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 塾へ行く道は、寒々としていた。

 塾の開始時間まで、流子は青山ブックセンターで時間をつぶしていた。

 最近流子は建築にハマっていて、そのモダニズムの思想を著した建築家の本を、手当たり次第に読んでいた。建築の本は、青山ブックセンターの得意分野でもある。大きな図集や建築写真集が、ずらりと並んで威容を誇る。

「あったかいや」

 流子は本屋でぬくぬくしている。

 ゴロゴロと雷が上空で居座る。

 ざざあと雨が降る。

 塾に行くためには雨の中、雷の下を歩かなくてはいけない。

 しばらく様子をうかがっていた流子も、諦めて傘を差し、雨でスカートを濡らした。

 塾が終わると暗闇の空に、街の光を反射して薄く見える雲が浮かんでいた。雨は止んでいた。

「お姉ちゃん、新宿でご飯食べない?」

 実桜が珍しく流子を誘った。

「いいよ。今日はお母さんもお父さんも遅いもんね」

「そうそう。まあ、実桜が渋谷に出てもいいんだけど」

「新宿、何口待ち合わせ?」

「紀伊國屋本店」

「ああ、それがいいね」

「実桜、マンガを見ておりますので」

 流子は山手線で新宿まで移動する。

 単語帳をめくっているとあっという間に新宿に着く。

 東口に出て、人垣を抜け、五分とかからない場所に紀伊國屋はある。

「そういえばさっきも本屋にいたのに、また本屋か」

 エレベータを使わずに、階段で八階まで上がる。

「実桜」

「お姉ちゃん。待ってて、『ハクメイとミコチ』買ってくる」

 実桜は手に持っているマンガを流子に見せる。

「塾は順調?」

「まあね。お姉ちゃんは?」

「ほどほどだよ」

「実桜、少し背が伸びた?」

「お姉ちゃんほどではないにせよ、少しは私の背骨にも頑張ってほしいものです」

「何食べる?」

「新宿でしか食べられない……あ、高島屋は?」

「鰻?」

「いいですねえ」

「お母さん、きっと私たちの金の使い方知ったら怒ると思うよ」

「その時はしょんぼりしてます。フェルンに怒られるフリーレンのように」

 流子は三秒考えた。

「じゃあ、鰻にしようか」

「やたー」

 ダッフルコートを着て、マフラーを巻く流子と、大きめのダウンジャケットを羽織る実桜は、装いも、そこから想像される性格も異なっていた。

「お姉ちゃんはクリスマスどうするの?」

「どうって?」

「その、あやつぐさんと一緒に過ごすの?」

「文継にも予定はあるよ」

「そう? お姉ちゃんが一番なんじゃないの?」

「だといいけどね」

「実桜は?」

 実桜はそれを待ってましたとばかりに、皐月とのクリスマスデートの予定をつまびらかにした。安心しきってあまりにわちゃわちゃと話すものだから、流子は笑顔を浮かべて聞き流すほかなかった。

 鰻を食べて、バスタの前を通り、ふと実桜が「このままバスに乗って、どこかへ行ってしまったら、私はどうなるんだろ? お姉ちゃんはどう思う?」と聞いた。

「どうなると思う?」

「ええと……」

「警察を呼んで、実桜を探す」

「そっか」

「それはでも、心配だからでも、愛しているからでもないよ」

「?」

「私がそれを許さないってだけ」

「どういうこと?」

「どこかへ行きたくて、どこかへ行ってしまえる人生は、私から最も遠い理想だから」

「そういうことね。相変わらずお姉ちゃんは自分に厳しいな」

「私は、実桜がどこかへ行ってしまったら、いつまでも帰ってくるのを待っていると思う。それは愛しているからでも、寂しいからでもない」

「姉として当たり前のこと」

「そう」

「お姉ちゃんはさすがだなー」

 流子と実桜は京王新線のプラットホームに下りていく。

 間を置かずに電車は来て、姉妹は二駅先の幡ヶ谷で降車する。

 幡ヶ谷六号通りを歩いていると、ちょうどバーから上がってきた両親とばったり会って、両親の夫婦仲の良さを適度にいじりつつ、家に帰る。

 家の鍵を開けたのは実桜で、鍵を閉めたのは流子だった。

「今日は何食べたの? 二人でサイゼリヤ?」

「そ、そうなのです」

「サイゼだよお母さん」

 慌てふためく姉妹。

「鰻のにおいがする」

 父親は言った。

「気のせいじゃないかな」

 流子はにこっと笑顔を向けて白を切る。

「いいのよ実桜、先に口を割った者は無罪にする取り決めがあるから、正直になった方が、あなたのためなの」

「鰻だったぽよ。高島屋で食べましたのだ」

「流子?」

「知らない、実桜はミラノ風ドリアが鰻重に見えたのかもしれない」

「流子、正直に話したらお小遣いは減らさないでおくわよ」

「鰻だったぺこ。高島屋で食べましたのだ」

「あんたたちねえ」

「すみません」

 流子は苦々しい顔で謝罪した。実桜は早々に場から去り、自室へ避難。

 流子は、リビングでお茶を飲んだ。

 自室の暖房が本格的に動き出すまでに、酸味の混じる茶で口を洗う。

 母親が茶菓子を用意するから、流子は母親と久しぶりに差し向かいで話す。

「流子、本当に東京の子ね」

「やっぱり神戸とは違う?」

「あんたはすごいよ。こんなこと、私が言っちゃダメなのかもしれないけど」

 母親は嘆息した。それは、幸せが少し含まれたため息だった。

 流子はそれが何で言っちゃダメなのかわからなかった。母親が何を考えているか、流子に明らかなところはなく、単に平板なお世辞か、定型的な文句なのかと勘違いする。

「すごくないよ。実桜の方が」

「お父さんはそう言うかもね。でも、流子の責任感は、能力としてではなく、なんというか、倫理的な成長を感じずにはいられない」

「責任感? それ、小学校の通信簿に書いてあるやつじゃん」

 母親は笑った。

「それくらい、大切な資質なんじゃない?」

 流子はその突き放した言い方も、よくわからなかった。というか、こんな風に現れる母親の屈託の理由を、流子は知らない。

「お嬢様だよ」

「素敵なことじゃない、私もそうだった。それが悪いことだって思っていた」

「お嬢様は悪いことだよ」

「流子の生き方に疑問符はつかないわ。たとえ、お嬢様だったとしても、それは物事の表面に過ぎない。単なるステータスとして、お嬢様だとしても、流子の本質は、そう、複雑で味わい深いと思うもの」

「それはどうして?」

「私に理由を聞く?」

 母親は人差し指を返して、流子に向けた。「理由は流子に属しているのよ?」

「怖いよ、お母さん」

 流子は笑った。乾いた声だった。喉を鳴らす。答えを聞きたくてたまらないけれど、流子は母親に改めて問うことはしなかった。

「理由がないんだろうなって、思うから、私はあなたが好きよ」

「理由がない? 生き方に理由なんてないでしょ」

 母親は神妙にうなずいた。「そうね」と言う。うっとりするくらい美しく唇を動かした。ミステリアス。流子の母親のその魔術に、父親は惚れ込んだんだろう。

「理由って、間違えないためにあるの」

「それは数学の定理だったりするの?」

「一つのレトリックよ」

「間違えたことなんて一度もない。恥ずかしい思いは、そりゃ何度もしているけど」

 流子は冗談めかして言った。少し論点がずれたかと思い、流子は座り直して母親の言葉を待った。

「理由を並べて間違えないより、並べた理由より多くの失敗をしてほしい。たぶん、あなたに東大は無理よ」

 流子は目を見開いて立ち上がった。椅子が音を立てて後ずさった。

「どうして?」

 流子は自分が今まで出したことのない声を出した。牙をむいた獅子の如く、いつでも母親を薙ぎ払う準備ができていた。恐ろしく冷たい顔だった。

 母親はしばらく答えなかった。

「どうしてか教えてよ。お母さん」

「実桜は東大に行く。あなたは違うわ」

「だからそれは……」

「逆に聞くけど、流子は東大に何しに行くの?」

「…………」

「別に理由がないのなら、東大でなければいけない理由も、ないってことでしょ?」

「お母さんは京大に行かせたいの?」

「あなたはレースを勝ち切る子じゃない。他人との競争をして勝って負けて満足するならどうぞ? でも私は、あなたがあなた自身の人生を歩む人に見えるだけ」

「レース?」

「他人より勉強ができることを誇る子じゃない」

「バカってこと?」

 流子は研いでいた牙を、初めて母親に見せつける。ギリギリとこぶしを握る。流子の出す気迫は、母親を気脅すには十分だった。母親は唇をわずかに震わせる。

「不自由するでしょう? 化け物みたいな妹を後ろにして。姉ではなくて、《私》を生きてほしいと思うの」

「それは、私には、見込みがないってこと?」

「あなたの人生を、どう生きるかはあなたの自由だけど、……」

「実桜には勝てないって言いたいの?」

「勝てない。間違いない」

「失敗作ってことよね」

「東大に行きたいなら行けばいい。そこにあなたの豊穣な人格はちっとも寄与する余地がないと思うだけ。あなたは、よく練れた子だから…………」

「それが、お母さんの、娘に言うべきことリストの最上段にあることなのね?」

「どうか、意固地にならないで」

「意固地になんてならないよ。なるわけないじゃん。だって私は東大模試、二年でA判定なんだよ?」

「そうね。あなたは私より頭がいい。でも、母親として」

「母親として? 何それ、つまり、私のことを自分と同じ次元に引きずり下ろしたいんでしょ?」

「流子、勘違いし、……」

 バリンとガラスの割れる音がした。流子の右手がグラスを割った音だった。

 母親は固まったまま、流子を見つめていた。

 流子は、ギリギリと歯を喰いしばり、今にも爆発しそうだった。

「勘違いするなよな? こっちのせりふ。私を貶めて、実桜より劣後しているなんて、誰が言い出したのか知らないけど、そんなこと、私受け入れられない。京大の方が個性的? 人生が充実している? 誰が言い出したの、そんなこと?」

「理由がないのなら、京大に行きなさい。グラスは片づけておくから、よく考えて」

「そんなの、最初から返事は決まってる。こんな言われ方して、京大に行きますなんて、お母さんだったら言えるの?」

「あなたのプライドは一流よ」

「いちいち障らないで。イライラする」

「私はあなたの人生の掘り下げ方が好きよ。遠くにいた方が、私たちから離れた方が、あなたの人生に資すると思う」

 父親がいつの間にか流子の背後に立っていた。

「流子」

「何?」

「寝なさい」

「言われるまでもない」

 流子は今まで一度も出したことのない冷淡な声で、父親の横を抜けて、自室へと戻った。

「私、あのグラス好きだったのに」

 鋭利に割れたガラスを拾いながら、母親は目に涙をためた。

 文字にならない声。楽器が空気を震わすような、流子の咆哮。誰も真似できない、流子の声だった。

 流子の咆哮は実桜を怯えさせた。姉が見せたことのない気迫は、三条家の空気を震わせて、バチバチと実桜の官能に電撃を喰らわせた。

 実桜は布団をかぶって泣いていた。母親は父親の腕の中で放心状態。

 流子が、こんな風に猛り狂うと、母親は予想だにしていなかった。

 流子の部屋をノックする音がした。父親だった。

「何?」

 つっけんどんな声。流子の凄みにノックの音もひるむ。

「お母さんに謝りなさい」

 父親はそう言った。

「どうして?」

「大声を出して、威嚇した」

 流子は呆気に取られた。父親は母親の味方をしたのだ。

「無礼を働いたのはお母さんだよ?」

「無礼か? 進学に際して、母親が娘に意見するのは、無礼なのか?」

「無礼でしょ。だって私の思いは、全く尊重されなかったんだよ」

 そっけなく言っているが、怒りはにじんでいる。

「君の思いを尊重する以上に、伝えたいことがあったんじゃないのか?」

「お父さんは、お母さんの言っていることがわかるのね?」

 扉越しに父親は喉を鳴らす。試していると思っていた親が、逆に試されていたなんてこともある。

「誰も、君のことを貶めようとしているわけではない。京大を貶めているのは君の方だし、お母さんは常に君が東大を口にすることで、不愉快な思いをしているはずだ。そのことについてはどう思う? もしかしたら東大と京大は同列ではないかもしれないが、お母さんの母校を君は行きもせずに悪し様に言う。フェアとは言い難い」

 流子は、幾分か落ち着いた声で、返事をした。

「そうかもしれない」

「誰も君を嫌ってなんかいない。味方だし、家族だ。いいと思うよ。流子が幡ヶ谷を離れるのは寂しいが、京都はいいところだ。君みたいな女の子が渋谷や新宿でちんけな人間で終わるのはもったいない。家の太さで人を判別するギャルにでもなりたいのなら別だがね。おわかりの通りお母さんはお嬢様だがただのお嬢様ではない。頭脳が発達した流子と実桜の母親をずっとやり通して、今日君の前で話した、複雑で一貫した話ができる。僕は彼女のそういうところが好きだ」

「お父さんののろけなんか聞きたくないよ」

 流子は笑った。かはは、と。おぞけがするくらい乾いていた。父親はその乾燥した器を満たそうと、言葉を注ぎ込む。

「君は、単なるお嬢様で終わるのか? 東大ではせいぜい私たちの元で、ぬくぬくとショッピングをして、高等遊民を気取るだけじゃないか?」

「お父さんは、私をその気にさせるのが上手いね」

「お母さんに謝りなさい」

「それは嫌です」

「僕もお母さんも、君の机の上にある特定の大学名が書かれた参考書や赤本を置くことはない。君がそれを手に取って、自分で開くために、流子には十分なお金を渡しているつもりだ」

「それはわかってるよ」

 流子は反抗的な声色を取りつつ、扉を隔てて笑みを浮かべ、父親との会話を楽しんでいた。

「お母さんもきっと思っている。流子と意見を交わすことができて、よかったと」

「そうね。私もそう思うことにする」

 翌日の夜、流子が塾から帰ってくると、部屋の勉強机にグラスが置いてあった。謝罪のメッセージが添えられて。

「ごめんって、……先に言わないでよね」

 流子は口元をほころばせた。

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