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1,2,3。1、2、3。
「すいません。少し休ませて下さい」
息を切らせて言う私に、初老のダンスの先生は少し顔をしかめつつ手拍子をやめる。同時にピアノの音色も止まり、私はヘナヘナとその場に崩れ落ちた。
立ち振舞や座学の授業は比較的問題なくこなしていた私だが、ここにして大きな壁が立ちはだかる。ダンスだ。
1月半後に迫る私のお披露目の舞台は舞踏会。そこで私は陛下とファーストダンスを務めることになるのだという。
私をこの世界に転生させた神様? は朝から晩までのハードスケジュールをこなしても倒れない健康な身体をくれたが、運動神経ばかりはどうにもならなかったらしい。
アデリア王国でもっとも権威ある、と言われるダンスの先生に師事した私だが、その腕前は全く上達する気配がない。今日も30分程ステップを踏んだが、全く踊りにならず、私は思わず音を上げたのだった。
とはいえ、このままでは陛下に恥を欠かせてしまう。何とかしてせめて形にはしないと、と立ち上がったところで、部屋のドアが開く。その向こうから長身の男性が部屋へと入ってきた。
「陛下!?」
慌てて陛下の方を向き、膝を折る礼をする。すると、陛下はカツカツと音を鳴らして私に近づき、こう問いかけた。
「そなた、ダンスは苦手か?」
「その……あまり得意とはーー」
いつも無表情で怖い印象のある陛下だが、悪い人ではない、ということはこの2週間で分かっている。
「そうか、では私が練習相手となろう」
今も、表情こそしかめ面に見える。しかし纏う空気は穏やかな陛下にふわりと手を取られ、もう一方の手でゆるく腰を支えられた。
「……? 陛下?」
陛下の合図でピアノが鳴り始めるが、陛下は動かない。不思議そうにする私に陛下の声が降る。
「まずは音楽を聞くことだ。それからゆっくり動こう」
陛下の声に促され、私はピアノの音色に耳を傾ける。流れる音楽は軽やかなワルツだ。ピアノが得意だ、という侍女さんの弾くそれはとても美しく、まるでピアノが歌っているよう。その演奏に聞き入っていると、除々にそのワルツのテンポに合わせて身体がひとりでに揺れだした。
「よし、じゃあまずはこっちへ」
そんな様子を見て陛下はゆっくりと私の手を引く。
「1、2、3。1,2,3」
リズムを刻むのは陛下の低く、優しい声。ほんの少し、少しずつ陛下が私を導く。まだ踊っている、というより歩いている、に近いけれど、段々と音楽に合わせて動く、という感覚はつかめてきた。
「今度は場所を入れ替えよう、ゆっくりとだ」
「そう、転びそうになったら受け止めるから」
陛下に言われるがまま、手を引かれるがままに動いていると、段々ダンスっぽくはなってくる。音楽にあわせてくるり、くるりと景色が変わるのはなんだか楽しい。
「「1、2,3。1,2、3」」
陛下と視線を合わせ、一緒にリズムを口ずさむ。宣言どおり躓きそうになっても、細身なのに力のある腕でしっかり支えてくれるから安心してステップに集中出来る。
すると今度は、
「では次はターンだな」
と陛下が言い、腰から手が離れ、もう片方の手を高く上げられた。少し陛下と離れて、そしてまた引き寄せられる。陛下の胸元に飛び込むと、
「もう一度するから、今度は右足を軸にして回ってみるんだ」
と耳元で囁かれる。思わず顔を真赤にしつつ、言われるがままにしてみると、クルリとターンが決まり、ふわりとドレスの裾が翻る。
思わずニコリとすると、陛下は今まで一番柔らかい笑顔を返してくれた。
2人でダンスの練習をした日から、少しだけ私と陛下の関係が変わった。なんというか……会う機会が増えたのだ。
ある日は初代の『黒髪の乙女』を題材とした歌劇に連れて行ってもらったし、またある日は軽食を持って王城の近くにある田園地帯へ散歩にも行った。
陛下曰く、
「初代の『黒髪の乙女』は誰でも知っている話で妃ならば一度見ておくべき劇だ」
「畑は国の礎だ。実際に見ておいた方が良い」
とあくまでも、妃教育の一環だと言っていたが、でも私が城にこもりきりにならないよう、配慮してくれているのがよく分かった。
お城の中でもダンスの練習の時には、よく練習相手を勤めて下さるし、他の授業の時にも顔を出して下さる時がある。他にも執務の合間にフラリと私のいる場所へやってくることがあった。
例えば……
「ほのか? それは何だ? 貴族名鑑か……」
「陛下!? もう1月もすれば舞踏会ですから……お会いすることになるだろう方のお顔と名前は覚えよう、と思いまして」
城の図書室にある、居心地の良いソファで短い自由時間を過ごしていた私。傍らにあるのは貴族名鑑ーーこの国の貴族の名前と略歴、そして肖像画を載せた図鑑だ。
ずっしりと重い図鑑を膝の上で開き、独り言を唱えていた私が少し奇妙だったのだろう。だが私がそう答えると、陛下はまた不思議そうに首を傾げた。
「勉強熱心なのはとても関心だが、自由時間まで勉強していては疲れないか? それに当日は補佐役が着くから、相手の名前が分からなくてもなんとかなる」
「いえ、今日は予定がゆったりだったので……それにーー」
陛下の言う通り、私のお披露目をする舞踏会では傍らに補佐役となる人がついてくれると言う。別世界からきた『黒髪の乙女』の社交を手伝ってくれる人だ。乙女がこの世界に来てある程度の間は、彼女たちの力を借りて社交をするのが当然、と思われているらしく、会う相手の名前を覚えていなくても失礼に当たらない、とは教えられていた。とはいえ、
「舞踏会でお会いするのは、皆さんこの国を支えてくれている人たちでしょう? 折角でしたら少しでもお名前を覚えてご挨拶をしたい、と思いまして」
「なるほど。『黒髪の乙女』に名を覚えてもらえていれば、それだけで彼らは歓喜するだろう。良い心がけだ。して、手応えはどうだ?」
「正直あまりーー前までいた国と言葉が全く違うので……」
偉そうなことを言った私だが、実はあまりこの勉強は進んでいない。そもそも人の名前を覚えること自体そこまで得意ではないし、アデリア王国の人の名前は当然横文字で、世界史の登場人物みたいな名前ばかりなのだ。
「そうか……では彼は誰か分かるか?」
なんとも情けない顔をする私を見て、陛下は私の膝から貴族名鑑を奪い去ると、パラパラとページを捲り、開いて見せた。
そのページに載っていたのは、陛下ほどではないが、美しい金髪碧眼の美青年だった
「この方は……エドワード・ブローシェル伯爵ですよね? アデリア王国でも特に有名な魔法石の産地の領主を勤めていらっしゃる」
「そうだ。最近5年来の愛人が奥方にバレたそうで、大変な騒ぎになったらしい」
「……」
「まあ、プライベートはともかくーー政治手腕は確かな人物だ。では彼は? 分かるか?」
そう言って次に示すのは、随分ふくよかな茶髪で初老の男性だ。
「えぇっと……港町がある場所を治めていらっしゃる方ですよね、お名前は……」
「ユリウス……」
「ユリウス・クレバート侯爵ですね!」
「そうだ。交易で所領を栄えさせる手腕は見事で、領民にも支持されている。……ちなみにこの髪がかつらだ、というのは公然の秘密だ」
「フッ、ちょっと陛下! 侯爵の前で笑っちゃったらどうしてくれるんですか!?」
「だが、これで忘れんだろう?」
そういう陛下は珍しくちょっぴり意地悪な顔だ。
「さ、続けるぞ。次は彼女だな」
「わぁ、格好良い女性ですね……」
いつの間にか、2人で膝をくっつけて貴族名鑑を開く体勢になりつつ小一時間。私と陛下はアデリア王国の要人についての勉強を続けた。
……それにしても、意外とかつらってバレてるんだなぁ……