恋のライバルは俺自身!?―②
確かに彼女は綺麗だし、優しい女の子だとは思う。
だけど記憶を失くしてしまった俺と、俺と過ごしてきた思い出を持つ彼女との間には、埋められないギャップが存在している。
こんな状態で俺たちの関係が長続きするとは思えない。
もちろん、彼女は俺の婚約者だ。大切にはしたいと思っているし、良き理解者になっていきたいと思う気持ちに嘘はない。
だけど俺は心の何処かで、破局してしまっても仕方ないと思っている部分があるのも確かだ。もちろん、それを彼女が望むのならの話だが……。
「……ひとつお願いがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「はい、何でしょう?」
「シュヴァルツ様に、さん付けされるのはむず痒いので、私のことはそのままナターシャとお呼びください」
「では、俺のこともシュヴァルツと――」
「――シュヴァルツ様は、シュヴァルツ様なんです!」
「わ、わかりました……」
何やら彼女の中に譲れない拘りがあるらしい。
ナターシャの意外な一面を垣間見た。やはり乙女心は全くわからん。
「……それにしても、不思議な気分です。以前とは随分お変わりになられたのに、あなたからは何処か昔の面影を感じてしまいます」
そう言い、ナターシャは俺に笑いかけた。さっきの怒り混じりの笑みではない、彼女の本当の笑み。
そんな風に笑うのか。……って、さっきまであんなドライなことを考えてたくせに、一瞬気持ちがもっていかれそうになっているぞ、俺!
これではチョロインならぬチョーローだ。俺は彼女から手を離し、咳払いして気持ちを沈める。
「ま、まぁ、こう見えても一応は同一人物ですからね。ナターシャさ――ナターシャは、具体的にどの辺から昔の俺の面影を感じましたか?」
「それは……その……!」
「それは?」
「……」
そのまま顔を赤らめたまま黙り込むナターシャ。
そして、頻りに口元を触り始めた。
一体これは何を意味しているのだろうか。
『鈍いやつだな。そんなの、俺たちの愛の儀式のことに決まってるだろ? それにしても、久々のナターシャ味は格別だったな! またあの麗しの唇に目一杯、俺の愛を注ぎこみたくなってきたぜ!』
き、キスだって!? ……そう言われてみると、たしかにウブな女性には話しにくい内容かもしれない。
それに昔の俺ならいざ知らず、今の俺はこんな状態だ。本人だけど別人みたいなもんだしな。
……って、なんでお前、当たり前のように俺に話しかけてきてんだよ!? あと人の頭の中で恥ずかしいことを喋るな!!
「シュヴァルツ様は、その……あの後、何かお変わりになられたことはありますか?」
あの後とは、間違いなくキスの後のことだろう。
そういえば、黒歴史ノートにはナターシャのことを甘美な味と表現されていたけど、残念ながらあの時の俺の記憶は朧げだ。味を感じている余裕はなかったな……。
……って、味の感想じゃない! 頭の中の声につられて、思考がエロい方に流れてしまっているぞ! しっかりしろ、俺!
キスをしたということは、聖女の持つ退魔の力を俺は直に摂取したということだ。
もし俺の記憶が失くなったことが魔族の仕業だとしたら、俺に何らかの影響が出ているかもしれない。
だけど今のところ記憶が戻った感じは特にない。
てことはつまり、俺が記憶を失くしたことと、魔族は無関係ということになる。
でも俺の中に変化が起きている気がしないでもないような……
「昔の俺の声……!?」
そうだ! さっきから頭の中で鳴り響くあの声だ!
あれはきっと幻聴なんかじゃない……!
俺が昔の自分の心の声を認識し始めたのは、ナターシャと唇を重ねてからだ。
何故こんなことになったのかはわからないが、ナターシャとキスをしたことと何か関係があるのだろうか……?
「昔のシュヴァルツ様の声……? それって、つまり、記憶が戻られたということですか!?」
紅潮しながら俺の手を握り、俺に迫るナターシャ。どうやら心から溢れる悦びを隠しきれないようだ。
だけど残念ながら記憶が戻ったわけではない。
ただ、あの脳裏に響く声が幻聴ではないとしたら、俺の中には昔の記憶を持った別人格がいる可能性はある。
このことを知れば、ナターシャはどう思うのだろうか。
……きっと喜ぶだろう。
彼女が本当に求めているのは、俺であって俺ではないのだから当然だ。
……だけど俺はその事実を彼女に知られたくなかった。
何故なら俺は気づいてしまったからだ。
今目の前にいる彼女の満面の笑み、俺の記憶が蘇ったと思った時に上げた歓声、鼻腔をくすぐる彼女の甘い香り、興奮しながら俺の手を握る彼女の体温、……そして唯一今の俺が知らない魂をも刺激する彼女のとのキスの味。
彼女が幸せを感じている時の全てが、紛れもない俺の大好物であることを、俺は今完全に理解してしまったのだ。
そしてどうやらナターシャにキスしたのは、昔の俺だったようだ。
俺はあの一瞬だけ、俺の体の主導権を奪われたせいで、ナターシャの味を知らない。
……そのことが、堪らなく悔しかった。
「……いえ、残念ながらあなたのことはまだ思い出せてはおりません」
ウソではない。それに俺の中に別人格がいるのも仮説みたいなもんだ。確証なんてありはしないのに、ぬか喜びさせるのは良くないだろう。
だけどそれが自分への言い訳だということは、俺自身が一番よくわかっている。
現に俺は今罪悪感を覚えていた。
ナターシャが知りたいであろうことを秘密にしたという事実が、俺の心をちくりと痛ませる。
なんで俺はこんな気持ちになっているんだ……!?
「そうでしたか……。でも、少しずつで良いので、私のことを思い出して頂けたら嬉しいです……!」
そう言い、ナターシャは俺に微笑んだ。
その笑みは、見惚れるくらい美しいというのに、俺はそれを直視することができなかった。
『なぁ、良い女だろ? お前にはやらねぇけどな!』
うるさい、黙れ……! そう念じるだけで、俺の中から昔の俺の気配はすぐに消え失せた。
なのに、俺の中のもやもやは、いつまでも晴れることはなかった……。