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 高校二年生が始まる。新中一が入ってきて、合唱部にも何人か入部した。

文継は高校一年生になり、新歓担当という役職に奉じた。

 役職と言っても流子が命じた令外の官、正式なものではない。

 流子は三年の先輩から副部長に任命される。副部長は実質的な調整役で、昼休みの練習の日程や、放課後の練習のスケジュールを組む。

 全員の入ったLINEグループを作り、「適当な投稿は厳に慎むように」と書く。スタンプがそれから下に十五個くらい押される。「私の書いたこと聞いてた?」との投稿には、一切返事がない。「いじめか?」と聞くと、煽り顔で「とんでもない」というスタンプが押される。「わかった。これから明日以降の予定を送るから、スタンプではなくいいねで返してね」

 手書きのスケジュール表を写真に撮って送信する。

「三条先輩、手書きですか笑笑」

「どうしてかわかる?」

「情弱だから」

「アルバムにも入れてあるの、どうしてかわかる?」

「すみません。わかりません」

「来年副部長やる子が、困らないように、事務手続きを公開しているの」

「そんな気がしとった」

「わかり味が深い」

「あー、いいなー。こんな風通しがいい部活なら、新一年生も、さぞややりやすいでしょうね。ところで、私渾身の日程表に、新一年生しかいいねしていないみたいだけど?」

「先輩めっちゃ字ぃかわいい。ヒエログリフか?」

「惚れる。マジで惚れる」

「スタンプで咲き乱れないでよ。さっきも言ったけど……」

「こんな時はアルバムをチェックだ! さっき三条先輩が言ってた」

「適当な投稿は厳に慎めと言ったの!」

「怒られたぽよぉ」

「三条先輩ひどいっ!」

 流子は、仕事は終えたとばかりにベッドにスマホを投げると、ぱらぱらと本をめくった。軽口を叩いてくれるのだから、みんなリラックスしているのだろう。こういう仕事は楽しい。真剣に面倒を見たら、信頼を勝ち得るものだし、何より自分も成長する。

 紅茶を淹れて、時折すすりながら本を読む。

 今日の本は塩野七生が著した『ローマ人の物語』。今はグラックス兄弟の記述にさしかかったところ。グラックス兄弟の悲運には、流子も思わず涙をこぼす。洟をかみ、涙を拭うと、紅茶が冷めていた。

 冷めた紅茶を流しに捨て、流子はしおりを挟み、本を閉じて本棚に戻すと、ベッドに倒れた。

春の日曜日の穏やかな陽気に温められて、流子は薄着で毛布もかぶらずに、長い脚と背中を曲げて、丸くなって眠った。

スマホの振動は流子を起こすことなく重ねられて、ついには途切れた。

流子の寝ている間に、キッチンで料理を作る音がする。

実桜は姉が寝ているから、ここぞとばかりにリビングで勉強している。

樹々が風で揺れ、こずえがこすれ音を鳴らす。

「流子ー、ココア飲む? っと、寝てるのね」

 母親が部屋に入っても、流子は眠り続けていた。意識のないままに何時間も経って、流子は夜八時に起きた。

 実桜はもう食事を済ませたみたいで、クッキーなんかをかじっていた。

「どこからどう見てもげっ歯類」

「はあー? お姉ちゃんは私のどこを見ているの? ハムスターでしょ、げっ歯類じゃないよ!」

「実桜、赤坂見附受かったんだよね? ちょっと心配になるよ」

 母親は、流子の席の前に豚肉と茄子の甘辛炒めとご飯を置き、流れるようなムーブメントで実桜の額にデコピンした。

「ハムスターはげっ歯類! 実桜、復唱して!」

「うう。ハムスターはげっ歯類」

「もう一回!」

「ハムスターはげっ歯類。文系に揚げ足を取られた。屈辱」

 とんと、味噌汁も置かれた。そこにも茄子が入っていた。

「茄子、買いすぎちゃった」

 母親は、一言だけ残して、皿洗いに戻った。

 父親が学会から帰ってくる。

「お父さんおふぁえり~」

 ハムスターがもふもふと挨拶する。

「日曜日なのにすまんね。家族サービスもできなくて」

「家族サービスゥ?」

「なんじゃそれ?」

 流子と実桜はいきなり反抗期に入ったみたいで、父親は困惑顔。

「京都に行ってきたから、阿闍梨餅を……」

「阿闍梨餅、なんじゃそれ?」

「実桜は阿闍梨餅の価値がわからないそうなので、わたくしが全て頂戴いたします。箱のままお渡しいただいて構いません。部活の後輩を手なずけるためには、何はともあれ甘いもの。鞭を入れるには、やつらはあまりに無知すぎるので」

「箱のまま?」

「ええ、箱のまま」

「二十四個入ってるけど」

「それくらいありませんと」

「厚かましいなぁ、流子、お前最近……」

「家族サービス(ぼそっ)」

「うぐっ。わかりました。でも実桜とお母さんにはちゃんと配れよ」

「阿闍梨餅なんじゃそれの人にあげる義理はございません」

「違う、そういう無知蒙昧な輩に、京都の伝統を叩きつけてやるのが、長女たる流子の役目なんじゃないのか?」

「ハッ、そうかもしれない、そうだった。実桜、二個だけあげるね。赤坂見附の気になる人と分け合って食べるのよ」

「お姉ちゃん、バカにしないで。私だって古文習ってます。阿闍梨も単語帳に出て来たよ。意味不明だったけど。閼伽棚と何が違うの?」

「大丈夫よ実桜」

「おかーさん」

「文系で、センター試験も京大国語もやったけど、阿闍梨も閼伽棚も、一度も見たことがないわ。心配しないで。そんなことがあなたの医学部合格を妨げたりなんてしない。もちろん京大医学部よね?」

「せんせー、ハムスターのことをげっ歯類じゃないって言っている生徒が、京大医学部に受かるでしょうか?」

「ちょっとした不具合も、デコピンしたら治ります。神経質にならないことね。お父さん、お帰り」

「あー、実桜、最近蔑まれてるなー。やっぱみんな嫉妬してるのかなー。こんな日は、初台のデニーズでひたすら勉強するに限るなー。お姉ちゃんもどう?」

「私、今日はオフなの。なーんもしたくないの。ただでさえ後輩に煽られて困ってるのに、煽らせ選手権中学校の部渋谷区代表の三条実桜さんとドリンクバーだけで勉強会した暁には、『お姉ちゃん、今月の塾でこんな問題が。解けます?』とかにまにまされながら言われるんでしょ? いやすぎる」

「お姉ちゃんには、実桜がそんな風に見えるの?」

「違うの?」

「いやそうだけど」

「おまえぇえ!!」

 流子が実桜につかみかかろうとした手を母親が押さえた。

「お母さん、止めないで。今こいつを始末しないと、世界は崩壊するの。止めないでよ」

「人の命は地球より重いの」

「お母さん……」

 即興劇は父が食べ終わるまで続けられた。

「さすがに補導される時間までは、いるなよな」

「それはわかってるよ、お父さん」

「流子がいれば安心なんて、そんなことはないんだぞ。まだ二人とも小さいんだし」

「私167ありますけど?」

「流子、お前なんでそこで主張してくるんだよ。そういうことじゃない」

「わかってる。大丈夫。初台と幡ヶ谷は新宿の裏庭だもんね。あーオフなのになー。大数やっちゃおうかなー」

 流子は部屋に戻るとトートバッグに筆箱とノート、今月の「大学への数学」を入れて、準備した。

 ジーンズに赤ストライプのTシャツをタックイン! 赤のカーディガンを重ねる。片手はポケットの中。

 実桜は、幅広な柄付きのパンツに、白のTシャツにデニムジャケット。

 実桜の背はそんなに高くないから、やりすぎじゃないかと思ったが、実際外に出て一緒に歩いてみると、背伸びしている彼氏を持ったみたいで、流子は心がくすぐられた。

 水道道路を初台まで歩く。

「実は、白シャツが一番高いとかある?」

「あるかも」

「マジで?」

「他は古着だから。下北で買いました。友達と小田急線で、代々木上原駅からだったら、すぐだもん」

「どうしてお姉ちゃんを誘ってくれなかったの?」

「お姉ちゃん、同級生と歩いている時に、妹にそばにいてほしい?」

「確かにそうね。……ハイセンスな古着買っちゃって」

「いいでしょー」

 デニーズに入ると、流子たちは席に案内され、「深夜の悪徳」パンケーキと、ドリンクバーを注文した。

 実桜は学校で配られた英文法参考書の予習を行う。

 流子は「大学への数学」の各大学の問題解説を眺める。一周する時は、気になったところにマーカーを引き、気になった理由を記す。

 それから流子は、解説を思い出すように一度問題を解く。

 まだ数Ⅲはおぼつかないから、文系範囲の問題だけ解く。

 東大数学も京大数学も、文系の範囲なら、要点を押さえていれば解くことができる。

 問題文を写し、ノートに丁寧に解法を記していく。

 相加相乗平均や、極値の議論、解の個数の問題、当たり前に出て来る余事象や背理法、そして数学的帰納法。

「お腹いっぱいだな、ホント」

「あ、じゃあ、実桜がお姉ちゃんのパンケーキ食べてあげる」

「それはならぬ」

「ならぬの?」

「ならぬよ~」

 いつも通り、流子と実桜は流子が手前通路側、実桜が奥窓側に座っている。

 実桜が警戒心をあらわにしたのと、流子が「その音」を聞いたのは、ほとんど同時だった。

 こちらではない。対象の目的は、こちらではないと祈りながら、流子も実桜も、背中に緊張を走らせ、勉強に熱中している振りをしていた。十時半。そろそろ宵が回ってくる。

「ねえ、お姉ちゃんたち、兄弟?」

「いえ、姉妹です」

 実桜の猫パンチが極まる。

 チャラ目の男が二人。どう考えても夜のお相手をお探しだった。

「そうだよね。女の子の兄弟」

「姉妹です」

「姉妹ね。ごめんごめん。ところで、この後予定あったりする? よければ、俺たちとドライブでも、なんてね?」

「何に乗せてくれるんですか?」

 実桜の食い気味な姿勢に、流子は逆に安心する。冷静な時の実桜だ。

 男たちは鼻を膨らませ、車の自慢をする。それを、流子も実桜も、聞いている振りで少しうなずいたり、笑顔を見せたりする。

 流子は気づかれないように110番を鳴らし、イヤホンをさしたままのスマホを、裏返して堂々とテーブルの上に置く。

「初台のデニーズで、よくそういうことしてるの?」

「いやぁ、君ら可愛いからさ」

「ありがとう~。でも、私たち今勉強してるんだよね」

「俺、勉強教えられるぜ、保健体育だけな、ギャハハハ」

「ギャハハ、マジで草」

 幼虐な声で実桜が言い放つ。

「は?」

「お兄さんたちは、どう見ても底辺のヤンキーだけど、どこ住み?」

「お、お、おう?」

「言いたくないなら言わなくてもいいけど、私たち姉妹は、ここが地元。お兄さんより怖い人いっぱい知っているし、電話鳴らしたら、いろんな怖い人が飛んでくるけど、そんな危ない橋を渡っていいの?」

「俺らより怖いって、例えば?」

「ほら、もう来たよ」

 店の入店コールが鳴ると、二人組の警官が、店員に指示されて流子と実桜のところまで来た。

「ふええ、怖かったよおー」

「おま、さっきと態度が違うだろうがあ」

「お兄さん、店で未成年ナンパしちゃだめでしょ。話は車で聞くよ。ほら」

 警察がすんなりと二人組のナンパ師?を連れていく。流子と実桜は店員に迷惑をかけたと、ナンパ師の分の会計も払い、続いてきた私服警官に事情聴取を受けた。

 代々木警察には、実桜が迷子になった時ぐらいしかお世話になったことがなかったが、ここにきてガチで事情聴取される。父親と母親も呼び出され、電話を替わった流子には「バカ者」と一言。実桜は何も言われなかった。

「高校は?」

「都立下北沢、二年一組」

「へえ、勉強頑張ったんだね」

「適度に」

「あのデニーズによく来るの?」

「めぐり合わせが悪かったんですかね。ああいう出来事は、初めてです」

「週一くらい?」

「月二くらいかな」

「ご住所教えてもらえる?」

「渋谷区幡ヶ谷〇‐××‐△」

「誕生日は?」

「二月七日」

「何歳?」

「十六歳」

「若いねえ」

「刑事さん、失礼は承知なんですけど、…………さっきのナンパ師より絡みがだるいです」

 後ろの若い警官が、爆笑していた。

「ごめんねー、おじさんだからねー」

「お前、味方じゃないのかよ」

 振り返って後ろの若い警官に文句を言う。

「刑事さんは私の敵ですか?」

「そういう意味ではないよ。ごめんね」

 調書を取るかたわら、刑事たちはこの案件をどう落ち着けるか迷っていた。

 流子は、未成年者略取未遂という罪状で、ナンパ師を断罪することに、いささか抵抗感があった。面倒が増えると思ったのだ。

 実桜は性格だろうか、それともかなり怖かったのだろうか、被害届の提出を強く主張した。

 調書を取って、最後の文言の段になり、流子は一度実桜の顔を見たいと言った。

 案の定実桜は憔悴していた。やり場のない怒りをどこにぶつけたらいいのかわからなくなっていた。でもそれはむしろ、私的な報復をあらかじめ抑制する、警察機構の制度が、有効に働いていることの証左でもあった。

「お姉ちゃん。実桜怒ってるよ。怒ってる。だってパンケーキ食べてメロンソーダ飲んで、勉強でカロリー消費してたら、つよつよになれるんだよ? お姉ちゃんもわかるでしょ?」

「そんなくだらない相手のために、手を振りかざすのももったいないじゃない。私は手を上げて振り下ろすのもおっくうだよ。実桜だって、そんなことしてたら、いちいち時間取られちゃうよ。お父さんもお母さんも、復讐心をたぎらせているわけじゃない。私だって、そりゃちょっとはむかつくけどさ、つよつよになるための日じゃなかったってこと。理解してよ」

「実桜は納得いきませんねー」

「実桜、高校生になると、わけわからん「大人」がまとわりついてくるものなの。それをいちいち犯罪にしたかったら、フェミニストになるしか道はない。私は別にフェミニストが悪いとは思わないけど、ちょっとしたセクハラくらい、いつもの実桜節で乗り切ってよ」

「ちょっと納得したかも」

「穢れからは距離を取る。以上! 帰ろ?」

 ……三条実桜は、見知らぬ人から声をかけられ、脅威に感じ警察に通報したが、現実的な不利益は多少の精神的動揺であり、それを以て被害届を提出するまでには及ばない。……

 調書の最後にはこう付記された。

 深夜も深夜。警察車両でマンションまでつけてもらい、家族は何の言葉もなく睡眠に移行した。

 高校へ行くと、昼休み呼び出された。校内放送で。まったくデリカシーがないなと、早足かかとで廊下を叩き、怒りのボルテージを高めながら職員室の扉をノックし、扉を開ける。

 流子の担任は流子を認めるとそのまま流子を校長室へ連行した。

 連行したというのは流子の理解で、担任の方は、そんなつもりはないのだろう。

 担任は三十くらいの世界史の先生で、手元のノートに流子と校長のやり取りをメモした。

「大変だったね。警察から一部始終を聞いたよ」

 校長は、一言目を和らげた。

「いえ。大したことではありません。ただ、そういうことをよく経験するというわけでも、ありませんが」

 流子は制服を隙がないほどダサく着て、「もうちょっとかっこつけて来いよ」と言われかねんばかり。担任も、流子の様子がいつも通りではないことをなんとなく感じ取っていた。もちろん校長はそれがわからない。

「妹さんと?」

「地元で」

「災難だったね。担任の藤枝先生からは、よく課外でも勉強していると。つまり……?」

「妹と勉強していたということです」

「なるほど。ところで、こんなことを私が聞くのも、なんとなく気が重いのだけど、どうして外で勉強するんだい? 家では勉強したくない?」

「それは、すみません、考えたことがありません。私は、ミカン下北の蔦屋シェアラウンジでも勉強します。地元のドトールでも、塾の後の渋谷でも、家に帰ると眠ってしまうので、それが大きいような気がしますが」

「結構なお金がかかるような気もする」

「それも、私は考えたことがありません」

 流子は、この面談の行き着く先がわからなかった。でも、校長とのやりとりは、どこか現実味を欠いているような気がする一方で、意図があることを強く意識させられた。校長の意図。

「不特定の人がいる場所で勉強がしたい」

「そう言って差し支えありません」

「それでは、三条流子さんが、そういう不特定なものを引き寄せている、あるいは不特定なものの中に関わりを求めにいっているということではないかな?」

 やられた。

「それは、否定できません。もし不特定の人ではなく、よく知った仲のいい男性だったら、妹を置いて連れ立ってひと時を過ごしたかもしれません。そういう答えでいいですか?」

 校長はうなずいた。

「私は聖職者だから、そういう気持ちになることを強く否定したい。でも若い頃、田舎に住んでいた時に、見知らぬ若い子が路上で泣きはらした顔に風を当てながら歩いているのを見ると声をかけたくならないわけにはいかなかった。めったにないこと、だけれど必然だった」

「私の様子が、彼らを引きつけたとおっしゃるんですか?」

「理性のタガが緩い人はいる。ご注意を」

 かなり鋭く楔を打ち込まれた。

 校長室から出ると、今度は生活指導の先生に回されそうになった。

「ひ、昼錬に遅刻するわけには」

「行ってこい。長いトイレだと伝えておくから」

「ひ、ひどい言い訳だ」

 流子はばたばたと階段を駆け上がり音楽室に入った。

 バッと顔を上げると、新入生も含めて全員が発声練習をしているところだった。

 流子も列の後端に立って発声練習をする。

 走ってきた勢いで、息が整わない。顧問の音楽教師から少し注意を受ける。

「すみません」

 でも、音楽教師はそれ以上怒らなかった。

 中学一年生のために、校歌を練習するプログラムを組んでいる。みんなに楽譜を配る。しまった、楽譜刷んなきゃじゃん。と思ったら文継がトートバッグから楽譜の束を取りだしてみんなに配ってくれた。

(後でお礼しないと)

 文継がこちらを見る。配る手を止めて近づいてくる。どうしたとも思わずに流子は棒立ちのまま……「三条先輩? 三条先輩?」

 声が出ない。息ができない。

「ぁやつく?」

 抱きしめられたのだと思った。それは正しかった。でも正確には流子は倒れた。ばったりと、文継にもたれかかるように。

「三条先輩!?」

(私、結構重いと思うよ)

「こんなところで気を遣わないでくださいっ!」

(背、高くなっちゃって…………)

 目を覚ましたら保健室のベッドの上だった。

 保健室の先生が、カントリーマアムをくれた。

「何があったんですか?」

 と聞いたのだが、声になっていなかった。もう一度、「何があったんですか?」と咳払いをしてから聞いた。

「過労。以上」

「過労? なんすかそれ?」

「平均睡眠時間」

「四時間。四当五落なので」

「どこの昭和育ちだ? 流子ちゃんでしょ?」

「そうですけど」

「有名も有名。合唱やってバスケやって、勉強できて、塾行って。輪廻を回すハムスターになってどうする」

「ハムっ!?」

 ハムスター呼ばわりされたのは、妹だけではなかった。

「現代の受験事情からいくと、睡眠時間確保は当たり前。でも、流子ちゃんが選んでそういう生活やってるんだからね? 寝てないのは親のせいじゃないよ」

「課題が多いんですよ。それなりに」

「帰れる?」

「帰りますよ」

 制服の襟を整え、しわを気持ちだけ伸ばし、保健室を後にする。

 二年一組の前の廊下に文継がいた。文継だけじゃない。中一の女の子、中三の女子の後輩は文継と話していた。

「三条先輩!」

 文継が手を振る。振られていない手はコンビニのあんまんを持っている。

 三人は、副部長のお見舞い代表団。中一の女の子は飲み物を、中三の後輩は配られた合唱部の顧問からの連絡事項。

「はー」

「とりあえず食べてください。このあんまん、めちゃうまいです」

「ほんとだ、めっちゃうまい」

「飲み物も、先輩、高千穂牧場のカフェオレです。私、好きです」

「ありがとう~、私も好き。ありがとね。中一の甲咲こずえちゃん」

「そうです」

「先輩、熱ありますよね?」

「へ?」

 こずえが手を伸ばして流子の額に当てる。

「保健室で測らなかったですか?」

「測らなかった」

「だるくないですか?」

「だるい」

 こずえは、担いでいたカバンから、冷えピタを取り出した。流子は、恐縮する前に感嘆符を三つくらい重ねた。

「いつも持ってるんです。よく熱出すから。一枚使ってください」

 こずえは、流子を促して、おでこを露出させ、冷えピタを貼った。

「三条先輩、可愛いです」

 中三の小野塚小鳥はクリアファイルに入れて、書類を流子に渡す。

「みんなありがとう」

「実は、他の皆さんからも、応援の物資が」

 文継は言う。

 ゼリーやらプリンやら、スポーツドリンクやらが、スーパーの袋一杯に詰め込まれて、流子に手渡される。

「持って帰れないよ、でも、嬉しい」

「三条先輩が頑張っているのは、みんなが知っています。先生も『少し休んだら?』とおっしゃっていたので」

「あ、それなら、ごめん、今日の例会で配ろうと思っていたお土産、文継配っといてくれる?」

「なんですか?」

「阿闍梨餅。日持ちしないから明日配ってよ」

 流子はロッカーから阿闍梨餅の箱を取り出した。

「わかりました」

 冷えピタが冷たいのは、体が熱いから。だるさが発熱から来るものだと、流子は冷えピタを貼って理解した。節々の稼働も本調子じゃなく、背筋には寒気が走り、鳥肌が立つ。

「うつるから、もう十分だよ」

「駅まではみんな一緒です」

 文継は言った。

「そんなこと言うならタクシーで帰るよ?」

「じゃあ、そのタクシーに乗ります!」

「うぐ、高一になったからって、生意気言いおって」

「流子先輩、それは生意気じゃありません!」

 こずえは声を上げた。「文継先輩も、小鳥先輩も、私も、真昼間に、教室の真ん中で、ぶっ倒れた人を、お見送りしないなんて、考えられないだけです」

「真昼間に、教室の真ん中で……はぃ」

 利発で意志の強いこずえは、先輩に対して物怖じせず、状況を客観化させた。見事な手際だった。

「あー、三条? 大丈夫かー?」

 廊下の向こうから流子の担任の藤枝先生がこちらに歩いて来た。

「藤枝先生」

「冷えピタ。用意がいいな。はよ帰れ。部活の子たちも帰してやれ」

「はぁい」

「三条、お前適当に一週間くらい休んでも、授業についていけないなんてないよな?」

「マジなめんなって感じですよ」

「お前ほんとそういうー」

「休んでも寝ながら学べます。内田樹は言いました。『寝ながら学べる構造主義』。」

「言ってねえよ。それ本のタイトルだよ。名著だよな。俺も大学生の時読んだ」

「『ローマ人の物語』を進める時が来たか。あー、明日からちょっと休むかもです」

「おう、休め休め。って言ったこと、校長に言うなよ?」

「言いませんよー。ホワイトな学級運営ありがとうございますー」

 声を高めに張るけれど、首がこきんと曲がり、頭がかくんと垂れる。

「大丈夫か?」

「だ、大丈夫ですよ」

 と言いつつ、流子はかなり疲弊していて、しゅるしゅると脚がたたまれ、座り込んでしまった。

「タクシーですね。呼んでおきます」

 文継は有無を言わさず配車アプリを起動させ、都立下北沢中高の校門にタクシーを呼びつけた。「肩貸します」としゃがんで流子を引き上げた。文継が流子を持ち、流子のカバンを小鳥が持ち、ビニール袋一杯の救援物資はこずえが持って全てタクシーの中にぶち込んだ。

「配車アプリの決済はこちらでしておきます」

 通告し、問答無用でアプリ決済。流子が文継に運賃を払うべく、財布を出そうとすると、車が出た。「ちょまっ」漢字で口を挟む暇すら与えなかった。

「これが、高一か……壁ドンとかされちゃうのかな、……楽しみだな」

 幡ヶ谷の家に着く。鍵を開け、重い荷物をとりあえず廊下に乗せて、……。……。

 ガチャっと音がして、しまったと思った。

「おね・え・ちゃ。……冷えピタ。風邪の時のゼリー袋詰め。廊下でお休み」

 実桜の指差し確認。

「いや、こけただけだから。勘違いしないで」

「勘違いしているのは、お姉ちゃんなのでは? ゼリーは冷蔵庫に入れておきます。部屋にたどり着くまでにこと切れている人が、こけただけ、これ如何に?」

「実桜には見られたくなかった」

「ほらほら、ベッドへどうぞ。後で温かい飲み物をお持ちします。今日はお母さんが遅いから、私が、ご飯を作ってお持ちします。ふーふーしてあげましょうか?」

「どうして年下というのは、高一になるとこうも生意気になるの?」

「お姉ちゃんが弱くなっただけじゃない? ほらほら、休んでよ」

 実桜は制服をほどきに自室へ戻り、髪を後ろで結わくと、エプロンを着てマスクをし、温かい飲み物を作った。

 チャイミルクティー。

 流子のお気に入りのタンブラーにそそぐ。

 氷枕を用意。のど飴完備。実桜の部屋から、流子未読のマンガを数冊。キッチンからはクラムチャウダーの香り。

 実桜が動く音が、静止していた三条家の空気を攪拌し、リズムを作った。そのリズムを聴きながら、流子は眠りに就いた。

 流子のスマホには合唱部の面々から、おびただしいほどの心配のLINEメッセージが届いていた。流子は結果的にそれらすべてを無視し、心配の火災旋風は零時をまたいでも鎮火しなかった。

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