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 塾のクラス決めのテストを流子は受ける。

 テストは英語と数学だけで、流子はかなりいい点を取って、上位クラスに留まることが決まった。

 さっきまで同じクラスだった男子が、冷たい汗をかいていたりするのは、本人が他人を煽りに煽った天罰だった。実力主義的な世界は、人の鼻を明かすにはもってこいだ。「遊戯王やってるからだよ、ばーか」と言ってやりたかった。

 高校二年生を準備する春休み、春期講習で高難度の単語の問題を駆け抜ける。

 北参道や大塚の男子たちも、顔つきが徐々に変わっていく。

 高難度とは、彼らですら解けないということで、先取りして余裕かましていた彼らだけにいつも順風が吹くわけではない。

(今頃焦るなよな。できるやつはみんな先に焦るんだよ)

 大塚はでも、縦のつながりが強固だから、落ちこぼれもある程度まで引っ張ってもらえる。「やっぱ毛づくろいは大切だよな」と誰かが言って、聞いた人が笑った。

 その笑い声は、ちょっと前まで大塚や北参道の大声だったのに、今は全然そんな場況ではない。

 休憩時間、流子は春風に誘われて根津美術館へ行く。

 あの東洋の美術品が、なめらかな肌と微笑みを見せる。庭園の樹々が風にそよぐ。

 短い時間、春期講習の昼休みに、ふと訪れてみると、多くの人がその美術品に憩いを求めていることがわかる。

 美術品の良し悪しなんて、流子にはわからない。でも、その場の空気、体を抜けて行く春嵐が、美術品とは何の関係も理由もなく、流子を押し上げてくれる気がしていた。

 ところどころで立ち止まり、じっと庭園の樹々を見る。そういうふるまい、気取ったふるまいが、ここでの正解ではないかと思い、わけもわからないまま、立ちつくす。

 暖かい風は、皮膚を柔らかくし、温度を感じさせた。先日まで冷たく心を閉ざしているような美術品に、流子は触れたいと思った。

「ふふ、笑っちゃう」

 自分がこの美術館で一番年少なんじゃないかと思い、その自意識に思わずつっこみを入れた。

「いけない、ホントにいけない」

 声を出さずに笑い続けていると、喉がねじれる。けほっと咳を漏らす。

 天気雨が降る。流子は塾へと戻る。途中でサンドウィッチを買って昼食にした。

 高校二年生から入塾する人が体験に来ていた。

 見知らぬ教室で見知らぬ人がいるというのに、みんな平静を装って、本を開いたり音楽を聴いたりする。

 流子は、人を雰囲気で判断すると痛い目を見ることを知っていた。成績もひととなりも直感では判断しきれない。

 春休みの実桜は、大手塾で特待生として遇されることが決まっていて、赤坂見附入学まで、新宿で春期講習を受けている。流子は実桜が心配だった。中学の秀才が高校でも同じ様に秀才でい続けられるとは限らない。

 流子も、演習中心の勉強に切り替えるのに四苦八苦した記憶がある。ノート作りや単語帳なんかのインプットだけでは、実際の問題に太刀打ちできない。

 でも実桜にそういうアドバイスをするのは、気が引ける。人に言われても簡単に「はいそうですか」とはならないのが普通。それに実桜なら自分の特性をよくわかっているだろう。

 ……実桜は流子よりずっと頭がいい。

 ところで、三条家では中学生と高校生は、非常勤講師と准教授くらい待遇が違う。

 実桜もまた潤沢な予算を与えられ、塾の後は秋葉原でパソコンパーツを買い漁り、ホクホク顔で帰ってくる。「春休みだけにしなよ」と、流子は咎められなかった。

 ……いつもは制服の流子が、丈の長いニットを着て長い脚を見せるから、前から知っていた男子たちは、「あれ? こんなにかわいかったっけ」と目を見張る。休みの日も制服が規則の学校がある中で、流子は半ば計算して耳目を集める。

 ポニーテールにしたのは、メンヘラに見られるのが嫌だったから。むしろあざといと、一部の女子には大変評判がよかった。くるぶしまで見せて、革靴を履いている。今日の靴はECCO。歩きやすい。そしてプラスチック製の伊達メガネをかけている。筆記用具を取り出す大判のトートバッグは下ろしたてだった。

 帰りのエレベータで、一緒に乗った先生に「風紀を乱すな」と怒られた。もっともだ。

 流子は久しぶりに明るいうちに塾を出て、人混みの表参道を千代田線に乗って迂回し、代々木公園を歩いた。

 ちょうど桜が咲き、芝生は花見客のシートで埋め尽くされていた。

 代々木公園は流子が小学生の時から、課外活動でことあるごとに行っていた。

 幡ヶ谷からは少し遠い。

(これで桜を見たから、今年の花見タスクは終了かな?)

 代々木八幡のバス停から、幡ヶ谷経由のバスに乗る。

 新学期がどんどん近づいていく。長い助走から飛び立とうとする、その手前のような気もするし、長いトンネルの手前の、最後の明るさのような気もする。

 トンネルを抜けると、雪国なのかもしれない。今が分水嶺、川端の言を借りれば「国境」。視界のない吹雪が、トンネルの先で待っているのだろうか?

 大学受験に失敗したら、実桜と同じ年に受験する。実桜が受かって流子が落ちる。自分は後期か私大に回る…………考えたくもない。

 予備校の先生は、「緩むな」と言う。緩むことはない。緩むことはないけれど、どうやったら頭がよくなるのか、それがわからない。緩まなければ、頭がよくなると?

 上のクラスにいるからといって、下のクラスより進学実績がいいとは、必ずしも限らない。

 下北沢はそれに該当しないが、特進クラスとそうでないクラスを分けている高校は、平均的な進学実績はもちろん特進クラスの方が高い(当たり前だ。偏差値で振り分けているのだから)が、特進から東大が出ず、下のクラスから、東大が出ることだってある。「下のクラス」なんて言い方が、卑屈にさせるか、奮起させるかは、人によって違うし、学力の成長スピードも人によって違う。追い込み型も多い。流子ははっきりと先行逃げ切りだった。実桜は、どちらかというと追い込み型だろう。

 バスの中に入ってくる春風は、流子の心を浮き立たせる。

 いつもの景色、渋谷から、時間のある時はバスに乗って、幡ヶ谷まで帰ったものだった。

 渋谷の景色と、付随する記憶を振り返る。

 小学生のころは母親が渋谷で仕事をしていて、塾帰りに渋谷でご飯を食べた。

 実桜も、幡ヶ谷からバスに乗って、夜更けの渋谷を歩いた。

 まだその時は東急プラザもあり、東急本館もあった。紀伊國屋は地上階にあって、ヒカリエもスクランブルスクエアもストリームもなかった。

 宮崎料理屋で食べた炭焼き鳥がとても懐かしい。父親は車を運転するから酒を飲まず、母親は焼酎を二、三杯傾けた。

 流子は自分が恵まれていることをよくわかっていたから、親に反抗することもなく、淡々と塾に行き、学力を蓄えた。

 渋谷の小学生向けのスパルタ塾で、何度も嫌な思いをした。

 流子は今でも246沿いの渋谷を歩く時、吐き気を催す。思い出すのもおぞましい。

 美味しいご飯が、両親からのご褒美だと、その時は思わなかった。

 今とは家族の金回りも違うし、通り過ぎた生活は糧だったと思う。でも、父親が残業で車を出せない日に、女三人で乗る京王バスは、沈鬱としていて嫌いだった。

 実桜の話し声は、まるで赤ずきんのもののようで、可憐で華奢で、母親は激烈に疲れていたから、相手をするのは必然、流子だった。

 どんな事を話したかは、正直覚えていない。その頃流子は、実桜のことを一種の知恵遅れと思っていた。定型発達から逸脱している妹を、嫌いになってはいけないと、心に刻み、自らに制約を課していた。

 今から思えば、実桜の逸脱は、精神科的な傷病の一種ではなく、複雑な都市機構に対する、実桜なりの対処法だった。

 バスの中で話すのは流子と実桜だけだった。それは、渋谷のバスのディーゼルエンジンと、富ヶ谷の交差点で鳴らされるクラクション以外の、痛烈な泣き声。

 子供が無邪気に話す声は、世界を象徴している。内容は他愛のないことなのだ。世界の真実でも、ネグレクトの結果でもない。彼らは何も、気づいていない。自分が世界を代弁していたことに気づくのは、もうその資格と力を失った大人になってから。

 幡ヶ谷駅バス停に降りると、流子はそのままドトールに入った。

 アイスティーのLサイズと、ミラノサンドA。ミラノサンドを頬張ると、アイスティーのストローに薄い紅をつける。

 ぱらぱらと塾の問題を眺め、復習する。

 メガネを外し、ポニーテールをほどく。流子はそういう時に息を吐かないようにしている。「はあっ」とか言って、首を振ったりすると、なんとなく年増くさい。でも、年増かどうかはわからないけれど、流子はうねった毛先に手をやるしぐさが抜けなかったりする。なくて七癖、あって四十八癖。

 幡ヶ谷のドトールは激戦地で、東大が近いこともあり、東大の学生か、駒場に近い高校の生徒がよく勉強をしている。

 何回かアイスティーをお替りし、スイートポテトなんかで糖分を補給する。

「お姉ちゃん、ドトール?」

 実桜からチャットが飛んでくる。

「そだよ」

「実桜も行っていい感じ?」

「塾の課題?」

「復習のお時間、私にもやってきた」

「待ってるから来なよ。もうコンパスは不要」

「コンパス? 何のこと?」

「何でもない」

 十分後。実桜は、注文を済ませ、流子の席の対面に座ると、まずミラノサンドを頬張る。満足に浸ると、そのまま数学の問題に取りかかる。

 さかさまに見てもわかる。二次方程式の解と係数の関係の問題。? ちょっと待って、早くない? 流子は焦り、しばらく動揺した。

「実桜、それ、今日の問題?」

「うん。とっても興味深い。係数比較はよくやってたから、納得という感じ」

「あ、あ、お姉ちゃん焦るなぁ」

「おやぁ? お姉ちゃんともあろうお方が、妹の成長スピードに驚いている感じですかぁー?」

「ま、ま、まあ、し、進度が速いからって身についているとは言えない……ガクガク」

 流子の背中を通った人に、実桜は手を振る。流子が振り返ると、感じのいい男の子が少し遠い席についた。

「ちょっと声かけてくる。お姉ちゃんはいつも通り勉強してて……聞き耳を立てないように」

「立てねえよ。そんなこと、ないない」

 実桜が席を立つと、流子はあからさまに勉強しているという聞き耳体勢で、英単語を書きなぐりながら、「ほわぁ・ぱあぁ」っとした中学三年生以上高校一年生未満の話を、一言一句のがすまいとした。

「やあやあ、ノガさん。ノガさんも幡ヶ谷住みなんだねぇ。お姉ちゃんと一緒にいるところを見られたからには、何か口止めにお菓子でもおごってあげないとだねぇ」

「実桜実桜、お姉さん好きっていつも言ってたね。自慢のお姉さんって」

「お姉ちゃん、可愛いでしょ?」

「なんか、雰囲気ある。実桜実桜とは違うよね、どっちかっていうと、かっこいいというか」

「頭もいいの。好きになっちゃだめだよ」

「俺は実桜実桜一筋だから。こんなところで会うとはね、天の配剤、晴天の霹靂、驚天動地だよ」

「実桜一筋かぁ。で? なんで私立の付属高なんかに行っちゃうの? 実桜と都立を巡ろうって約束したじゃんかよぉー」

「すみません」

「実桜ショックだなー」

 二人は、にこやかに会談し、間尺を取った実桜は「ちょっと待ってて」と言って、流子のところに近寄った。

「ちょっと一緒にケーキ食べてくる」

「どうぞご自由に」

 実桜は勉強道具を置きっぱなしにして、野上皐月のがみ・さつきの隣の席に座る。高校生に満たないから、まだマナーをよく知らないのだ。でも売り上げに貢献していますよと主張すべく、ケーキを二人分頼んで、一つを皐月に渡す。

 ノガさんと呼ばれている皐月は、志木にある名門私立高校に入学する。

 背の高い男子で、実桜と比べると頭一つ以上違う。皐月は、流子の方を見遣る。

「お・姉・ちゃ・ん・が気になる?」

「いや俺はだから、実桜実桜一筋で……、せっかくのお姉さんとの時間なのに、悪いなって」

「お姉ちゃんとはいつでも会える。実桜と会えるのは、今日が最後かもよ?」

「確かにぃ。てか、赤坂見附受かったの?」

「ふ、ノガさん、私を舐めてもらっては困ります。あの渋谷区立中で一番優秀だったのは、誰だかわかっていますか?」

「ふ、愚問だったね」

「わかればいいのです。わかれば」

 実桜は、ケーキを美味しそうに食べる。多くの人の受験はなかなかうまくいかない中で、実桜と皐月は成果を残した。

「赤坂見附はさ、受験したけど、受かんなかったよ」

 皐月はこぼした。

「志木にいけるんだから、いいじゃん」

「なんか放心している」

「実桜もだよ」

「それは嘘だね」

「嘘じゃないよ」

「喫茶店に来た理由を言ってみてよ」

「お姉ちゃんと勉強しに」

「でしょ?」

「ノガさんは?」

「本でも読もうかと」

「実桜に会いに来たんじゃないの?」

「それもある」

「ノガさんは、大学もそのまま私立に行っちゃうのか」

「上手く答えられない。それは、申し訳ないよ」

「そう。まあ、実桜のことを忘れて、楽しく過ごすがいいさ」

「あのさ、なんか僕たちの間に何らかの思い出があったみたいに言っているけど、僕の中では実桜実桜は、永遠に倒せない主人公。僕は主人公に敵わないライバルの一人だった。こんな風に話すのも珍しいことだし、僕は敗者だから、傷口をえぐらないでほしい」

 実桜は少し悲しそうな顔をした。

「実桜は、マウントを取ってしまった。それはごめん。謝るよ。でも、何の思い出もないなんて、せっかく実桜とノガさんは同じ学校の同級生だったのに、少し寂しいよ」

「実桜実桜の可愛さは、かけがえのないものだよ。実桜実桜の学力は誇るべきもので、高いコミュ力だって羨ましいと思う。今日、お姉さんと勉強している実桜実桜を見て、実桜実桜が下を見て安んじるタイプじゃないことがわかる。いつもお姉さんを見て、上へ上へと高みを目指す。みんながみんなそうとは限らないよ」

「? どういうこと?」

「つまり、僕と実桜実桜には、何の関係もないってこと。煽ったり煽られたりする、単純な同級生で、特別心の交わりがあったわけじゃない」

「どういうこと?」

「実桜実桜が、中学でふるまっていた天真爛漫な学力の暴力の全ては、お姉さんとの結びつきが、お姉さんとの関係が、可能にしたものなんだねって」

「秋葉原一緒に行ったじゃん」

「実桜実桜のお供をしただけだよ。実桜実桜ほどお金はないし、僕はパソコンのパーツより遊戯王カードを集める方が楽しい」

「先言えよ。私といるとつまんねえって、先言えよな!」

 実桜の声が上ずった。

「実桜、帰るよ」

「お姉ちゃん……」

「あんたが悪いの。天衣無縫なんだから、人を傷つけたら、あんたも傷つけられんのよ。ここは喫茶店だし、実桜のクラスメイトくんにも悪いしね」

 皐月は申し訳なさそうに頭を下げた。

「だって、だって、おかしいじゃんかよお。てめえの学力が足んねえのを、人のせいにして」

「実桜。あんたこれからずっとそれで生きてくつもり?」

「一歳年上なだけなのに、知った風な口を利いて、年上のつもりかよ」

「事実年上だし、あんたの気持ちはよくわかる、つもり。クラスメイトくん、悪いね。実桜は、負けたことがないの」

 皐月は目を見開いた。流子が実桜のことを実に深く理解して接していることに驚いた。

「ほら行くよ。実桜、赤坂見附で彼氏作るんでしょ?」

「うう。またねノガさん」

「お、おう」

 勉強道具を片づけると、実桜は舌打ちした。

「お姉ちゃん、ごめん。勉強の邪魔した」

「ホントに、怒るよ?」

「ごーめーん。すみませんした」

「実桜さあ、好きなら好きって言わないと」

「好きじゃないっ!」

「一緒にアキバ行った仲なんでしょ?」

「行った。好きかも」

「志木の友達なんて、上玉じゃない。LINEはつながってるんでしょ? 恥ずかしがらずに謝りのメッセージを送るがいいわ」

「ええー。いーやーだー」

「どうすんの? 高校行く途中、京王新線で乗り合わせたら、無視するの?」

「しません。ちゃんとごめんなさいします」

「それに、あんたの二重人格、結構可愛いよ」

 実桜は目を×にして、深いため息をつく。

「別に二重人格じゃないよ。ただのヒステリーだよ」

「それが一番性質悪いんだがな」

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