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「先輩……どこに行っていたんですか?」

「文継こそ、一人旅?」

「先輩からどうぞ」

「松本に行っていた、これから帰るところ。文継は?」

「会津の祖母の家に行ってました。僕も、これから帰るところです」

 中央線は扉を閉め、流子と文継を連れて動き出す。

「……なんて顔してるんですか」

 文継は、ほとんどすっぴんで髪もしおれた流子を見て、小刻みに首を振った。文継のしぐさはうなずきと肯定ではなく、否定と嫌悪を示していた。

「どうして部活に出なかったんですか? なんで、なんでそんなに痩せているんですか?」

 流子はその言葉が視線を夜の車窓に向けるように指示していると受け取った。

 夜闇が背景の車窓は、流子の体をくっきりと映していた。

 流子は生気が抜けた自分の表情を、客観的に見つめた。体重計には乗らないから、痩せたかどうかはわからない……なんてことなかった。ふくらみがあるべき場所に、肉がついていなかった。運動をしていたから健康的なんだって主張は、許されないだろう。

「それにしても、文継、背ぇ高くなったね」

 流子は涙をこぼした。頬をつつうと伝う。

「三条先輩、それ、高一にはレベルが高すぎます」

「あんたが泣かせたのよ?」

 涙だけ、嗚咽はない。

「弛緩したんですか?」

「弛緩? 緩んだってこと? そうね。そうとも言う。人は独立して存することはできない」

 文継は、流子を抱きしめたかった。流子もそうされることを望んでいた。

 でもそれが実現することはなかった。

「ティッシュ持ってる?」

 文継はポケットを勢いよく探って、ポケットティッシュを渡した。

「髪がしおれているのは、水泳していたから」

 流子は聞かれていないのに言い訳をする。

「髪の手入れを怠るなんて、先輩、自分でもおかしいと思わないんですか?」

「辛辣だよぉ」

「とりあえず、部活に来てください。話はそれからです」

 中央線はしばらくして新宿に着いた。

「焦った。焦ってたよ」

「何がですか?」

「ゆとりがないのよな」

「だから、何がですか!?」

「文継ご飯食べた?」

「三条先輩! ごまかさないでください、顔に書いてあります、僕と話しても疲れるだけだって。部活に出ずに何をしていたか知りませんが、あと一週間で学校が始まるんですよ!?」

「文継、文継は私のこと……」

「先輩! 酒でも飲んだんですか? なんでそんな風に」

「文継は、私のこと……」

「僕はもう行きます。逃げたとか言わないでください。先輩をお見送りすることもできません。あしからず。それじゃ」

「待ってよ、文継。待ってよ……」

 文継に追いすがることはできなかった。荷物が重い。

「学校……ううう、行きたくない」

 橋本行の京王新線に乗る電車は、かなり混んでいた。

 ボストンバッグを床に落とし、新宿から初台、幡ヶ谷の二駅、短い時間だけれど、人と人との間に座る。

 幡ヶ谷に着く。ボストンバッグを持って階段を上るのは、大きなカブを引き抜こうとするくらい骨が折れた。

 わずか五分足らずの自宅までの道を、今回ほど長く感じたことはなかった。

 家に着くと、カバンを部屋に放り入れ、冷房で部屋を冷やしている間にシャワーを浴び、清潔な下着を身につけ、その上からパーカーを着て、太目のジーンズを穿いて、外へ出た。

 電話でいつも行っている表参道の美容室の予約をし、タクシーをつかまえて、車内で少しの間眠った。電車で幡ヶ谷から表参道に行くのは少し難しい。

 表参道の美容室で、伸びていた髪を切る。そして徹底的にトリートメントしてもらう。

 美容院で話すことが見つからないなんてこと、今まで一度もなかった流子だが、今日は言葉が出なかった。

 そもそも夜九時に表参道で髪をいたわる女子高生なんて、東京中探しても七十人くらいしかいないだろう。

 なんか飲む?

 そう聞かれて、おずおずとチャイティーを所望する。一気に飲み干す。お会計二万円支払う。

 それからまたタクシーに飛び乗る。富ヶ谷の交差点、代々木八幡の交差点、初台坂下の交差点をスムーズに抜け、部屋に戻る。誰もいない部屋で、さっき文継に言った言葉を反芻する。

 煩悶、後悔、羞恥。

「いいい、意識が遊離していたとはな。きっと文継はわからず勘違いしたことだろう。LINEで訂正して……ってそんなことできるかぁ! 蒸し返したら友達じゃなくなるかもしれないじゃんかよお。三条先輩って呼んでもらえなくなるかも、どどど、どうしよう」

 流子は足をばたつかせる。

「しかも、待って、文継年下なんだが……」

 度重なる苦境、残酷な事実、上下関係の容認できない転倒。

《はあ、先輩らしからぬ》

 LINEが文継から飛んできた。流子にとっては渡りに船。

 既読をつけた後、返信までに四十分時間を要した。渡りに船?

《もう大丈夫。美容院行ったから》

《知りません。とりあえず部活に来てください。明日もあります》

 流子は学校指定の制服のシャツにアイロンをかけるところからまず始めた。洗濯した後、適当に放り散らしていたシャツとスカート。

 服のにおいが湯気とともに立ちのぼってくる。

 冷房で冷えた手先が、温かい服に触れる。

 スカートのしわを伸ばし、ネクタイ(流子は好んでつけていた)の色を選ぶ。

 シャツをハンガーにかけてつるすと、なんとなく学校に行く気になった。

 ベッドのシーツを替え、枕を整えると、流子は眠った。

 深い眠りだった。現実世界と夢の世界は黒と白で、その間を灰色のグラデーションが橋渡ししていた。意識に上る景色が全て「灰色」だった。体の作用としての睡眠と、心の作用としての睡眠が混然一体となって流子の意識を深く鎮めた。眠りは現実の世界につながるための、現状で唯一の方法だったのかもしれない。夢とうつつの境界は明瞭でなく、整然たる理路は存在しない。でもとりあえず、いつもの自室で、思う存分寝た。

 起きると、洗面所で顔を洗い、髪を整え、朝ごはんを作った。

 ウィンナーと目玉焼きを作り、冷凍ごはんを解凍する、オレンジジュースを二杯飲む。

 制服を着ると、カバンに勉強道具を詰めて幡ヶ谷駅へ。

 笹塚から明大前の地上を走る京王線に陽の光が差し込んでいた。

 林立するビルが、あまりにいびつで不格好だから、こんな景色捨ててしまえと思う。それと同時に、その動脈硬化した風景が、自分の故郷だと気づいた。

 流子はこの東京を強く憎み、反発したい気持ちを抑えられなかった。生きたと言えるほど年を重ねてはいないけれど、そこで生きたのだという意識が、目覚め始めていた。

 埋没していた景色や構造物、そして京王線という乗り物に、流子はおぼろげに所属意識を見出す。鬱陶しいはずの世界を否定することはできなかった。

 コンテクストが手前に浮き上がり、流子の無意識を揺さぶった。

 ごく久しぶりに学校へ行き、毎日使っていた電車や駅、車窓の風景、電車に乗る人々が、新鮮に感じられたのだ。

 教室には誰もいなかった。

 流子は勉強道具を取り出して机に置くと、カバンをロッカーへ仕舞う。

 教室の冷房を十八度に設定し満足。部活の時間まで勉強する。

「三条先輩」

 流子は名前を呼ばれて後ろを振り向いた。後輩のこずえだった。

「もう部活始まってます」

「あれ? 十時からじゃなかったの?」

「九時集合です。文継先輩怒ってました」

「今行く」

 二年一組の教室の冷房をガンガンにかけたまま、流子は押っ取り刀で音楽室へと向かった。

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