1
1
下北沢の空はとても暗く、木のように空へと伸びる電柱の白色が、やけに明るく光っていた。
都立下北沢。中高一貫の都立中高では序列最上位に位置する。
もちろん都立赤坂見附に進学実績は敵わないと言いつつ、年によってはお株を奪うこともある。
冬と春のはざまの、暖気が攪拌する寒気の澄んだ香りが、都立下北沢中高一年、三条流子の、どこにも根差さない郷愁を刺激した。
これから流子は渋谷の塾に行き、ぬかりなく勉強する。
勉強することは彼女の生活の一部であり、内省を深める孤独の源泉でもあった。
時刻はちょうど十九時を回っていた。雨をコートのフードで避けて、京王井の頭線に乗ると、間を置かず英単語帳を開く。
がたがたと揺れる車内で、単語をそれらしい発音で聞こえない程度に声に出してみる。
電車内の風景は静止していて、交わされる会話もなかった。
渋谷は流子のホームタウンで、嫌いな町だった。
井の頭線が終着駅の渋谷に着くと、流子は軽く伸びをして単語帳を仕舞い、カバンから水筒を出して水を口に含んだ。飲むなら味のしないものがいい。
宮益坂を上がっていき、ふと後ろを振り返る。やはり風景は静止していた。
世界で自分だけが動いていると感じる。実際はしかし流子と同様に、人々は体を動かして街を行き交うのに、視界に収まる人々の像と街の気配は、どこかよそよそしかった。
その塾に通う下北沢生は、流子だけだった。
私立の上位校の男の子と女の子が、慣れない恋愛をしているのを尻目に、席に着くと、ふうと息を吐いて、ノートを取り出し、予習した部分の確認を行った。
流子のことを遠巻きに見ながら、雰囲気のいい女子だと思う男子は何人かいた。
そういう男子の相手をするのが、流子は嫌いではなかった。余裕があれば、笑顔を見せて一緒に答え合わせをしてもいいと、流子は本当に思っていた。
でも残念なことに、流子にそんな余裕はなく、流子の笑顔は垣間見ることすら難しかった。
塾での流子の成績はそれほど良くはない。そもそも流子は、多くの学生と同様に、塾に行きたくて行っているわけではなかった。
いいことが一つあるとしたら、帰りに青山ブックセンターに寄れることだった。
今度はどんな本を買おうかと、右脳でぼんやり考える。
塾の講義を受け終えると、本屋に寄って、尖ったマンガを一冊買う。きわどいシーンは、ストレス発散の流路になる。見て、心音を高鳴らせ、表情を動かし、安心する。よかった、私まだ感動できるんだ。それは、感情のヴァリエーションのストック、つまり素材集めをしているようなものだった。
青山ブックセンターで、本にブックカバーをかけてもらい、その手触りにいつも愛しさを覚え、一月の寒さの中、手袋をはずして、手に息をかけつつ歩きながらマンガを読む。
にまにましたり、声を漏らしたりしながら、宮益坂を降りる。
電車には乗らずに渋谷スクランブルスクエアの十一階へ上がる。
シェアラウンジでそこが終わる少し前まで、学校の課題と、膨大な塾の宿題を片づける。
シェアラウンジに置いてある菓子で腹を満たし、喉に絡まった緊張を、熱い鉄観音茶で胃に流し込む。
右手が止まることはない。すごい速さで数学の課題をこなし、スマホの辞書アプリで英単語を検索する。
塾の宿題は正直過負荷で、流子はずっとやめたいと思っていた。
でも、こうやって親の金で快適な勉強生活を過ごせるのなら、多少実力がなかろうと、我慢してやってもいい。
京大文学部出身の母親が、適当に選んできた塾だから、設定された難易度がわからなかったんだろう。母親は関西人だから、東京の厳しさを知らないに違いない。
ふ、と嘲る資格があるわけでないと思いながら、都立下北沢で上位をキープする自分の努力から、京大を低く見てしまう。
でも母親とて、東大と京大の差を理解していないわけではない。
重要なことは流子が、現在一杯いっぱいだということだった。シェアラウンジでの勉強の最中、母親や父親から心配のメッセージをもらっても、課題に没頭して返信を怠ることからもわかる。
友達の緋津町子から連絡があって、いくらスマホが震えても感知しない。
ライバルはシェアラウンジで仕事をしているお兄さんお姉さん。
(でも、マックよりチャートの方が洒落てるでしょう?)
京大を低く見て、対抗相手を大人に設定する挑戦は、勝ち目がないように思われる。京大も東大も、目指すなら誰でもどうぞと言い、毎年一万人近くの舐めた受験生に辛酸を嘗めさせることを、流子が知らないわけではない。
時間が経って勉強を切り上げ、コンビニで肉まんを食べて一息つくと、スマホに電話がかかってくる。父親から。
「あ、もしもし」
「もしもしももしもない」
「お父さん、早口言葉やめて」
「どこにいる?」
「渋谷」
「私も偶然渋谷にいる」
「そぉれは偶然ですねぇー」
「渋谷のどこだ?」
「スクランブルスクエア下りたところ。あ、ヒカリエの方がつけやすい?」
「絶対にそこにいろよ」
「はいよ~」
父親の運転するBMWに乗る。
どさっとカバンを後部座席に投げて、流子はシートベルトをした。車が発進する。
「お疲れ、お父さん」
「それはこちらのせりふだ」
「ふん。勉強で疲れることなんてないよ。誰と競っているわけでもないしね」
「私も、二十年前同じことを言っていた」
「お父さんと同じ?」
「というより、誰でも同じこと言うものだ」
父親はニヒルに笑った。
「池袋女学院とか、新宿女子とかだったら、もっと楽だったかもね」
「女子校がいいってよく言っていたよな」
流子は残り少なくなった水筒の水を空にする。
渋谷でクリニックを営んでいる父親とは、まだ本格的にやりあったことがない。幸か不幸かそういう機会には恵まれなかった。
医学部に行ってほしいと、父親が望んでいるわけではなかったから、あまり気を遣わずに済んでいる。流子は医学部には今のところ興味がない。
妹の実桜は、父に甘えて医者になりたいと言う。実桜は、都立下北沢中学は受けず、公立の中学で高校受験を準備している。都立の最高峰、都立赤坂見附を狙っている。姉に対する対抗心は隠せない。
父親が、別に私立でもいいんだぞ、と言う家庭だからこそ、競い合って都立を目指すものなのだ。
粛々と車は道を進み、幡ヶ谷の家へと帰る。
流子は帰るとすぐシャワーを浴び、実桜の部屋をのぞいて、彼女が寝ているのを確かめてから、ベッドにもぐった。妹が勉強しているのに寝るなんて、「そんなお姉ちゃんいらない」から。
朝は流子も実桜も弱い。母親が二人を順番に起こして、寝ぐせを直すように言う。
朝ごはんを家族みんなで食べる。
母親が最初に仕事に出て、父親が皿洗いをしている間に流子と実桜が出発する。
六号通りを甲州街道まで出て、地下の駅まで下りる流子と、西原の方へ向かうために甲州街道を横切る実桜は、幡ヶ谷駅前で別れる。
「お姉ちゃん、気をつけてねー」
ブレザーをひらひらさせながら、実桜は待ち合わせしている友達のところへ走る。
流子は京王線で明大前まで行ってから、井の頭線の下北沢駅で降りる。
世田谷区の住宅街にある都立下北沢中高は、こぢんまりとした校舎と、小さな校庭、ちょっとした体育館を合わせた、コンパクトな施設を有する。
流子があくびをしながら階段を上り、二階の一年二組の教室を目指していると、背中を叩かれた。
「流子ちゃん、おはよ」
町子だった。
「おはよう。町子、ごめん、昨日はLINE返せなくて」
「勉強してたの?」
「まあね」
「じゃ、後でノート見せて。和訳でわかんないところがあったの」
背中を叩いた次の瞬間にはもう階段の踊り場にいて、返事をする頃には町子は見えなくなっていた。
「速すぎる」
流子がのろのろと階段を上がり、教室の扉をくぐると、何人かが振り返って、一通り視線を泳がして、流子を見る。それから興味を失ったように元の向きに戻ってまた会話を続ける。
流子は同級生に気取られないように、顔の向きを固定しながら、一人の男子に目線をやる。
神代夕陽。
夕陽は後ろの席の白石蒼と一緒に「大学への数学」(という雑誌)の問題を解いている。周囲への配慮を忘れるほど、没頭して盛り上がっているから、クラスメイトからすると見せつけられている感じがする。
夕陽は見せつけている気なんてなく、ただ楽しいことをやっているだけ。それがわかるから、周囲は夕陽を嫌いになれない。
流子もいつかは、「ねえ、私もまぜてよ」と言うつもりなのだが、まだ時は満ちていない。
流子はマフラーで押さえていた髪を解放し、一度ほどき、それからまたくくる。
がやがやしていた教室は、徐々にその声の勢いを落とし、先生がガラッと扉を開けて入ると、級長の銘凛が号令をした。
抜き打ちの英単語テストが行われ、みんながざわついている中で、流子はさらさらと解答し、二番目に先生に提出した。
そのまま先生は英語の授業にシフトする。
流子は思う。先生が英単語テストを抜き打ちで行うのは、およそ十回に一回。前回も授業がひと段落ついた段階でテストしていた。今回、テストがあるのは、流子には「読めて」いた。誰に誇るともなく、鼻で息を吐く。点数がいいとは言っていない。別に準備したわけでもないが、いや、少しはした。昨日渋谷まで単語帳開いたっけと振り返る。
英語の授業を聴きながら、流子はぼんやりと自分と実桜のことを考える。次の授業の世界史は、流子の好きな教科だった。数学も好きだが世界史の方が好き。理科はあまり得意じゃなかった。でも、実桜は逆だった。理科が得意な実桜。社会が好きな流子。
このままだと京大文学部。
「笑えない。ほんと、笑えないんだけど。東大文Ⅲになんとかねじ込めないかな」
「京大文学部に何か恨みでも?」
町子が休み時間に肩を叩いた。
「いや、入れるとか、入れないとかじゃなくて、母親の思惑にはまるのが嫌なだけ」
「私、千葉もあやしいんだけどなぁー」
「それは知らん」
「勉強も部活もみっちりやって、流子ちゃんにはいつも頭が下がるね」
まあね。それほどでもないよ。
そんな軽い呼吸で、流子は場を離れた。
流子が席を立つタイミングというのは、注意深く観察すれば、誰でも予測できる。
遠くで流子のことを見ている生徒は、流子の声や、交わされている会話が聞こえなくても、ああ、そろそろ立つな、というのがわかる。
そして、やっぱりな、とうなずく。あるいは当たったことに「よぉし」と小さくガッツポーズするかもしれない。
ただそれは、流子のことを理解しているのではなく、流子のまとう風を読んでいるのだ。占星術に近い。
町子はたびたびあっけにとられる。ちょ、まって、待ってよ、と口に出る頃には、流子の姿はもう見えない。廊下の角を曲がっている。
「三条先輩」
「文継。パンおごってあげる。ついてきて」
「はいっ!」
露草文継は中三。流子の彼氏。彼氏という言い方は、あまりに直截的だから、流子は好まないし、文継はそもそも自分にその資格があると思っていない。
文継は弱小合唱部のテノールに最近加わった。流子はそこのソプラノで、たまにソリストをやっている。
購買でカロリーを確保すると、合唱部は昼休みの練習を始める。
発声練習をそこそこに、学生コンクールの課題曲やクラス対抗の合唱コンクールの特別枠で歌う曲を練習する。
女子が多い合唱部だから、男子はどこか縮こまっている。積極的に発言する文継も、遠慮をしないわけではない。
流子の代は流子しかいない。
学年で一人だと、流子は、役職や役割を一手に引き受けることになる。
ⅬⅠNEでの根回しも、先輩の送別会も、部活の勧誘チラシの作成も、流子はできることは何でもやってきた。もちろん高校生のできることなんて、たかが知れているとも言える。でも実際に、鬼難しい塾の予習をしながら、学年で上位をキープし、その上で部活という組織を運営するのは、かなりきつい。一つの達成ですらある。
普通は、こんなことやってらんねぇよ。時間ねぇし、勉強してぇんだよ、と嫌気が差すものだ。そうならないとは、確言できないけれど、流子は塾のある平日の三日間の放課後も、ギリギリまで部活をやり、井の頭線に乗る。
だから、こういうのは珍しいのだ。
部活の休憩時間、いつもの缶ポカリで乾杯し、流子は文継と音楽室の窓際で、話し始める。
「土曜日暇?」
「三条先輩の方が忙しいのでは?」
「私の知り合いの、頭の悪い女子は、休日の誘いに、男子にこう言いました。さて、何と言ったでしょう?」
「一緒に勉強しませんか?」
「正解」
二人でくつくつと笑う。
「こんなことを言うのはなんだけど、私、オフなのに勉強したくないよ」
「でも先輩、きっと先輩は、本屋に行こうよ、なんて言うんじゃないですか?」
「だめ、かな?」
「紀伊國屋は大きすぎます」
「わかった、神保町の方がいいよね。そうしようそうしよう」
「せんぱいぃ」
「わかっているよ。私はわかってる。古本は私にも敷居が高い。東京堂書店なら、おしゃれで、カフェもあって、空いていて、何時間いても……」
「先輩。映画とかっ」
「映画は嫌い。誰が好き好んで他人のラブストーリーを見たいと思うの?」
「物語に自分たちの関係を重ねたり、想像を現実にしたりするきっかけに」
「あー、嫌い嫌い。映画はいやなの。第一、集中できない」
土曜日は午前授業。銘々に下北沢から移動し、渋谷や新宿に足を延ばす。
「バルト9とか近いのに」
どうやら文継は映画が好きらしい。
「好きな女優さん誰だっけ?」
「橋本愛」
「どうして好きなの?」
「背が高い……ような気がするから」
「背の高い年上っと…………私?」
文継は軽くうなずいた。品のいい笑みを浮かべるから、流子は少しドキッとする。
「三条先輩は、背が高くて、可憐ですよ」
「可憐とか、黙れっつーの」
ペコっと文継の頭を叩く。
三条流子は、背が高い。高一で167センチある。バスケ部の助っ人で試合に出場しても、控えめに言って八面六臂の活躍をしてしまう。
バスケは昔から「手慰み」でやるが、流子としては自分を「文学少女」として売り出したいのだ。
「文学少女は、ちょっとその、それはー、」
「そ・れ・は・?」
「勉強も運動も文化活動もできる先輩ですけど、文学少女というのは、つまり、欠陥を売り出す商売ですから。無理ですよ。四角いものを丸くはできません。でも、そういう完全無欠なところが、僕は好きです。ええ、ちっとも弱くないんですよね」
明るい表情で文継は言う。
その言葉一つ一つが流子は好きだった。
健全な言葉遣いと、それに加えられる彼の正直さゆえのユーモア。
謙譲語を使うくせに、微塵も意見を曲げないところ。
「ちっとも弱くない…………、そうかな?」
流子は首をかしげる。
下北沢にいる時は、少しも翳りがないから、そう感じられるのかもしれない。
流子は死屍累々の受験戦争の様相を、文継に報じようとは思わなかった。
明るい先輩のまま、素敵な先輩のまま、文継と話していたかった。流子の旅路には常に屍がつきまとい、その亡霊を除霊しながら、道を定めていかなくてはならない。脱落していく亡霊の道連れに遭うわけにはいかない。
塾で誘いをかけられても、流子は努めて、それを無視する。
表の道で恋愛をすると決めた。夜に身持ちを崩したくない。塾に何かを期待してはいけない。
「わかったわかった。国立近代美術館は? 最近行ってなくて、そろそろ、ね?」
「なにがそろそろですか。それはつまり僕に《お勉強》しろということで?」
「文化女子的ステータスをアピールしているのよ。わからない?」
「わかります。わかりますよ。でも、僕は、……その……」
「何?」
「美術館では美術品ではなく、美術品を眺める先輩を眺めることになるから…………」
はいはい。見せつけてくれてありがとう。お腹いっぱいです。という表情で、申し訳なさそうに、部長は練習再開を合図した。