第八十三話 ヴィティ、愛する
ヘルベチカに春が訪れ、私はようやく手に入れた休暇にまどろんでいた。
婚約発表後、当然というべきか驚くほどの来客があり、世話係としても竜の妻としても、仕事、仕事、仕事の日々を送らざるをえなかった。
特に、あの引きこもりで横柄で最低な神様ともっぱらの噂だったフィグ様が、国民の前に姿を現し、愛する人を見つけ、少しばかり態度も柔和になったのだ。何があったのかと国中が騒然となるのも仕方がない。
しかも、そのきっかけとなった世話係が妻に、なんて話が漏れた日には、火の粉がこちらにも降りかかってくるのも仕方がないわけで。
もろもろの対応に追われること三か月。新婚だというのに、なぜかゆっくりとさせてもらうことも出来ず、ようやく手に入れた休暇が今日である。
まだまだホルンの麓は寒い。けれど、暦上ではすっかり春だ。
『ヴィティ』
早いもんだな、とフィグ様からもらった指輪を眺めていると、後ろから声がかかった。
最近はいたく真面目に人並みな生活を送るようになったフィグ様も、今日ばかりは私と一緒にお休みである。
「フィグ様。お休みになるのでしたら、ご自分のお部屋でなさってはどうです?」
当然のように、ソファへ腰かけていた私の膝に寝転がったフィグ様をたしなめると、フィグ様は、ふん、と鼻を鳴らした。
『たまの休みくらい、休ませろ』
「もう十分お休みになられているではありませんか」
私の膝より、ベッドの枕の方がふかふかとしていて寝心地は良いはずだ。
『……べ、別に。ワタシたちは、婚約者だぞ。共に過ごすのは当たり前だろう』
プイと顔を背けるフィグ様の髪が、サラリと揺れる。私がそれを手櫛で梳いてやると、フィグ様は気持ちよさそうに目を細めた。
毎日、お屋敷で一緒に過ごして顔を見合わせてはいるけれど、結局こうして甘えられると弱いのだ。世話係としての意識が抜けず、無下にもできない。
「最近は、フィグ様も頑張っていらっしゃいましたものね」
『なぜ、神ではないと言ってから人間がこうも寄ってたかってくるんだ』
婚約発表の日に、神様じゃない、とついに口にしたフィグ様だが、なぜかそれが国民にうけ、今までよりも神様としてあがめられている。
『人間とは面倒なものだな』
「フィグ様は、神様をお辞めになりたいんですか?」
『そもそも神ではない』
「でも、出会ったころは、ワタシが神だって良くおっしゃってたじゃないですか。最近は、めっきり聞かなくなりましたけど」
『ヴィティの、ものだけでいいと思ったのだ』
「へ?」
『貴様以外に、いい顔をする必要もなかろう。面倒なだけだ。ヴィティさえいれば良い』
随分と素直になられたフィグ様の攻撃、ならぬ口撃はすさまじい。あのツンツンと氷以上に冷たいフィグ様は、一体どこへ消えてしまわれたのだろう。
『貴様、冷たくされるのが好きなのか』
「違います。ですが……急にこう、素直になられても恥ずかしいといいますか……その、反応に困るといいますか……」
『面倒くさいやつめ』
ふっと下から頬を撫でられ、私の顔に熱が集まる。デレデレフィグ様の威力たるや。恐るべしイケメンである。
私がフィグ様の手を無理やりひきはがして、彼の胸元へと戻せば、そのまま指を絡められる。
「フィグ様」
恥ずかしいのですが、と声を上げるより先に、ツ、と薬指の付け根をなぞられる。くすぐったくて、変な声が出てしまうかと思った。
私の薬指に輝く婚約指輪。フィグ様から突然贈られたそのプレゼントは、あたたかくなってきた今もしかと形を保っている。永遠に溶けることのない特別な氷。その透明な輝きは、どんな宝石にも劣らない。
光が当たるとチカチカと輝きを放ち、内側に真白な花が咲いているように見える。
『気に入ったか』
「えぇ。とても。フィグ様に、こんな素晴らしい才能があるだなんて知りませんでした」
お礼は何度も言ったし、この指輪の素晴らしさだって何度も伝えたけれど、やはり、何度口にしても足りないような気がする。
『それくらい、いくらでもくれてやる』
「一つしかないから、特別なんですよ」
『特別だと、思っているのか?』
「あたり前です」
『ふん。ヴィティも、素直になったな』
クツクツとからかわれるような口調に、無意識のうち、絡められた指に力が入った。
「わ、私だって……フィグ様のこと、嫌いじゃないですから」
『貴様』
半ば脅しにも近い冷ややかな視線を投げかけられ、私が「う」と言葉を詰まらせると、フィグ様は少しだけ寂しそうな顔をした。
どこで覚えてきたんだ。ずるいぞ、フィグ様。竜のくせに、子犬みたいな顔をするんじゃない。自分の顔がちょっといいからって、それを使うなんてあざとすぎる。
直視してしまわないように視線をそらすと、フィグ様が
『ワタシは、愛しているぞ』
と当たり前のように言う。
「なっ⁉」
思わず顔を向ければ、相手の術中にはまったらしい。ドヤ顔でニタニタと見つめられ、ワタシが言ったのだから、貴様も当然言えるだろう、とそんな風に表情で語られる。
「フィグ様、なんだか最近やけに面倒……いえ、ご冗談がお上手になられたようですけれど、一体どうなさったんですか」
『ふん。人間の真似事をしているだけだ。人間を理解しろ、と愛おしいヴィティが言うのでな』
人間の中に、兄の影が見える気がする……。この面倒くささ、お兄ちゃんを思い出す。
「キャラが違いすぎます。急なキャラ変はみんなびっくりしてしまいますよ」
『素直な方が、喜ぶと言っていた』
「誰がです」
『皆だ』
「みんなって……」
そんな子供みたいなことを、と思うものの、フィグ様の言うことは確かにその通りで強くは出れない。何より、あんなに人間というものに対して傲慢に振舞っていたフィグ様が、自ら人間というものを学び、ある種の理解を示しているのだ。それを、世話係である私が台無しにするわけにはいかない。
「……フィグ様、ずるくなりましたね」
『人間に似た、と言え』
似なくて良いところまで似てしまっては、元も子もないような気がするのだが。
『ほら』
早く、と私を急かすように、にぎにぎと繋いだ手をもむフィグ様は、もう竜でも神でもない。ただの、フィグ様だ。
「……一回だけですよ」
『何度でも言えばいいだろう』
「たまに言うから、特別なんですよ」
婚約指輪みたいなものだ、と心の中で付け加えると、納得したのかフィグ様はふん、と鼻を鳴らす。
本当なら、何度でも言うべきなのだろうけれど。あいにくと私は、そういうことに向いてない。
「……フィグ様」
私が彼の名を呼べば、フィグ様がごろりと膝の上で寝転がって、私を見上げる。美しいブルーの瞳が、キラキラと輝いている。
「愛してますよ、これからも、ずっと」
ささやくような小さな声でこぼした想いは、フィグ様の耳にどう届いたのだろう。
そんなことを考えた瞬間、フィグ様の美しい笑みが目に飛び込んできて――かと思えば、俊敏に起き上がったフィグ様に唇をふさがれて。
春の日差しが、薬指に光る指輪のように、フィグ様を柔らかにまたたかせていた。
婚約発表後、久しぶりの休暇をいただいた二人ですが……どうやら、甘々な日常を送ることが出来ているようです。
このまま穏やかに……とはいかず、最後の大仕事? がやってきます。
次回「ヴィティ、引っ越す」
何卒よろしくお願いいたします♪♪




