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京都の鴨川沿いにあるホテル。
正月の帰省で父親はホテルを取った。母親と実桜は母方の実家に帰ったが、流子は父親と京都に逗留した。
冬の京都は山に雪が積もり、白い雲波がどんよりと空気を沈滞させていた。
ちらちらと平地でも雪は降る。でも積もることはなかった。
「京大でも見ていくか?」
流子は父親の言葉に笑うと、ベッドから飛び起きてダウンコートを着こんだ。
正門から入るとちょうど大学職員と思われる人たちがでかいタテカンを撤去しているところだった。流子は今時の女の子らしく即写する。
「お母さんがいたら、案内してくれたかもな」
「お母さんに京大見学したって、絶・対・に・言わないで」
「わかってるよ」
父親は流子の頭を撫でた。
「お父さん、私もうすぐ十七歳だよ?」
流子は父親に振り返って安心して緩んだ顔を見せた。
鴨川を歩く人々が、どこまでも深い沈潜と思索をしているように目に映る。
「お父さんは、大学受験の時、どんな風だったの?」
「君は笑うだろう。東大に行きたかった。理Ⅲに行きたかった。何の理由もなく、最高学府の頂点、日本の100番に名を連ねたかった。そう言ったら、流子はどう思う?」
「バカなんじゃない? って言うと思う」
流子は笑った。自嘲的でもあり、挑戦的でもあり、かつ和やかなせりふだった。
「君には、僕の言った言葉の意味がわかるんだな?」
「お父さんもお母さんも、含蓄がありすぎるのがよくないね」
しろさぎが川にたたずんでいる。
「お父さんって、京医なの?」
「そうだとしたら?」
「あんまり理Ⅲと変わらない」
「東大も京大も、私からすると変わりがない」
「ふう」
「僕がどこの医学部を出たかは、どうでもいいことだ。君の思考の枷になってはいけないからね」
「お母さんも口を割らない?」
「少なくとも、流子と実桜が卒業するまでは、話題にも上らない。今日のは、流子へのささやかなサービスだよ」
雪が止み、雨粒が落ちてきた。
「寒いね」
「京都は盆地だからな」
ホテルに着くと、流子はシャワーを浴びた。上がると、デスクライトをつけて勉強する。
流子の勉強への思いは、簡単には言いつくせない。帰省先、ホテルの机でペンを走らせることに、どれだけ心血を注いでいるのか、父親でも理解はできなかった。大切なものを守るために……身につける言葉や知識が、誰かを守ることを予感して、流子は勉強する。父親と母親のことをよく知っているから。言葉や知識で、お金を稼ぎ、家族という船の行先を定め、娘二人をもうすぐ世に送り出す。
背筋が伸びて、綺麗な座り姿で、ペンを走らせる音がする。
父親は、ベッドの上でコントラクトブリッジの教本を読みながら、夏に見た流子と今ここにいる流子が同じ存在であること、そして時間のもたらす変化のきざしに、静かに感じ入っていた。
何時間経っても、流子は椅子から立ち上がらなかった。
「流子、レストランに行こうか」
「あと、一問」
「それ、一時間かかる一問だろ?」
「お父さん、好き」
「わかるよ、それくらい」
「ほら、恋人のLINEにも返事をしてやらないと」
「恋人なんていませんが?」
「実桜みたいなこと言うなよ」
「実桜と同じとは思われたくない」
「大切なものを、置いていくなよな」
流子は、父親の言っていることが、よくわからなかった。父親が、想像の上で文継のことを言っているのは、なんとなくわかる。でも「大切なもの」なんて、どこか過剰な表現だと流子には感じられた。
「大切なもの?」
「過小評価するなよ。大学受験の方が、君の気持ちより大切だなんて、思わなくいい」
「?」
「わからないならいい。ところで、私も一時間でこの本を読み終わる」
「お父さん、そういうところ、女の子にもてたでしょ?」
「さあな」
流子は勉強を切り上げると、京都の写真をいくつか文継に送った。
レストランで食事を食べる。父親が「実桜とお母さんも来るらしい」と言った。
神戸から実桜が来ると、流子と実桜はホテルのカフェで、コーヒーを飲みながら一緒に勉強した。
いくつかの先輩としての流子の助言は、実桜にとって有用であるがゆえに、諸刃の剣でもあった。
「やっぱお姉ちゃんはさすがだなー。整数問題に対する造詣がこんなに深いってことあるんだ」
「それほどでも」
「やっぱ東大模試A判定は違いますねー」
「そこだけ切り取ると嫌な奴みたいじゃん」
「お姉ちゃんはもっと傲慢になってもいいと思うよ」
「そう?」
「だって、頭いい人が偉いのは、当たり前だから」
「そんなもんかね」
「謙虚が美徳とは限らないでしょ?」
小腹が空いて、サンドウィッチを二人で食べる。正月のホテルのカフェで勉強をするのは、もしかしたらマナー違反なのかもしれない。
でも流子の凛とした雰囲気と、実桜に漂う不思議感が、二人に対する周囲の印象を和らげていた。家族連れや老夫婦なんかは、三条姉妹を見て気恥ずかしそうにしている。
「頭がいいのが自分のためなら傲慢になってもいいと思う」
流子は言った。傲慢な塾生を念頭に置いて。
「そういう派閥の人ね」
実桜は、もぐもぐとサンドウィッチを食み、からしで鼻をひくつかせる。
「実桜はそれを、《綺麗事》だとは思わないよ。お姉ちゃんのことはよく知っている。《かっこつけている》んじゃない。《かっこいい》って。そういうことでしょ?」
実桜は流子を見ずに、サンドウィッチをかじる。流子は、からんと氷が溶けた水を飲み、それから笑った。白い歯がのぞく。
流子は、実桜と部屋に戻る。実桜が皐月と電話するの聞いて、文継に電話したら、どんな顔をするだろうと想像した。
理由もなく電話をかけたら、変だろうか。
ちょうど文継から写真の返事が来て、流子は思い切って電話をかけた。三コール目に文継は出た。声を聴いて思わず部屋を出た。
「先輩?」
「三条だけど」
「どうしたんですか?」
「理由がなきゃ、電話しちゃダメ?」
「年上の女の人に、そんなこと言われて、まともでいられる男は、どこかおかしいと思います」
「ふふ。文継はいつも、言葉が綺麗で」
「京都にいるんですか?」
「そうよ」
「寒くないですか?」
「ホテルはあったかいから」
「ご家族と?」
「ええ」
「鴨川って京都でしたっけ?」
「鴨川沿いのホテルに泊まっているの。送った写真は川辺のしろさぎ。…………文継は、よく質問するね」
しばらく間があった。文継が言い出すのを、流子は電話口で待った。
「知りたいだけです、先輩のことを」
「私は、文継のことを知らなくても困らない」
「それは残念です」
「勘違いしないで。文継に興味がないわけじゃないの。いい質問が浮かばないだけ」
「ご実家、京都でしたっけ?」
文継はふいにコミュニケーションの道筋を変えた。
「いや、神戸だよ。母方はね」
「観光ですか?」
「そうね。そうみたいなもの」
「京大に、行くんですか?」
ぞくっとする。流子は文継の声が暗黙裡に自分を批判しているのかと錯覚する。
「え、ええと……」
「どうでもいいことでした。すみません」
「そんな、どうでもいいなんて、そんなこと……ないかも」
「どうでもいいですよ、先輩の進学先なんて」
文継の声が冷たく響く。京都の冬が、まだ暖かいと思えるくらいに、凍てついていた。
「文継は、東大じゃなきゃ意味がないと思うの?」
流子は自分で言ったその言葉のぬかるみに、足を沈ませた。ケチがついた。唾液が喉に絡み、声が上手く出なかった。言わなきゃよかったと痛烈に後悔する。
「進学先なんてどうでもいいと言ったのは、それが先輩の魅力の何をも減じることがないと、言いたかったからです。環境的に先輩がハイブランドにしか目がないのはわかりますが、下北沢の誰もが、東大や京大に行けるわけではありません。僕を、傷つけないで欲しいものです。先輩ほど、成績がいいわけではないですから」
流子はしばらくしびれていた。
文継の冷淡な態度、鋭い言葉遣い、抱えている流子への敬意、そしてしっかりしたバランス感覚が、一気通貫に流子を説得し、納得させようとしていた。
流子ほど成績が良くない。それが事実かどうか、流子は確かめるすべを持たない。
言葉を流麗につむぐために、方便としてそれをつかったのかもしれない。
それらすべてのレトリックの頂上に、流子の魅力を掲げたことは、端倪すべからざるものがあった。
「あ、あのさ。文継。私、文継が好きだよ」
「ありがとうございます。来年も、再来年も、その先も、そう言ってもらえるように頑張ります。京都、楽しんでください」
電話は切れた。
ふらふらになりながら部屋に戻ると、実桜が不思議そうな顔をして出迎えた。
「お姉ちゃん、ふらふら」
「男の子って、どうしてこう……」
「彼氏?」
「男の子!」
「翻弄される?」
「感心するの」
「それは、お互い様だよ。お姉ちゃんに感化されない男の子はいない。なんたって、実桜の自慢のお姉ちゃんだもん。お姉ちゃん知らないの? 男子って女の子の前ではかっこつけるものなんだよ?」
あれ? なんて言った? 私、なんて言った? ……実桜の声と同時並行で、流子の脳裏でさっきの文継とのやりとりがリフレインする。
「私、文継が好きだよ」
え、え、え? そんなこと、私、私、言ってよかったんだっけ?
流子は、ゆっくりベッドに体を横たえて、枕に顔を押しつける。足がばたつくのを抑えることはできない。
「お姉ちゃん、なんかあったの?」
「なんもない! なんもないからぁ!」
流子の電話が鳴った。バッと飛び起きて応答する。
「もしもし?」
「こんばんは」
しばらく、流子はその声の主が誰かわからなかった。
LINEの画面に映る「多賀朋子」という名前も、さしあたり記憶しているものではなかった。でもLINEの友達ではあるのだよな。……と、しばらく考えていたら、電話口でくすりと笑う声がした。
「覚えてないんやろ? 流子のお母さん神戸に来はったって、うちのお母さん言っとったから、流子来とるんかなって」
「関西弁だ」
「そうね」
「せやな、じゃないの?」
「ちょっと茶化しただけ」
流子の母親の高校の同級生の娘。大阪城高校の才媛。
「今、私京都よ」
「へえ。いつまで関西に?」
「さあ」
「さあって、笑わせて、困るわ」
「朋子、受験?」
「そう」
「どこ受けるの?」
「東大」
しばらく流子の思考は停止した。……「文科? 理科?」
「理Ⅰ」
「東京に来るの?」
「そうね」
「京大に行く彼氏は?」
「さあ?」
「さあって……」
「受験終わったら暇だから、東京見物付き合ってよ」
「そんな、軽く言わないでよ」
流子の声が高く響いた。実桜はびくっと体を震わせる。
「共通テストが終わったら、宿取るから。また連絡する。東京の知り合いは少ないの。細い糸でもたどってしまう。流子、ごめんね。いい正月を」
電話は切れた。
「なによもう。みんなして私をいじめて」
今度はぷんすかと枕に当たる。
「ねえちゃ、もう寝るぽよ」
「悔しいから勉強する!」
「実桜もうねえちゃには付き合ってられん。寝るぽよ」
「おやすみっ!」
「ねえちゃ、怒るでない。感情に囚われることなかれー。おやすー」
音のしないホテル、月明かりを拝みながら、指で英文をなぞる。
時間を忘れ、ただ自分が時間の中で、何かを吸収する音色が、心臓で感じられる。
辞書を引き、赤ペンで訳語を充てていく。
冷蔵庫からコーラを取り出し、抜栓し、コップに注いでごくごくと飲む。
雪が鴨川の川面に消えていく。
「お姉ちゃんはさ、人生の最大の目的って何だと思う?」
実桜はこちらに背を向けて、まるで寝言のようにぼんやりと流子に聞いた。
「実桜は、どう思うの?」
「お姉ちゃんは、きっと、他愛のないことを理由にするんだろうな。…………私の人生の最大の目的は、《お姉ちゃんの妹であること》だよ」
「なんじゃそりゃ?」
「実桜は本気だよ。本当にそう思ってる。それくらい、お姉ちゃんは偉大なんだから」
「そんなの、生まれた時から、目的達成じゃん」
「お姉ちゃん、現代文できないでしょ。《お姉ちゃんの妹であると誇れるため》に、私がしなくてはならないことは、お姉ちゃんの偉大さに根拠がある。お姉ちゃんが単に頑張り続ける人であるなら、実桜も単に頑張り続けなくては、…………はは、実桜、酔っちゃったのかな。寝言です。気にしないで」
流子はポニーテールに留めていた髪をほどいて、パジャマに着替えてベッドに入った。
嬉しくてたまらなかった。宇宙が自分の中に吹き込まれるような、充足感があった。眠ったら忘れてしまうことなのは、わかっていた。それでも、この京都の時間はときめくほど、価値があった。
「お姉ちゃんは謙虚だからたちが悪い。はばたけばどこにでも行けるのに」