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 雨が煙る秋。文継がカバンからジャンパーを取り出したのを、後輩たちは感心して声を漏らした。

「流子! 傘二本持ってたりしない?」

 部長があちゃあとばかりに振り返って聞いた。

「あいにく、折り畳み傘一本しか……」

「そしたら、三条先輩は文継先輩の傘に入ればいいのでは?」

「小鳥ちゃん、気が利くねえ」

 部長はそれを聞くと流子の手から傘を奪い取った。

「先輩、それ、プレゼントじゃないですから」

「学校が始まったら、机の上に置いておくよ」

「それならいいです」

 部長が場から離れると、部長を慕う面々は、わいわいと部長を追いかけた。

 小鳥やこずえも、部長の後の第二陣で、一緒に山手線方向に消えていった。

「入ります?」

「文継、勉強道具持ってきてる?」

「まさか」

「ふう」

「まさか、僕そんなことで落胆されるんですか?」

「雨が止むのは十時だって」

「それまで勉強しようと……はあぁ。ご一緒しますよ」

 渋谷スクランブルスクエアを上りシェアラウンジに座る。窓に向かった広い机で、隣同士に座ると、流子は文継を先導して、飲み物やお菓子を取る。

 ちょうどカバンにあった「大学への数学」を文継の席に置く。

「まさか、筆記用具がないなんてことないよね?」

「すみません」

「もう、困るな。来年は副部長なんだよ?」

「はい。すみません」(何の関係があるんだよ)

 流子は真っ白のA4コピー用紙を十枚数えて文継に渡し、自分は東大の現代文25カ年を開く。

 文継は、「大学への数学」日々演をカリカリと解きながら、流子のことを目の端に入れてチラ見した。

 氷がからんと間を置いて三回鳴った。流子のオレンジジュースは氷を溶かすために入れられたのかもしれない。傾いた首が、髪を二つに分けて流子の耳から垂らした。うなじが白く浮き上がる。そういうコントラスト。

 雨がぽつぽつとガラスに当たり、雫が光をまるで焚火の火のように明るく温かく映し出す。

 温かい鉄観音茶を文継は飲んだ。それはとてもおいしくて、リラックスすると、ふと自分が肩で息をしていることに気づいた。

 黒空を背にしたガラスが、文継の顔を曖昧に浮かび上がらせる。雨雫がノイズになって、鮮明に映るよりも現実感があった。それらしい顔をしている。

 隣の席から人が立つ音に文継は気づかなかった。黒空のガラスの光の粒が、流子の髪にちりばめられる。ぽんと文継の肩に左手を置いて、右手を文継の喉に巻いて、左手にくっつけた。

「せんぱ(ぃ)」

 流子は文継をぎゅっと抱きしめて、口を文継の耳に寄せた。

「勉強どう?」

「そんなこと……」

「どうでもいい? そんなデカダンに陥っていいの?」

「僕は、先輩をつかみ損ねたくない」

「それは私も一緒だよ」

 吐息で交わされる声、首に巻かれた腕の触感、首筋に当たる流子の胸のアウトライン。香りで絞殺されるまである。確かに学生服はコスプレだった。文継の背中に垂れるネクタイ。糊のきいたシャツが文継のシャツと重なる。

「帰ろう?」

「それを言うためだけに抱きついてきたんですか?」

「だめ?」

「僕が、僕ほどのヘタレじゃなければ、流子先輩はもうベッドの上ですよ」

「流子先輩?」

「三条先輩」

「流子だよ?」

「三条先輩です」

「るこ、せんぱい、だよ?」

「酔ってるんですか? 離してくださいよ」

 文継が、流子の回した手に触れた。流子はびくっと体を震わせ、「ごめん」と詫びた。

 流子は文継に貸した参考書とA4コピー用紙を回収した。

「ゴミですよ」

「裏紙にするだけだよ」

 会計をして、エレベータで降りる。

 気づいたら文継は流子の手を握っていた。自然なことで、自分がそうしていることに気づきもしなかった。

 雨はもう降っていなかった。

 京王井の頭線、人はまばらで、流子と文継は明大前で流子が乗り換えるまでの短い時間、隣同士に座った。文継の手は、流子のスカートの上、流子の手の下に置かれた。

 流子は穏やかな心地だったが、文継は緊張していた。流子は指を少し離したり、また握ったりしながら、もしかしたらこんな風になるのはしばらくないかもしれないと思った。そう思うと文継が愛おしく、時間のきらめきだな、と思った。きらめきという言葉の選択は、いささか昭和じみていて、流子は内心笑ってしまった。

 明大前の駅が近づくと、流子は一度強く文継の手を握り、それから勢いよく離して、手を振った。文継が声をかけようとする前に、開いた扉をくぐり、窓越しにまた手を振ると、京王線へ駆けていった。「じゃあね」の一言もない。

「お姉ちゃんおかえりー」

「実桜、ただいま。勉強しているの?」

「あんま集中してないけども。一応やっております」

「偉いな」

「まあまあ、実桜が偉いのは昔からです」

「私は、とりあえず風呂に入るよ」

 リビングにカバンを置いて、自室で下着とパジャマをつかんで浴室へ入る。

 昂った気持ちを抑える。思いの外、体が冷えていた。

 湯に肩までつかる。湯船にアロマを落とす。ラベンダーの香りが立ち上がってくる。

 洗面所の水が流れる音がして、流子はハッとした。「お姉ちゃん?」実桜の声がする。湯船で眠っていた。「寝てない?」

「寝てた。ありがと」

「お姉ちゃん、疲れたんじゃない?」

「そうかも」

「リビングに来たら、ミルクココア作ってあげてもいいよ」

「ふ、ありがと。でも寝るよ」

「あー実桜の作るココアはおいしいのになー」

 特段悔しそうな気配もにおわせず、実桜は楽しそうに洗面所を後にした。

 流子が髪を乾かして、リビングに行くと、電気はすでに落とされていた。

 流子は廊下の明かりだけを頼りに冷蔵庫を開くと、ミルクを取り出してレンジにかけた。

 四分ばかり温めて、流子はそのホットミルクを飲んだ。

 それまでの長い時間、流子が文継のことを考えなかったわけじゃない。でも、うまく言葉にならなかった。ちびりとミルクを飲む。その度に、文継のことを考えた。

 小さな照明をつけて、カバンから文継の書いたA4コピー用紙を出した。

 その、美しい筆致に、流子に感興を催す。まるでラブレターを読んでいるみたいだった。

 自習のための問題なのに、「地の文」も丁寧に書き込まれている。流子が読んでもつっかかるところがない。

「ふふ、間違えてるじゃん」

 流子は積分の計算をなぞって、赤を入れたくなる。

「流子」

 母親が目をこすりながらリビングに来た。

「お母さん」

「寝なさい。今日は、合唱で頑張ったんでしょ? 実桜が、すごく嬉しそうに話していた。《やっぱ自慢のお姉ちゃんだよ》って。私も嬉しいわ。後は」

「後は、東大に行くだけだよね」

 流子はカバンからクリアファイルを取り出し、文継のA4コピー用紙を入れ、カバンに仕舞うと、母親の横を抜けて自室へと戻った。

 充電されていたスマホは、合唱部のみんなからの労いのメッセージの通知であふれていた。

 部員の親御さんが撮った流子たちの写真が掲載されていた。

「《この流子ちゃんってソリストさん、上手ねえ》とは母の談。……当たり前なのです。だって次期部長ですもん」

 その後に流子を切り取ったアップ写真が三連投。

「ありがとう~」

 流子はさらっと流す。

「おやあ、部長。参加が遅いのではないですか? もうすでにこのスレッドは投稿数二千を数えておりますぞよ」

「これは文継先輩と何かあったんじゃないですかねえ」

「文継先輩、証人喚問ですぞ」

「睡眠のため欠席」

 文継が即答する。

「それは草」

「起きてるじゃん」

「絶対何もなかったやつじゃん」

 流子は文継に対する部員の「信頼」に感謝するほかない。文継を後ろから抱きしめたところを後ろから撮られていたら、確実に綱紀粛正されてしまう。

「三条先輩の歌を聴いた後輩が、《私も合唱部入りたいな》って。この弱小合唱部、初めての隆盛の機運です」

「あ、それ私も言われた。男子が、あの先輩美人じゃね? って」

「そういうやつは入れてやらん」

「文継先輩、寝たんじゃなかったの? くすっ」

「あんたらちゃんと勉強してるんでしょうね?」

 流子は振りかぶって刀を斬り下ろす。

「あー、これは問題ですねえ。《あかでみっく・はらすめんと》ではないでしょうか」

「三条先輩、自分が勉強できるからって、そんな風に上からものを言うと、部員反乱の恐れがありますよー」

「まあ、文化祭の打ち上げの後に、勉強会だからな」

 文継はぼそっとつぶやく。

「お疲れさまでーす」

「それは草」

「困った部長さんですね。晒し上げますよ」

「文継先輩可哀そう過ぎる。好きなのに……」

 いくつかの煽りスタンプを見て、流子は事態の収拾困難をさとり、文継に個別チャットでしっかりと釘を刺し、震え上がらせてから、床に就いた。

 流子の胸は温かいもので一杯だった。それはホットミルクを飲んだからだけではない。

 膨らみつつある文継への愛情とか、部活の面々への信頼、流子の声を聴いて喜んでくれる新しい後輩たちへの期待なんかが、次々に流子の胸に去来した。味わったことのない充実感だったかもしれない。

 丸まって眠る流子は、いつも過呼吸気味。

 苦しそうに寝返りを打つ。それは昔からそうだ。昼間どんなにいいことがあっても、睡眠は彼女の苦そのものだった。

 流子の目覚めが爽快だった日は一日とてないし、流子の睡眠は血液がにじむ傷のように、静かな苦痛を伴っていた。

 成果が乏しいことはわかっている。100日あったら99日がある一日のための準備だということを流子はよく知っている。もし、今日がその一日に当たるのだとしたら、流子はまた次の一日のために準備をし、努力する。

 苦しいのは当たり前だ。そんなもの宗教に頼るまでもない。誰も解決できない問題なのだから、本来宗教なんかお呼びでないのだ。

 翌日の朝、母親も父親も実桜も忙しくして先に出た。

 母親は流子に声をかけたが、生返事の後流子は起き上がらず、こんこんと眠った流子は午後二時に起きて、何の働きもしてくれなかった(と流子は思った)目覚ましにやつあたりして壊し、ばたばたと制服を着て、学校へ向かった。

 もはや焦ることを放棄する。流子が学校に着くと、クラスルームは六限の授業をしているところだった。

 後ろの扉をそっと開けた。

「三条、大層な重役出勤だな」

 先生はチョークで板書する手を止めて、流子に言葉を投げかけた。

「とんでもない。小市民でございます」

 クラスメイトから笑い声が漏れる。

 机の上には折り畳み傘が置いてあった。

 堂々と授業の準備をする。恥も外聞もないとばかりのきびきびした手つきで、先生は呆気に取られる。

「あ、先生どうぞ。授業を」

「お前、問題児だぞ」

「先生の授業のために今日来ました。どうぞ」

「お前、問題児だからな」

(ごめん、教科書見せて。数学の教科書カバンに入れるの忘れてた)

 隣の席に押しかけて、机をくっつける。

「後藤が困ってるだろうが」

「ごめんね、後藤君」

 後藤はくすっと笑って、「いいよ」と言った。

 先生も含めて誰もが、流子の味方だった。後藤が今解説されている部分を指す。

 チャイムが鳴り、授業が終わる。

 わっと、流子の周りにクラスメイトが集まる。

「流子ちゃ、おそーい!」

「ごめんて」

「昼休み、部活の後輩さんが迎えに来てたよ。文継くんだっけ。流子の彼氏の」

「彼氏ではない」

「いないって聞いたらすっごい寂しそうな顔で《そうですか……》だって。彼氏可哀そう」

「あとでタピオカ持って謝りにいくから。……やべ、部活だ。昼練は仕方ないにしても、午後練はサボれない」

「流子ちゃ忙しい。頑張れー」

「三条、呼び出しだ」

 世界史教諭・担任の藤枝先生のお呼びだった。絶望の序曲が流れる。クラスメイト全員が気持ちよく流子を送り出す。

「なんでお呼ばれしているかわかるか?」

「お茶のお誘いですわよね、ありがとう存じます」

「お前の頭のポットが沸騰しているのがわかるな」

「やんわり暴言吐かないでくださいよ。問題にしますよ。あー教育委員会呼んじゃおうかなー」

「事実だろ?」

「誰も起こしてくれなかったんです。だから仕方なく……」

「仕方なく二時まで寝ていたと」

「そうなんです。先生もおわかりのように、《仕方のない》ことなんです」

「お前が頑張っているのは知っているよ」

先生ぱあぁ

「勉強頑張っているのも、部活に打ち込んでいるのも。知っている」

「せ、先生、つまり?」

「模試の返却で呼んだだけだ。それはそれとして、遅刻は調査書には書くけどな」

「模試?」

「お前、夏東大模試受けただろ?」

「? 夏?」

「覚えてないのか?」

「そういえば、一日だけ記憶のない不快な日が、夏休みにあったかもしれません。直しをしたような……」

 流子は首をかしげる。

「お前、二年生だよな」

「はい(?)」

「すごいなA判定か」

「あー、塾でやった数学の問題が出たやつですよね。思い出した思い出した。何言っているんですか、世界史は藤枝先生のおかげですよー」

「お前、二年生だよな?」

「そうですよ」

「まあいいか。遊方もA判定だった」

「街摺さん、可愛いだけじゃないっ」

「合唱いい歌声だっ……」

「もういいですか? 部活に行きたいので」

 流子は担任の手から模試の成績表を奪うと、小さくたたんでポケットに仕舞い、走って音楽室へ向かった。

「三条、おま、え……」

 担任の前にはもう風の名残しかなかった。

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