24話 甘酸の乾き
…六月に入り、季節は夏…の、前に梅雨入りだ。
暗々とするような黒南風が街を覆い、辺りを湿っぽくする。こんなどんよりとした空気では、授業を聞く事すらも億劫だ。
「はぁ…」
そんな溜息が漏れる。湿っぽいのは苦手だ…心まで湿っぽくなる。だから晴れ晴れとしている方が、俺にとっても都合が良い。
「天官君!この問題解いて!」
「はぁ…分かりました」
涼月先生はいつものテンションだ。全く、こっちの都合もお構い無しだな。
…ってか、この問題難し過ぎるだろ。普通解けないぞ?こんな問題。
今、涼月先生が俺に提示した問題…それは、その分野の専門家や変態が10分くらい時間を掛けて完璧な解答を書けるくらいのもの。
…証拠に頭を悩ませているのはクラスの9割。例の学年一位さんと学年二位さんはさておき…これは俺が解けるようなものじゃない。時間が掛かり過ぎる。
…途中までなら、なんとか行けそうだが。
ってか、この人はこの問題を何処から持ってきたんだ。こんなの教科書とかには書いてないぞ。
…少し、訊いてみるか。
「…というか、涼月先生はこの問題解けるんですか?」
解けなかったら大問題だろう。自分に出来ない事を他人に押し付けるヤバい奴になってしまう。
この人数学出来る人なのか前々から気になってたんだよな…だって全部生徒に問題解かせるし。
「はっは〜ん…さては私の数学力を疑ってるのかな〜?」
「はい」
「間髪入れずの肯定!?」
…ノリが良いのは別に気にしないが…。
「まあちょちょいで解けるかな?そうだな〜…多分5分くらいあれば」
「は、はぁ…」
本当なのか嘘なのか。口だけならなんとでも言えるからな…。
「あ〜!まだ疑ってる!」
「そりゃ疑いますよ…涼月先生が授業で計算してるところなんて一切見てないですから」
「む〜!だったら見せれば良いんでしょ見せれば!」
…そう言って涼月先生は頬を膨らませながら解き始めた。
そもそもこんな問題を一人の生徒に解こうとさせる事が間違っているぞ…本当に。
「絶対解ける筈なのにな〜…なぁんで解かないかな〜…」
涼月先生の呟きを気にせず、俺は「はぁ…」と溜息を吐く。
「……」
「……」
…京さん、なんでそんな目をするんですかね?なんで俺を、そんなゴミを見るような目で見るんですかね?
俺は悪くない筈…だよな?不安になってきた。
[視点変更:京瑞葉]
(…仲良さそう…)
少なくとも私の視点で見れば、天官君と涼月先生は凄く仲が良い。仲が良すぎて、付き合ってるんじゃないかと思うくらいには。
(というかなんなの…!?私ならあの問題くらい3分で解き終わるのに!私の方が涼月先生より絶対頭良いのに!)
まあ、これは涼月先生の学力を確かめる場だって分かっている。分かっているけれど…妬けるわね。
だって、天官君が楽しそうだから。私と話している時より、口数が多いし。ノリも良いし。私と話している時は、なんかよそよそしいというか…。
…そう言えば、涼月先生は観察眼が凄いって話をしてただろうか。
…まさか、それで天官君を絆してる?彼と話しやすいように、事を上手く運んでる…?
(そもそも生徒に手を出す教師なんて…)
それこそ、恋愛小説でしか見た事ないんだけど…?
…って今、〝恋愛小説読むんですか?〟と思ったそこの貴方がた…殴られたいなら、どうぞこちらへ。
──そう考えている内に、涼月先生が解き終わったみたいなのだけれど…。
「ふぅ、これで良いでしょ?」
自信満々に天官君に言う涼月先生…だが、直ぐ様天官君は指摘する。
「…涼月先生、最後の計算間違えてます」
「え?あれ!?ホントだ…!?」
まさかの最後の最後で初歩的な凡ミス。ただの足し算をミスするって…教師にも抜けているところはあるのね。
…いや、もしかしてそこがポイント高いのかしら…?
世の中には一定数〝天然〟と言われる人が存在する。しっかりしていてもどこか抜けていたり、少々ドジをやってしまうような人の事を指すのだが…。
(…もしかして天官君の好みって…天然キャラ…?)
いやいや、それは無い…涼月先生が天然ぶりを発揮した事なんて、さっきのを除くと無い…筈。
でも…天官君が楽しそうなのは、事実なのだ。それはつまり…。
(……)
考えたくないけれど…もしかしたら、そういう事があるのかもしれない。彼が、彼女の事を好いているなんて…そんな可能性が、あるのかもしれない。
…というかそもそも、なんでそんなに話せるのよ…!?私なんか全然まともに話せなかったのに…!私とももっと話してよ…!
(…って、いけないわね…)
感情的になるなんて…私らしくない。やっぱり、これが恋なのかしら…。
動悸、嫉妬、寤寐思服。どれもこれも、私が恋をしているという事を自覚させられる。
彼の事を考えるだけで身体が、心が落ち着かない。これが…恋?
「ッ…」
考えるのは止めにしよう、そうしないと…私。
(おかしく、なりそう…)
[視点変更:天官零]
「……はぁ」
最近は特に視線が痛い。あからさまで、鋭くて…それで以て恐ろしい視線だ。いや〜、中々に怖い。
…だが、決して悪い視線だけではないのも皮肉だな…。
現在は体育の授業。男子はバスケ、女子は卓球…外は雨が降っているし、室内で出来るスポーツ、球技と言えばその辺が浮かんでくるか。
「天官!お前俺達と組んでくれよ!」
「お前何言ってんだ!天官は俺達が貰う!」
…というように。俺を取り合う構図が目立ってしまう。
…あの体育祭で異彩を放った俺だからか…俺の評価は改められた。以前俺に対し文句を言っていた南原でさえも、「頭が上がらない」と言わせた程には。
「は、はぁ…俺は…」
この場合、どちらのチームと組むのが正解なのだろう。
というかそもそも、〝天官零は足が速い〟と〝天官零はスポーツが得意〟という関係はイコールで成り立たない。別に俺が、運動が得意なんて分からないと思うのだが…。
「零、モテモテじゃねえか」
「叡か…見てないで助けろ」
叡はこの状況を見て楽しんでいる…どうやら俺の味方にはなってくれないらしいな…。
「いやいや、蒼馬だって似たようなもんだし。それくらい我慢しろよ」
「ぐぬぬ…」
確かに蒼馬のところも俺と同じ…いやそれ以上に争奪戦が繰り広げられている。野球の練習時にもとんでもない能力を発揮したからな…そりゃあ多いか。ただ蒼馬も、野球が得意という情報だけで、バスケが得意か、なんて分からないと思うが…。
「俺は意外と誘われねーな。嬉しい限りだぜ」
「本当だよ…はぁ…」
変に目立ってない叡が羨ましい。叡も俺と同じ様に足の速さとかなんとかで詰められると思っていたのだが…どうやら違うようだ。なんか腹立つな。
…そもそもこういうスカウトの何が嫌か、って…基本的に目立つ立場にあるからだ。そのチームの中枢に無理矢理入れ込まれて期待される事がしばしば…そして過度な期待とプレッシャーで精神がやられる。
その分、数合わせとかの方が幾分かマシだ。目立たないし、注目されにくい。モブのように影が薄い存在となり、期待もされないし責任もあまり押し付けられない。
…但し、影が薄過ぎると逆に当て付けを食らう事となるが。
「…あ、というかだったら、寺沖チームと天官チームに分かれれば良いんじゃね?」
「それだな!よし!決めるぞー!」
…なんか勝手に話が進みすぎているな。なんと言うか…俺と蒼馬の気持ちも考えて欲しいものだ。
「た、助けて〜零〜」
…蒼馬もあんな感じだしな。
アイツもアイツで、目立つ事は好きじゃない…が、素の性格が良すぎるから目立つ。自業自得だな。
…そしてこの後、チームは天官チームと寺沖チームという形で分けられた。
…本当に勘弁してくれ。
「よっ…!」
蒼馬がスリーポイントを決める。蒼馬のチームは歓喜の声で溢れた。
「はぁ…そもそも蒼馬の計算能力じゃ、ボールを持った瞬間にシュートの軌道を描けるから近づけもしないのに…」
アイツの筋力は平凡だが…筋力差をものともしない知的センスが備わっている。スポーツに至っては、叡と同程度の活躍を見せる。知能とは恐ろしいものだ…単純な力だけでは優位に立てないからな。
蒼馬の得意分野は心理戦もそうだが、計算だ。比嘉を超える演算能力は、他の追随を許さない…誰であっても、だ。この分野に関しては、京さんでも敵わないだろう。それだけ、蒼馬の空間把握能力はずば抜けている。
──つまり蒼馬にボールが渡れば、ゲームオーバー。叡ですら、ボールを持った蒼馬を止められる確率は、一割にも満たない。
「…だが」
「天官!」
俺は味方からのパスを受ける。
──俺も、蒼馬程じゃないにしても。計算は、得意だ。
「ふっ…!」
俺はセンターライン付近からのシュートを放った。それは見事に、相手のゴールへと入る。
…今度は俺達のチームの方が、歓喜抃舞する。
──なんだか、懐かしいな。昔も、こんな感じで楽しんでいた。こんな感じで、学生としての生活を謳歌していた。
…まあ、それも今となっては一切無くなった…そう思っていたが…充実が戻って来たからか、このような状況も久し振りに戻ってきたのだ。
なんだか、嬉しいような悲しいような…。
(…まあ)
周りの人間達が楽しそうなら良いか…と。俺は胸中でそう呟いて…。
「よし!まだまだいくぞー!」
味方のそんな掛け声と共に、俺は再びゲームに集中するのだった。
「疲れた…」
あの後バスケで身体を動かし続け…俺はもう疲弊し切っていた。あの後の授業もあまり頭に入ってこなかったしな…。
…そして、現在は放課後だ。
「…相変わらず降ってるな…」
相変わらずの土砂降りの雨。傘を持っていなかったら、俺はしとどに濡れたまま帰らなければならなかった事だろう。流石に濡れるのは勘弁だな。
「…帰りたいが…先に食材を買いに行かないとか…」
そろそろ食材が切れるから買ってこい、と澪から言われているからな。これで買わなかったらブチギレ間違い無しだ。
「…それじゃ、さっさと行くか」
俺は外に出て傘を差し、いつものスーパーへと向かう。
「…よし」
…頼まれたものは全て買い揃えた。これで澪から文句を言われる事も無いだろう。
結構重いが、こうやって食材や日用品を買いに行くだけで、澪は家事全般をやってくれるからな。それに比べたら、これくらい軽い労力だ。
(…に、しても)
改めて思えば、また俺は学校で目立つ存在になったのか…いや、そもそも京さんとまともに話せるという時点で、悪目立ちはしていたのだが。
それでも、俺が目立った事は確かなのだ。
「…昔になんて、戻りたくないけどな」
昔のような甘酸は、自ら進んで手放した…だが、甘酸は戻っている。
…故に…もどかしい。嬉しい筈なのに、渇いた感じがする。
──俺が普通の学生だったなら…不遇も何も無い、ただ単純に青春を謳歌している、普通の男子高校生だったなら、どれだけ良かった事か。
「…考えるのは止めにしよう…気が滅入って仕方が無い…」
…と。俺が帰路を辿ろうとした、その時。
「…?」
誰かから、電話が掛かってきた。
(…澪か?)
そう思ったが、スマホの画面には澪という名前ではなく、別の名前が書かれていた。
「…蒼馬?」
珍しいな…アイツが電話を掛けてくるなんて。普段は直接話してるし、態々通話越しで話す事は無いからな。というか、誰かから電話が掛かってくる事自体久し振りな感じだ。
…一先ず、俺はその電話に応答する。
「あー…もしもし?」
《もしもし、零?》
「お前が掛けてきたんだから俺に決まってるだろ」
《あはは、それはそうだね》
…こういう本題に入る前のワンクッションも、蒼馬によって作られている感じがする…普段の会話から誘導されてるのか?だとしたら恐ろしいが。
「…それで、なんの用だ?」
…俺はそう切り込む。本題を早く知りたいしな。
《来週カラオケ行か──》
「切るぞ?」
《待ってって!?ほんの冗談じゃん!?》
「はぁ…ふざけてないで本題を言え」
蒼馬も蒼馬で澪に似ている節があるな…冗談交じりに会話するところとかな。
《もう、分かったよ…》
…そして、蒼馬はその用件を話し出す。
《今度の定期テスト、ちょっと本気出そうかな、って》
「…そんな下らない事を伝えに電話してきたのか?」
《まさか。そんな訳無いよ》
「だったらなんなんだよ…」
俺が訊ねると…蒼馬は一拍を置いて、俺にこう言ってきた。
《──久々に、僕と勝負しない?》




