世界の中にあるみたいに、空間を埋めつくす物質的な恩恵に浴し切っていた。そんな中でうまくかじ取りをしているのは、実は流子ではなく文継だった。

 文継は卑屈にならない。与えられすぎても腐ることがない。文継の器は、深くて底が知れず、流子がそこに愛情を注いでも、注ぎ過ぎるということがなかった。

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