第九話 ヴィティ、名付ける
私は、サラサラと絹のように滑らかで、氷のようにひんやりとしたシルバーブルーの髪をひっかけないよう、ゆっくりとブラシで梳いていく。香油の香りと共に、柔らかで繊細な髪束がするりするりと手からこぼれ落ちた。指先をかすめる優しい感触が、横暴な主から発せられているとは思えない。
『失礼な』
「えぇ、失礼しました」
私が悪びれる様子もなく手を動かせば、竜神様は、ふん、と鼻を鳴らす。
竜神様から直々に、名前をつけてくれと言われてから二日。あれから、事あるごとに『決まったか』と問いかけられ、私は気が滅入っていた。それこそ、一昨日、昨日はすぐに飽きるだろうと思っていたのが、今日になっても蒸し返される。もはや、それしか喋れなくなってしまったんじゃないかと不安になるほど、竜神様は口を開けばその話ばかり。過度な期待はやめてほしい。
だが、それを言えば、
『これほど時間をかけているのだから、よほど素晴らしい名前なのだろうな』
こう、嫌味を言われてしまう。
「本当に良いのですか」
『何がだ』
「名前です。神様に名前をつけるなんて、いくらなんでもおこがましすぎます」
『かまわん。光栄に思え』
こちらを向いておらずとも、竜神様が上機嫌であることは間違いなかった。私が深いため息を吐き出せば、辛気臭いと一蹴される。誰のせいだ。ツヤツヤとまばゆい輝きを放つ彼の髪からブラシをおろして、私はその髪の片方に小さな三つ編みを施していく。
「……変な名前をつけられるかもしれませんよ」
結った髪をブルーのリボンで止め、出来ましたよ、と竜神様に手鏡を手渡した。今朝、ようやく磨いたばかりのそれを、彼は気にも留めることなく使う。ありがとうの一言も出てこないところが、相変わらず憎たらしい。今も、心の声を聞いているはずなのに、絶対に反応してこないあたり、冷酷無慈悲な神様だ。
「お洋服も選んでおきましたから、お着替えになられてください。その間に、お食事をお持ちします」
ダラダラとベッドの上で朝の貴重な時間を過ごした竜神様は、いまだパジャマ姿である。ほとんど布一枚で隠されている筋肉質でバランスの良い体を見せつけられるのは、生粋の乙女である私には少々刺激が強い。
『ほう』
しまった、と私が顔を引きつらせる間もなく、手を掴まれてグイと顔を近づけられた。無駄に、格好いいのだ。性格の悪い主を好きにはなれないが、あまりに整った顔が迫れば、誰しも意識せざるを得ない。
「……おやめください」
『世話係、だろう?』
触れた部分が冷たい。普通、こういう時って熱くなるはずなのに。竜神様は、それはもう面白そうに目を細めて、私の腕をするりと撫でる。そのまま背中へ回り、肩甲骨から首筋、そして耳の裏へと流れるように駆け上がる指の感触が、私の全身に鳥肌を立てた。
「竜神様のお名前は、ヘンタイに決定しました」
私が出来る限り平静を装っても、全てを見透かしている竜神様はクツクツと笑う。
『あぁ、恐ろしい名前だな』
私のバクバクとうるさい心臓を、さらに掌握せんと言わんばかりに、竜神様は私を自らの腕の中に閉じ込めて耳元でささやく。鼓膜を直接震わす冬の風。油断すれば、そのまま支配されてしまいそうな甘くて低い声に、私は身をよじる。
「もう! 早く支度してください! お食事が冷めてしまいます!」
私がそのまま勢いよくジタバタと足を振り回すと、竜神様はか弱い人間をいじめて満足したのか、悪役らしい笑い声をあげて私を解放した。
最初のころは、私が優勢だった口喧嘩も、最近はもっぱらこの竜神様にいいように使われている。それもこれも、心の声が全て読まれてしまうせいだ。本当に、呪えるものなら呪いたい。真っ赤な顔で私が怒っても説得力はなく、ただ、竜神様をつけあがらせるだけ。ならば、もうここで切り上げて、食事の準備をしに行かなくては。
私がわざと大きな音を立てて扉を閉めれば、扉の向こうから、竜神様の楽しそうな笑い声が聞こえた。悔しい。
食事の片づけを済ませ、早々に部屋を去ろうとした私を、竜神様はやはりというべきか引き留めた。それも、特別な竜の力を使って。職権乱用も良いところだ。
『名前を聞かせろ』
「先ほど、申し上げました通りです」
『……夜な夜な、ワタシのことを考えていただろう』
「言葉選びに悪意を感じるのですが」
『わざとだ』
フッと口角をあげて、竜神様はワイングラスを口に運ぶ。今日はシードル。この辺りのリンゴを使った竜お気に入りの一本だと竜騎士様が先日持ってきた。どうやら、私の世話係就任祝いも兼ねているらしいのだが、あいにくと未成年の私は飲めない。竜騎士様には申し訳ないが、竜神様のご機嫌取りに使わせていただいている。
『それで、名は』
逃げたくても、逃げられない。凍った空気に縫い付けられて、私の視線ですら、竜神様から逸らすことは出来なかった。氷花が咲き誇る瞳は、何度見てもやはり美しい。冷酷で、獰猛で、狡猾で……だが、ほんの少しの子供っぽい輝きをはらんでいるそれは、見つめ続けていると気がおかしくなってしまいそう。
「……考えましたが、良いものは浮かばなかったのです」
私は深くため息をついた。諦めの境地、悟りを開く。
損な性格なのだ。どんなに嫌いな人との約束であろうとも反故には出来ない。名前なんてこれから先ずっと使っていくものを決めるなんて、適当にもすませられないし……。
そのプレッシャーは今までの人生の中で一番だった。
「申し訳ありません」
世話係として、竜神様の名付けも仕事内容に含まれるのか、定かではない。だが、一定の報酬をもらっている以上、彼の望みをかなえてやるのが、世話係の務めであることは分かっている。私が頭を下げる時だけ空気を緩めるあたり、この竜神様の人間性に関しても、世話はまだまだ必要そうだし。
『最後が余計だ』
「失礼しました」
『それを言えば許されると思ってないか』
「滅相もございません」
『……候補が、いくつかあっただろう』
仕切りなおすように、竜神様は私を硬直させていた力を解除する。私は、名前をいくつか真面目に考えていた事実を持ち出され、慌てて顔をそむけた。知られていた。竜の力を考えれば、当たり前のことではあるが、改めて言われると恥ずかしさが募る。
『あの中で、最も貴様が気に入っている名を呼べばいい』
「ですが……」
確かに、たった一つだけ、気に入っている名前がある。安直だが、私にしては最もまともな名前。
『早くしろ』
急かされ、私はぐっと覚悟を決める。笑わらないでくださいよ、と心の中で呟いて、ゆっくりと、今度は自分の意志で、彼の目を見つめた。
「フィグ」
私の村で、ブドウと共に植えていた大きな木。ブドウと同じような時期になるが、ブドウと違って酒にはせず、私たち、村の人々の飢えを和らげる貴重な食べ物だった。実を切り落とした時の、甘くてみずみずしい樹液で、渇きをしのいだこともある。
私にとっては、命を繋ぎ止めてくれた、大切な植物の名前。それこそ、神様のような。本当かどうかは知らないが、同じく国を守ってくれている竜神様にも、ぴったりなんじゃないかと思ったのだ。
とはいえ、ネーミングセンスの無さは自覚しているので、自信などあるはずもなく。ごまかして、竜神様が飽きてくれれば、それが一番だった。謝ってすむのなら、それに越したことはないとさえ。
バツが悪くなった私が頭を下げようと目を伏せると、
『悪くない』
たった一言、柔らかな、透き通る雪解け水のような声が、私の耳にするりと馴染んだ。
竜神様にしつこく迫られ、ついに考えた名前を名付けることになってしまったヴィティ。
彼は、ヴィティの名付けを「悪くない」と評価しましたが……?
ますます縮まる二人の距離。神様も何やら思うところがあるご様子です。
次回「フィグ、気に入る」
次回は、竜神様視点。何卒よろしくお願いいたします♪♪




