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 下北沢の空はとても暗く、木のように空へと伸びる電柱の白色が、やけに明るく光っていた。

 都立下北沢。中高一貫の都立中高では序列最上位に位置する。

 もちろん都立赤坂見附に進学実績は敵わないと言いつつ、年によってはお株を奪うこともある。

 冬と春のはざまの、暖気が攪拌する寒気の澄んだ香りが、都立下北沢中高一年、三条流子さんじょう・るこの、どこにも根差さない郷愁を刺激した。

 これから流子は渋谷の塾に行き、ぬかりなく勉強する。

 勉強することは彼女の生活の一部であり、内省を深める孤独の源泉でもあった。

 時刻はちょうど十九時を回っていた。雨をコートのフードで避けて、京王井の頭線に乗ると、間を置かず英単語帳を開く。

 がたがたと揺れる車内で、単語をそれらしい発音で聞こえない程度に声に出してみる。

 電車内の風景は静止していて、交わされる会話もなかった。

 渋谷は流子のホームタウンで、嫌いな町だった。

 井の頭線が終着駅の渋谷に着くと、流子は軽く伸びをして単語帳を仕舞い、カバンから水筒を出して水を口に含んだ。飲むなら味のしないものがいい。

 宮益坂を上がっていき、ふと後ろを振り返る。やはり風景は静止していた。

 世界で自分だけが動いていると感じる。実際はしかし流子と同様に、人々は体を動かして街を行き交うのに、視界に収まる人々の像と街の気配は、どこかよそよそしかった。

 その塾に通う下北沢生は、流子だけだった。

 私立の上位校の男の子と女の子が、慣れない恋愛をしているのを尻目に、席に着くと、ふうと息を吐いて、ノートを取り出し、予習した部分の確認を行った。

 流子のことを遠巻きに見ながら、雰囲気のいい女子だと思う男子は何人かいた。

 そういう男子の相手をするのが、流子は嫌いではなかった。余裕があれば、笑顔を見せて一緒に答え合わせをしてもいいと、流子は本当に思っていた。

 でも残念なことに、流子にそんな余裕はなく、流子の笑顔は垣間見ることすら難しかった。

 塾での流子の成績はそれほど良くはない。そもそも流子は、多くの学生と同様に、塾に行きたくて行っているわけではなかった。

 いいことが一つあるとしたら、帰りに青山ブックセンターに寄れることだった。

 今度はどんな本を買おうかと、右脳でぼんやり考える。

 塾の講義を受け終えると、本屋に寄って、尖ったマンガを一冊買う。きわどいシーンは、ストレス発散の流路になる。見て、心音を高鳴らせ、表情を動かし、安心する。よかった、私まだ感動できるんだ。それは、感情のヴァリエーションのストック、つまり素材集めをしているようなものだった。

 青山ブックセンターで、本にブックカバーをかけてもらい、その手触りにいつも愛しさを覚え、一月の寒さの中、手袋をはずして、手に息をかけつつ歩きながらマンガを読む。

 にまにましたり、声を漏らしたりしながら、宮益坂を降りる。

 電車には乗らずに渋谷スクランブルスクエアの十一階へ上がる。

 シェアラウンジでそこが終わる少し前まで、学校の課題と、膨大な塾の宿題を片づける。

 シェアラウンジに置いてある菓子で腹を満たし、喉に絡まった緊張を、熱い鉄観音茶で胃に流し込む。

 右手が止まることはない。すごい速さで数学の課題をこなし、スマホの辞書アプリで英単語を検索する。

 塾の宿題は正直過負荷で、流子はずっとやめたいと思っていた。

 でも、こうやって親の金で快適な勉強生活を過ごせるのなら、多少実力がなかろうと、我慢してやってもいい。

 京大文学部出身の母親が、適当に選んできた塾だから、設定された難易度がわからなかったんだろう。母親は関西人だから、東京の厳しさを知らないに違いない。

 ふ、と嘲る資格があるわけでないと思いながら、都立下北沢で上位をキープする自分の努力から、京大を低く見てしまう。

 でも母親とて、東大と京大の差を理解していないわけではない。

 重要なことは流子が、現在一杯いっぱいだということだった。シェアラウンジでの勉強の最中、母親や父親から心配のメッセージをもらっても、課題に没頭して返信を怠ることからもわかる。

 友達の緋津町子ひづ・まちこから連絡があって、いくらスマホが震えても感知しない。

ライバルはシェアラウンジで仕事をしているお兄さんお姉さん。

(でも、マックよりチャートの方が洒落てるでしょう?)

 京大を低く見て、対抗相手を大人に設定する挑戦は、勝ち目がないように思われる。京大も東大も、目指すなら誰でもどうぞと言い、毎年一万人近くの舐めた受験生に辛酸を嘗めさせることを、流子が知らないわけではない。

 時間が経って勉強を切り上げ、コンビニで肉まんを食べて一息つくと、スマホに電話がかかってくる。父親から。

「あ、もしもし」

「もしもしももしもない」

「お父さん、早口言葉やめて」

「どこにいる?」

「渋谷」

「私も偶然渋谷にいる」

「そぉれは偶然ですねぇー」

「渋谷のどこだ?」

「スクランブルスクエア下りたところ。あ、ヒカリエの方がつけやすい?」

「絶対にそこにいろよ」

「はいよ~」

 父親の運転するBMWに乗る。

 どさっとカバンを後部座席に投げて、流子はシートベルトをした。車が発進する。

「お疲れ、お父さん」

「それはこちらのせりふだ」

「ふん。勉強で疲れることなんてないよ。誰と競っているわけでもないしね」

「私も、二十年前同じことを言っていた」

「お父さんと同じ?」

「というより、誰でも同じこと言うものだ」

 父親はニヒルに笑った。

「池袋女学院とか、新宿女子とかだったら、もっと楽だったかもね」

「女子校がいいってよく言っていたよな」

 流子は残り少なくなった水筒の水を空にする。

 渋谷でクリニックを営んでいる父親とは、まだ本格的にやりあったことがない。幸か不幸かそういう機会には恵まれなかった。

 医学部に行ってほしいと、父親が望んでいるわけではなかったから、あまり気を遣わずに済んでいる。流子は医学部には今のところ興味がない。

 妹の実桜みおは、父に甘えて医者になりたいと言う。実桜は、都立下北沢中学は受けず、公立の中学で高校受験を準備している。都立の最高峰、都立赤坂見附を狙っている。姉に対する対抗心は隠せない。

 父親が、別に私立でもいいんだぞ、と言う家庭だからこそ、競い合って都立を目指すものなのだ。

 粛々と車は道を進み、幡ヶ谷の家へと帰る。

 流子は帰るとすぐシャワーを浴び、実桜の部屋をのぞいて、彼女が寝ているのを確かめてから、ベッドにもぐった。妹が勉強しているのに寝るなんて、「そんなお姉ちゃんいらない」から。



 朝は流子も実桜も弱い。母親が二人を順番に起こして、寝ぐせを直すように言う。

 朝ごはんを家族みんなで食べる。

 母親が最初に仕事に出て、父親が皿洗いをしている間に流子と実桜が出発する。

 六号通りを甲州街道まで出て、地下の駅まで下りる流子と、西原の方へ向かうために甲州街道を横切る実桜は、幡ヶ谷駅前で別れる。

「お姉ちゃん、気をつけてねー」

 ブレザーをひらひらさせながら、実桜は待ち合わせしている友達のところへ走る。

 流子は京王線で明大前まで行ってから、井の頭線の下北沢駅で降りる。

 世田谷区の住宅街にある都立下北沢中高は、こぢんまりとした校舎と、小さな校庭、ちょっとした体育館を合わせた、コンパクトな施設を有する。

 流子があくびをしながら階段を上り、二階の一年二組の教室を目指していると、背中を叩かれた。

「流子ちゃん、おはよ」

 町子だった。

「おはよう。町子、ごめん、昨日はLINE返せなくて」

「勉強してたの?」

「まあね」

「じゃ、後でノート見せて。和訳でわかんないところがあったの」

 背中を叩いた次の瞬間にはもう階段の踊り場にいて、返事をする頃には町子は見えなくなっていた。

「速すぎる」

 流子がのろのろと階段を上がり、教室の扉をくぐると、何人かが振り返って、一通り視線を泳がして、流子を見る。それから興味を失ったように元の向きに戻ってまた会話を続ける。

 流子は同級生に気取られないように、顔の向きを固定しながら、一人の男子に目線をやる。

 神代夕陽かみしろ・ゆうひ

 夕陽は後ろの席の白石蒼しらいし・あおと一緒に「大学への数学」(という雑誌)の問題を解いている。周囲への配慮を忘れるほど、没頭して盛り上がっているから、クラスメイトからすると見せつけられている感じがする。

 夕陽は見せつけている気なんてなく、ただ楽しいことをやっているだけ。それがわかるから、周囲は夕陽を嫌いになれない。

 流子もいつかは、「ねえ、私もまぜてよ」と言うつもりなのだが、まだ時は満ちていない。

 流子はマフラーで押さえていた髪を解放し、一度ほどき、それからまたくくる。

 がやがやしていた教室は、徐々にその声の勢いを落とし、先生がガラッと扉を開けて入ると、級長の銘凛めい・りんが号令をした。

 抜き打ちの英単語テストが行われ、みんながざわついている中で、流子はさらさらと解答し、二番目に先生に提出した。

 そのまま先生は英語の授業にシフトする。

 流子は思う。先生が英単語テストを抜き打ちで行うのは、およそ十回に一回。前回も授業がひと段落ついた段階でテストしていた。今回、テストがあるのは、流子には「読めて」いた。誰に誇るともなく、鼻で息を吐く。点数がいいとは言っていない。別に準備したわけでもないが、いや、少しはした。昨日渋谷まで単語帳開いたっけと振り返る。

 英語の授業を聴きながら、流子はぼんやりと自分と実桜のことを考える。次の授業の世界史は、流子の好きな教科だった。数学も好きだが世界史の方が好き。理科はあまり得意じゃなかった。でも、実桜は逆だった。理科が得意な実桜。社会が好きな流子。

 このままだと京大文学部。

「笑えない。ほんと、笑えないんだけど。東大文Ⅲになんとかねじ込めないかな」

「京大文学部に何か恨みでも?」

 町子が休み時間に肩を叩いた。

「いや、入れるとか、入れないとかじゃなくて、母親の思惑にはまるのが嫌なだけ」

「私、千葉もあやしいんだけどなぁー」

「それは知らん」

「勉強も部活もみっちりやって、流子ちゃんにはいつも頭が下がるね」

 まあね。それほどでもないよ。

 そんな軽い呼吸で、流子は場を離れた。

 流子が席を立つタイミングというのは、注意深く観察すれば、誰でも予測できる。

 遠くで流子のことを見ている生徒は、流子の声や、交わされている会話が聞こえなくても、ああ、そろそろ立つな、というのがわかる。

 そして、やっぱりな、とうなずく。あるいは当たったことに「よぉし」と小さくガッツポーズするかもしれない。

 ただそれは、流子のことを理解しているのではなく、流子のまとう風を読んでいるのだ。占星術に近い。

 町子はたびたびあっけにとられる。ちょ、まって、待ってよ、と口に出る頃には、流子の姿はもう見えない。廊下の角を曲がっている。

「三条先輩」

「文継。パンおごってあげる。ついてきて」

「はいっ!」

 露草文継つゆくさ・あやつぐは中三。流子の彼氏。彼氏という言い方は、あまりに直截的だから、流子は好まないし、文継はそもそも自分にその資格があると思っていない。

 文継は弱小合唱部のテノールに最近加わった。流子はそこのソプラノで、たまにソリストをやっている。

 購買でカロリーを確保すると、合唱部は昼休みの練習を始める。

 発声練習をそこそこに、学生コンクールの課題曲やクラス対抗の合唱コンクールの特別枠で歌う曲を練習する。

 女子が多い合唱部だから、男子はどこか縮こまっている。積極的に発言する文継も、遠慮をしないわけではない。

 流子の代は流子しかいない。

 学年で一人だと、流子は、役職や役割を一手に引き受けることになる。

 ⅬⅠNEでの根回しも、先輩の送別会も、部活の勧誘チラシの作成も、流子はできることは何でもやってきた。もちろん高校生のできることなんて、たかが知れているとも言える。でも実際に、鬼難しい塾の予習をしながら、学年で上位をキープし、その上で部活という組織を運営するのは、かなりきつい。一つの達成ですらある。

 普通は、こんなことやってらんねぇよ。時間ねぇし、勉強してぇんだよ、と嫌気が差すものだ。そうならないとは、確言できないけれど、流子は塾のある平日の三日間の放課後も、ギリギリまで部活をやり、井の頭線に乗る。

 だから、こういうのは珍しいのだ。

 部活の休憩時間、いつもの缶ポカリで乾杯し、流子は文継と音楽室の窓際で、話し始める。

「土曜日暇?」

「三条先輩の方が忙しいのでは?」

「私の知り合いの、頭の悪い女子は、休日の誘いに、男子にこう言いました。さて、何と言ったでしょう?」

「一緒に勉強しませんか?」

「正解」

 二人でくつくつと笑う。

「こんなことを言うのはなんだけど、私、オフなのに勉強したくないよ」

「でも先輩、きっと先輩は、本屋に行こうよ、なんて言うんじゃないですか?」

「だめ、かな?」

「紀伊國屋は大きすぎます」

「わかった、神保町の方がいいよね。そうしようそうしよう」

「せんぱいぃ」

「わかっているよ。私はわかってる。古本は私にも敷居が高い。東京堂書店なら、おしゃれで、カフェもあって、空いていて、何時間いても……」

「先輩。映画とかっ」

「映画は嫌い。誰が好き好んで他人のラブストーリーを見たいと思うの?」

「物語に自分たちの関係を重ねたり、想像を現実にしたりするきっかけに」

「あー、嫌い嫌い。映画はいやなの。第一、集中できない」

 土曜日は午前授業。銘々に下北沢から移動し、渋谷や新宿に足を延ばす。

「バルト9とか近いのに」

 どうやら文継は映画が好きらしい。

「好きな女優さん誰だっけ?」

「橋本愛」

「どうして好きなの?」

「背が高い……ような気がするから」

「背の高い年上っと…………私?」

 文継は軽くうなずいた。品のいい笑みを浮かべるから、流子は少しドキッとする。

「三条先輩は、背が高くて、可憐ですよ」

「可憐とか、黙れっつーの」

 ペコっと文継の頭を叩く。

 三条流子は、背が高い。高一で167センチある。バスケ部の助っ人で試合に出場しても、控えめに言って八面六臂の活躍をしてしまう。

 バスケは昔から「手慰み」でやるが、流子としては自分を「文学少女」として売り出したいのだ。

「文学少女は、ちょっとその、それはー、」

「そ・れ・は・?」

「勉強も運動も文化活動もできる先輩ですけど、文学少女というのは、つまり、欠陥を売り出す商売ですから。無理ですよ。四角いものを丸くはできません。でも、そういう完全無欠なところが、僕は好きです。ええ、ちっとも弱くないんですよね」

 明るい表情で文継は言う。

 その言葉一つ一つが流子は好きだった。

 健全な言葉遣いと、それに加えられる彼の正直さゆえのユーモア。

 謙譲語を使うくせに、微塵も意見を曲げないところ。

「ちっとも弱くない…………、そうかな?」

 流子は首をかしげる。

 下北沢にいる時は、少しも翳りがないから、そう感じられるのかもしれない。

 流子は死屍累々の受験戦争の様相を、文継に報じようとは思わなかった。

 明るい先輩のまま、素敵な先輩のまま、文継と話していたかった。流子の旅路には常に屍がつきまとい、その亡霊を除霊しながら、道を定めていかなくてはならない。脱落していく亡霊の道連れに遭うわけにはいかない。

 塾で誘いをかけられても、流子は努めて、それを無視する。

 表の道で恋愛をすると決めた。夜に身持ちを崩したくない。塾に何かを期待してはいけない。

「わかったわかった。国立近代美術館は? 最近行ってなくて、そろそろ、ね?」

「なにがそろそろですか。それはつまり僕に《お勉強》しろということで?」

「文化女子的ステータスをアピールしているのよ。わからない?」

「わかります。わかりますよ。でも、僕は、……その……」

「何?」

「美術館では美術品ではなく、美術品を眺める先輩を眺めることになるから…………」

 はいはい。見せつけてくれてありがとう。お腹いっぱいです。という表情で、申し訳なさそうに、部長は練習再開を合図した。

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