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学園祭。小さな校庭と狭い校舎でやるのだから、言ってしまえば大したことはない。

地域の人に招待状を書いて送り、騒音のお目こぼしをもらう。幸い都立下北沢は一応名門であり、地域の人からも良く思われているから、苦情がくるなんてことはそうなかった。

下北沢を目指す小学生は、親に連れられて学園祭に来る。

流子もそうだった。

運動部は大体屋台を出す。

将棋部は青空将棋。青空将棋はかなり評判がいい。強い将棋キッズが、お兄さんと話しながら、中学受験の情報を得る。親御さんが意外と気づかないキッズの本心がぽろっと出て、ハッとするなんてこともある。将棋キッズは将棋ウォーズ、十切れ三段だったりするので、下北沢のお兄さんお姉さんは恥ずかしい思いをすることもあるが、それは彼らとて織り込み済み。投了は潔い。

下北沢を目指す生徒は、不思議なことに、大塚や北参道という一流中高一貫男子校の併願が少ない。

親御さんもなんとなく都立の「市民性」に期待している部分があるのだろう。

流子の所属する合唱部は体育館で合唱を披露する。

軽音部やダンス部、吹奏楽部といった出し物系の部活が、体育館のステージで催しを行うのに合唱部も参加している。

流子と文継は、校門の前でチラシを配る。

背の高い流子、それに追いつき、更に背を伸ばした文継が、一人一人に笑顔を向け、チラシを手渡していく。

「先輩、コスプレとかしないんですか?」

 人の流れの合間に、文継は流子に聞く。

「文継、学生服って最高のコスプレだと思わない?」

「先輩はいつも詭弁ばかりで……」

「ちなみに、誰が似合うと思う?」

「ペンギン」

「せめて人で答えてもらいたかった……」

「てか、三条先輩、そのネクタイ」

「あ、随分前にペンのついでに文継が買ってくれたやつだよ」

「つけてくれてありがとうございます」

 流子は、嬉しそうに二度うなずくと、来る人に向き直ってチラシを配った。

 流子が美人なのは言うまでもなく、キッズたちはお姉さんに微笑まれるとドキッとして、通り過ぎてもちらちら振り返る。罪なお姉さんである。

「お姉ちゃん」

 実桜が皐月ノガさんと一緒に下北沢の門をくぐる。

「仲直りしたんだ」

 流子が知り合い対応をしている間は、文継がチラシを配る。

「そもそも喧嘩していませんが」

 実桜は完全にしらばっくれる。

「お姉さん、この前はすみませんでした」

 皐月は、ペコリと頭を下げる。

「愚妹の愚行に愚弄されたこととお詫び申し上げます」

「実桜は遺憾の意を表明します。愚妹とは? 愚行とは? いつ愚弄しました? 定義を教えてもらってもいいですか? ノガさんにはいつも最上級の敬意を払っているつもりです」

 実桜がいつもの無敵モードに移行する。

「実桜実桜はいつもそれだよね」

「後ろから刺すなよなー。ノガさん、困るよー」

「赤坂見附で彼氏作るんじゃなかったの?」

「前から包丁向けないでー。困りますー」

 文継がくすりと笑った。

 実桜は目ざとく文継の半ば関係者的な立ち位置に気づく。制服の着方や流子との距離感から、同い年であることを実桜は確信する。年下好きの姉。同じ部活。一緒にチラシ配り。

「なるほどー」

 流子はその「なるほどー」がどういう納得の事実なのか理解した。表面上流子と文継をつなげる情報はそこまでオープンになっているわけではないから、推理の域を出ない。でも、実桜の勘は、その推理がほとんど事実であることを告げていた。

 一瞬文継と視線が合う。

「姉がいつもお世話になっています」

 めずらしくかっちりした実桜の言葉遣いに、流子は拍子抜けしてしまった。

「いえ、こちらの方こそです。お姉さん、とても歌が上手なので、合唱部の催しにもぜひ来てください」

 実桜が何か言うかとも思ったが、それ以上話を広げることもなく、皐月の袖をつまんで、校舎に入っていった。

 チラシ配りを終えて、実桜は文継とイベントの時間まで校舎を回る。

 クラスメイトと会う。夕陽はほのかと回っている。必ずしも関係が落ち着いたと言い切れるわけではないが、今、二人の仲はかなり深まっている。

 実桜と皐月のペアは、青空将棋で足を止め、そのまま下北沢生と対局している。

 流子と文継は二人でたこ焼きをつまんだり、オムそばを頬張ったりしているうちに、催しの時間が近づいてきた。

 チラシのおかげかどうかはわからないが、小さな体育館は人で一杯だった。

 軽音部が、流行りのアニソンを流している。

 知っている曲が流れて、それを遊方が歌うから、みんな嬉しそうだった。

 街摺遊方まちずり・ゆかたは、メジャーデビューしたガールズグループの一員で、彼女がいることが、下北沢の評判を著しく上げていた。

 遊方は、別に歌が上手いわけでも、極めて美人というわけでもない。でも、実際に顔を合わせると、遊方が「特別」であることがわかる。

 メディアで噛まずにせりふを言えるのは、才能ではなくて努力によるものだということを知っている人なら、遊方がどれくらい努力したのかを想像することは難しくない。

 流子と同じ二年生。流子は遊方とほとんど話したことがなかった。

 舞台の上での遊方の出すアウラは、それが本物であることを証明していた。神様が絵に置いた群青の絵の具だった。背景から区切られて、浮かび上がってくる。

 遊方のパフォーマンスが終わって、流子は舞台に上がった。

「あ、あ、あー。ええと。下北沢二年、合唱部の副部長、三条流子です。時間の関係で部員の紹介はしないけれど、こんなに多くの人に来てもらえて、嬉しいです。もしかしたら多くの人が、一つ前の街摺さんの歌を聴きにきたのかもしれないけど。……私たちは合唱部なので、目新しい曲はないかもしれない、だけど楽しんでいって下さると、私は嬉しいです」

 深々と礼をする。

 顔を上げると、体育館中央近くに実桜を見た。

 部長の指揮棒が俊敏にピアノに指示を出す。

 始まる。

 小さな声が、小川を表している。風の音、鳥の鳴き声が散りばめられて、草原を馬が駆ける。

 流子の高音は切れ目なく、徐々に増幅されていく。

 支流が合流する。後輩たちのソプラノが複雑に絡み合う。

 部長の指揮で、緩やかな川の流れに勢いが付加される。

 草原で馬が川の水を飲む。大地を叩く馬の足音が、文継のテノールで表現される。

 声の切れ目が馬の意識の切れ目であり、橋に架かる最初の橋をも表していた。

 突然人の声がする。川辺で歌う女の子の声。水と遊び、馬に話しかけ、服を汚し、笑い声を上げる。その足を流れが引きずる。

 ドブンと水面下に沈む少女。流子が何でもないという風に歌い続ける。川は平穏を保ち、波紋もたたないその水の下に、喘ぐように助けを求める少女がいる。

 橋の上にいた人が、少女を認める。緊急を伝える言葉は歌になり、そこで初めて歌詞が口に上る。

 ヒステリックな悲鳴に引かれて、人々が集まっていく。そして川もまた水を集め、流子の声量は水位に従ってボリュームを上げていく。

 波状的に水面が起伏する。そよ風が吹いていたはずの空間に、嵐がやってくる。

 上流の山々はすでに雲で覆われ、川の水は少しずつ濁り、水嵩は増していく。

 少女の肺は水で満たされ、誰も助けられない。

 波の轟音だけが、体育館に広がっていく。

 渦を巻く流子の声が頂点まで達し、そしてふと消えた。

 川は町の平野を流れ、少女の体は水面まで浮かび上がった。

 死んでしまったのだろうか。

 途切れかけていたピアノが、高音を二回叩く。

 少女に息を吹き込む音がする。

 けほっと水を吐き、水から引き上げられ、命を取り留めた少女の声がする。

「ありがとう神様」

「それなら私は悪魔かな?」

 流子がそう歌うと、川はまた口ずさむように流れ始めた。

 それは、流子たちが作った歌だった。今日の日のために用意していた、彼女たちの歌だった。淡々と淡々と、海へと流れていく。

 終わる。

 万雷の拍手が鳴った。

「小さな合唱部ですから、迫力はないかもしれませんけれど、お手製の歌を気に入ってもらえたら嬉しいです。私は遠慮したのですけれど、部員のみんなはこの曲の名前を《流子》と名づけてくれました。流子、私の名前なのですけれど、皆さんのご記憶に残るとしたら、こんな嬉しいことはありません」

 拍手が重なった。

「まるでオーケストラだ」

 実桜は嘆息した。

「お姉さんすごいね」

「鍛えてるんだよ。きっと」

 そう言って実桜は口元を引き結び、頬で引っ張ってむにゅむにゅさせた。流子と目が合わないのが寂しいと実桜は思った。

 ふと右手を見ると、興奮で握りしめたチラシがあった。そこに書いてあるどんな文言にも、川の流れを想起させるものはなかった。どう考えても流子が作ったチラシだった(それが実桜にはわかった)が、百聞は一見に如かずというか、文字で歌は表現しきれないということか。

 三条さーん、とか、流子ちゃーん、とか。声が飛び交う。

「お姉ちゃん有名人だ」

 実桜は嬉しそうに笑みを浮かべた。

 流子は部長と握手を交わす。部長は指揮台から降りて、こちらを向くと、部員と一緒に一礼した。拍手が鳴りやまない。

 会場で鳴る拍手は、だんだんまとまってリズムを作り、誰かがアンコールを叫ぶと、一つの大きな合唱になった。

「もう一曲?」

 流子が聞くと、体育館は拍手で答えた。

「そうね。じゃあ《赤伶》という曲でお答えします。中国の曲で、発音とかは聞き真似だけど。いい曲だからみんなで楽しんで練習していました。それはタスクとかじゃなくて、私たちの趣味のようなものですけど」

 部長は流子に元の位置に戻るように指示する。

 爽快な流子のソロで歌は開始される。そして流子の声は、一気に背後へと引き戻る。

 合唱の倍音が響き渡ると、また流子のソロが始まる。

 裏声の部分は後輩たちが複数人で声を張る。

 中国語の歌を初めて聞く人もいるだろう。その言語が、これほどまでに音楽的で、美しい調になることを、ほとんどの人は知らない。流子もそうだった。文継もそうだった。でも、たまたま動画で見た歌を部活で共有して、こんな風に歌うことができる。

 それは本当に楽しいことだ。

 合唱部だと、どこか真面目で、いい子ばかりがいると思われることもある。そういういい子も、自分の声をみんなの前で披露して、びっくりしてもらったり、聴き入ってもらったりするのは、やはりとてつもなく嬉しい。そして、声に出して一番びっくりするのは当の本人なのだ。

 舞台を降りる時、部長は泣いていたかもしれない。指揮をして、聴衆に背を向けていた部長が、泣いているのを見て、流子は洟をすすった。目頭が熱くなったが、副部長として泣くわけにはいかない。

 舞台袖から外に出た合唱部の面々は部長を囲み、文継が急いで取りに戻った花束と色紙で、引退式を行った。

「流子ちゃんってホントそつがないよね」

「お褒めに預かり光栄で……」

「いや褒めてないし。文継も、そんなに流子が好きなんだ?」

「いやぁ?」

「しらばっくれるなよ」

「あ、部長。打ち上げはカラオケフリータイムです」

 文継が思い出したかのように事務連絡。

「受験がんばってください」

 流子がにやりと笑う。

「あー、いやだー。聞きたくないことを聞いてしまった。カラオケフリータイムということは……」

「人が歌っている間は、単語帳開いていればいいということ」

「流子、あんた人の道から外れてるよ」

 文継が予約したカラオケ屋は、下北沢ではなく渋谷にあった。

 文継は十数人の一団を収める部屋を押さえた。会費を徴収しようとすると、流子が「とりあえず一万円」と成金以外の何者でもないふるまいを見せる。中学生の会費を帳消しにした。部長もしぶしぶ一万円だし、パーティーフードの予算が確保された。

 電車で渋谷まで行き、流子たちは思う存分歌った。

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