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一万円札のカンマ

作者: 銀杏玲

一 美人学生


 「金ベルトの腕時計の男」の一件から、四か月が経とうとしていた。長い夏休みでボーっと、大学の図書館で朝から簿記検定の試験勉強をしている平凡学生とは裏腹に、暇つぶしに来ているおじさんが読む新聞の一面は、政局でずいぶんと賑わっていた。

 政局は海を渡った遠い世界のもの。企業会計原則だって海の向こうで議論されてしまう。やはり大学卒業後は、内地に行かねばとぼんやり目の焦点をぼかしていたところ、

 「あのぉ」

 と後ろから肩を叩かれた。

 後ろを振り向くと、眼鏡をかけた髪の長い女学生が腰をかがめて立っていた。

 「あのぉ」

 と小さな声で続けて話し始めた。

 「銀杏君だよね。文芸サークルの冊子に載ってた『金ベルト』の何とかの」

 あんなマイナーな学内の同人誌を読む物好きがいるものかと逆に感心した。

 「えー、そうです。『金ベルト』の何とかの銀杏です。あなたは?」

 「企業法学科3年の宇佐美。じつはね、あなたのこと探してたの」

 「はい?」

 あまりにも唐突な回答にひっくり返りそうになったが、よくよく見ると、手足がすらりとした美人だったので、少し照れてしまった。

 「だからね。ちょっとしたことなんだけど、相談に乗ってほしいの。あの黒木君だったっけ?銀杏君のエッセイに出てくる生意気君も一緒に」

 黒木のことはさておき、悪い気はしないので、一つ返事で

 「ぜひ」

 と言って、時間と文芸サークルの部屋番を書いたメモを渡した。

 「十二時、三三一番ね。ありがと。じゃ、後で!」

 宇佐美女史は嬉しそうにそそくさと、僕の視界から消えていった。


二 夏休みの黒木


 しばらくは図書館で電卓を叩いていたが、十一時半を過ぎたところでもうそろそろ準備をと思い、精算表の問題は後残しにし、外に出た。

 「生意気君も」と言っていたから、黒木を探しに会計学院棟に行くことにした。だいたい図書館から歩いて五分ほどのところに十階建ての細長い建物がある。

 夏休みに入ってから、黒木は細田教授の研究室に居座っているらしい。

 「らしい」と言うのは、同じ文芸サークルの友人から聞いた話である。その友人が、夏休み中に出し忘れていた精算表の課題を持って細田研究室に行くと、黒木が教授とコーヒーを飲んで談笑していたという。

 そんな話もあったので、試しに九階の細田研究室の前に行ってみると、案の定、中から、黒木と教授の笑い声が聞こえた。

 「コン、コン」

 ドアをノックして、

 「会計1年の銀杏です」

 と言うと、教授の声で

 「どうぞ」

 と返ってきた。

 ドアを開けると、黒木が古めかしい本を読んでいた。

 「おぅ、どうした?銀杏も精算表の課題か?」

 「違うよ。野暮用に少し付き合ってほしくて。美女からの相談だよ」

 教授がニヤリとしながら言った。

 「黒木君も青春がきたようだね。さぁ、さぁ、行ってあげなさい」

 黒木は面倒くさそうにダラダラとソフアから立ち上がったので、彼の手首をつかみ

 「では、教授、黒木をお借りします。失礼します」

 と言って、研究室を出た。

 「企業法学科の三年が、君にようがあるらしいから、サークル棟まで来てくれ。『金ベルト』のあれで、君を知ったらしい」

 「お前が面倒なものを書くから」

 「とりあえず行こう。美女を待たせちゃいけないよ」

 そう言って、僕と黒木はエレベーターで一階まで降り、筋向いに建つサークル棟の三三一号室に向かった。 


三 事の発端

 

 サークル棟一階の管理室で鍵をもらい、三階に行くと、三三一の扉の前には、すでにすらりとした長身の女性の姿があった。

 「女子を待たせちゃダメだと思うけどね。今回はこっちのお願い事だから許すけど」

 宇佐美女史は、黒木をそっちのけで僕の方を向いて言ったので、僕は、

 「ごめんなさい。失礼しました。まぁ、とりあえず中でお話を」

 と言って、中へ招き入れた。黒木もぶっきらぼうな表情をしながら、そそくさと入っていった。

 まず、黒木と宇佐美女史をバネの弱った布ソフアに座らせ、僕は雑誌に埋もれていた座布団を引っ張り出して、落ち着くことにした。

 僕は、この間のよくわからない妙な沈黙に耐えられなかったので、空気を読んで、

 「では、宇佐美さん。さっそくお話というのを」

 と切り出した。

 すると、宇佐美女史は、言葉も口にせず、ななめがけバッグからブランドものの長財布を取り出し、紙幣を一枚、円卓の上に置いた。

 「これなの」

 僕は身を乗り出した。

 「一万円札ですね。んっ?これはなんですか?」

 一万円札の左側の金額の数字に黒い太ペンで点が二つ書かれていたのである。

 黒木もソフアから床に膝をついて、

 「これがあなたの言うご相談ですか?」

 と問いかけた。

 「そう。この紙幣の点?カンマかしら? 先月亡くなった祖母の財布の一万円札なの。ただこれだけじゃないの」

 そう言って彼女はさらに財布から六枚も一万円札を並べた。それら六枚の一万円札すべての金額の数字には、カンマのような点が二つずつ書かれていたのである。


四 事の顛末


 「この謎、あなた達ならどう考える?」

 僕は、ちらっと黒木の顔を見た。黒木はじっと紙幣を見つめていた。

 「銀杏はどう思う?」

 そう意見を求められたので、

 「ただのいたずら書きか、何かの慣習に基づく何かか。少なくともカンマではないと見たほうがいいかもしれない。って言うのは、カンマだとしたら、一個でなければならないから。一万にカンマが二個はありえない。もしかすると、金額ではなくて、聖徳太子と何かを示すものなのかも知れないとも思うよ。ただ、材料が少なすぎる感はある」

 「それはその通りだ。ただ材料は少ないが、聖徳太子と関係があるという説を検証してみる価値はある。ところで」

 そう言って、黒木は宇佐美女史の方に視線を向けた。

 「何かしら?」

 瞳の奥を見透かすように見つめ合う二人の間に僕はすこぶる重い空気を感じていた。この二人は互いに何を見ようとしているのか。僕の気づかない部面がこの一万円札にあるのか。そんなことを考える中、黒木は沈黙を破って、

 「お婆さまはどのような方だったのでしょう?生い立ちであるとか」

 と、切り出した。

 宇佐美女史は、

 「そうね」

 と言って、祖母の生い立ちを話し始めた。

 「私の祖母は農家の家庭に一人娘として生まれたの。運動は得意だったみたいなんだけど、読み書きはできても計算は全然駄目で、結局、高校は勉強についていけず、早々に中退して、家の農作業の手伝いをしていたの。その頃に役場で働いていた祖父と出会って結婚してからは家の手伝いも辞めて、母を産んで家で主婦をしていたんだけれど、祖父が五十代で大病を患ってから、ずっと自宅看病の生活で。祖父はそれから数年後に亡くたったんだけど、そんな感じでいいかしら?」

 「えー。大変よくわかりました。がしかし、今の話を伺うとなおさら」

 黒木はそう言いながら、ポケットから折りたたみの財布を出して、五千円札を一枚取り出した。

 「一万円札と同じ肖像のこの五千円札が気になるところで。んー、やはり五千円札が気になる。お婆さまの遺品に五千円札というのはないのでしょうかね。聖徳太子に何か関係があるとすれば、同じ肖像が描かれている紙幣にも何らかの手掛かりがあるかも知れませんから」

 宇佐美女史は少し間をおいて、

 「さすがね。じつは祖母の財布の中には五千円札もあって、そこには」

 というところで、黒木が突然話を遮った。

 「そこには、やはりカンマが打ってあった。しかしそのカンマは一つだったというところでしょうか」

 僕は黒木の言っていることの意味がわからなかったが、宇佐美女史は驚きを隠せない様子であった。

 「なんで!」

 と、声を発する宇佐美女史に続けて、僕はことを理解するために黒木に尋ねた。

 「なんでそんなことが言えるの?一万円札のカンマにどんな意味が?」

 黒木は宇佐美女史が手にしていた財布を手に取り、そこから五千円札を取り出し机に置いた。

 「こういうことだ」

 そう言って話を続けた。

 「五千円札にはカンマが一つ打ってある。そして一万円札にはカンマが二つ。こう比較すれば、非常に単純な関係が見出せる」

 僕はあまりにもシンプルな規則性の発見に我慢できず口を挟んだ。

 「二分の一だ!」

 「そう。このカンマは、金額の大小を一万円札を基準に示しているにすぎない。では、何故、お婆さまはそんなカンマを紙幣に打つ必要があったのか。私見では、お婆さまは、生まれつき数の認識に何らかの障害があって、数字を認識することが困難な状況にあったのではないかと思われる」

 僕は宇佐美女史に尋ねた。

 「そうだったのですか?」

 「ええ、おっしゃる通り」

 ということは、他の紙幣にもカンマが打たれているのかと思い、

 「じゃあ他の紙幣にもカンマが?」

 と聞くと、黒木は

 「いや、その必要はない」

 と言って、話し出した。

 「人間は人の顔を識別できる。それを利用しているのが紙幣の肖像画だ。お婆さまは数の認識が難しくても、顔の違いで紙幣を認識できたはず。しかし、一万円札と五千円札は肖像画が同じだったために、その認識過程に混乱を生ずることが多かったのだろう。だから、点を打って、二枚の紙幣を識別しやすいようにしたのではないかと考えたのだが。そんな回答でいかがでしょう?」

 「いかがでしょうって?」

 僕は黒木の方を向いた。

 「君に言ったんじゃないよ。彼女にだ」

 黒木な宇佐美女史を指差した。

 「及第点よ」

 そう言って満足げな表情をして、黒木の方を見つめていた。

 「銀杏、これはこの方の挑戦状だ」

 黒木は続けた。

 「最初から一万円札と五千円札を並べてくれれば、きみだってその規則性に気づいていただろ。それをあえて示さなかったということは、すべてを知った上で、俺たちの推察を試しにきたに違いない。大した身分のお嬢様だ」

 「まさか!」

 僕はそんなことがあるかと驚いたが宇佐美女史はいたって冷静だった。

 「黒木君のいう通りだけど、この件は銀杏君が相談にイエスしたんだから、銀杏君の責任も追及しないとね」

 と開き直った口ぶりでソファから立ち上がって、

 「コーヒーでも飲みに行く?」

 と言ったので、

 「僕は紅茶党ですが、彼はコーヒー党です」

 と言うと、

 「そういう時は適当に付き合うのよ」

 と黒木と僕の腕を掴んだ。

 「その机のお金は手付金よ。じゃあ喫茶店でも行きましょ」

 僕たちは、何か消化不良のまま、美人学生に言われるがままに、新たな展開に導かれるのであった。


 ※昭和五十六年十一月銀杏玲著『美女と一万円札のカンマ』は北城商科大学文芸サークル同人誌に『一万円札のカンマ』と改題され、掲載された。


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