第七話 蒼き守護の花
「うわあぁぁぁ――ッ!」
心を締め付ける絶叫と共に、クリストファーは兄に斬り掛かった――が、目にも留まらぬ早業で抜刀したウィラードは、躊躇いのある弟の攻撃を容易に防ぐ。
鈍い剣筋を何度も弾き返しながら、ウィラードは凪いだ声音でクリストファーに尋ねる。
「クリス、私よりもイレーネ嬢の命を取るのか?」
「申し訳ありません、兄上! 自分も辛い目に遭っているはずなのに、ここに連れてこられた彼女は、常に僕を気遣ってくれました。心の支えだったイレーネを失いたくない。でも、兄上の命も奪いたくありません。僕は、一体どうしたら――……」
「そうか、お前も心から大切に想える女性と出会ったのだな。大丈夫だ。お前も彼女も必ず助かる」
今にも泣き出しそうな弟を安心させるように、ウィラードは力強い眼差しで微笑む。
そんな彼は、視界の端で窓の外に待機する人影を捉えており――小さく頷いて合図を送ると、謎の人影は窓を打ち破り、イレーネを捕えているグレアム目掛けて稲妻の如く駆ける。
闖入者は黄色の軍服を纏い、軍帽まで目深にかぶっていた。
帽子のつばが顔に影を落とし、人相を確認することは不可能だったが、体格から屈強な男だと分かる。
「何者だ!? 止まれ! 止まらねばこの娘を殺すぞ!」
脇目も振らず一直線に走ってくる男に、初めてグレアムが動揺を露わにした。
しかし、いくら脅し文句を叫べども、軍服の男は立ち止まる素振りを見せない。
苛立ちを隠さず大きく舌打ちをしたグレアムが、イレーネの首筋に当てていたナイフに力を込めようとした刹那。
青い輝きを放つ花弁を孕んだ一陣の風が、恐怖に固まるイレーネの身体を優しく包み込んだ。
仰天したグレアムが勢いよくナイフを引くも、イレーネの首筋には傷一つ付かない。
それどころか、キンッと澄んだ音が響き渡り、グレアムの手からナイフが弾き飛ばされた。
「イレーネ、もう大丈夫よ!」
軍服の男がグレアムを取り押さえると、それまで意図して気配を消していたエリスが、ドレスの裾をたくし上げて妹弟子のもとへ駆け寄る。
緊張の糸がぷつりと切れたイレーネは、力一杯抱き締めてくれるエリスに縋り付くと、堪える間もなく声を上げて泣き出した。
幼子をあやすようにイレーネの頭を撫でてやりながら、エリスは鋭い眼差しで拘束されたグレアムを睨む。
「私を落ちこぼれと侮った。それが、貴方の敗因ですよ」
「先ほどの風は、お前の福音の仕業か……っ!」
「蒼き守護の花【ブローディア】の力です。ウィラード様に呪いが効かなかったのも、事前にブローディアの福音を使用しましたから。これ以上、誰にも危害は加えさせません。私が全員まとめて守ってみせます」
毅然たる態度でエリスが断言すると、唐突にグレアムが狂ったように笑い出す。
軍服の男が羽交い絞めにした腕を捻り上げても、嘲弄を含んだ笑い声は止まらない。
「私が連絡を絶てば、ベーレント一家と第一王妃は死ぬぞ? それでもお前は、すべてを守ると言い切れるのか? 無理だろう? 無理に決まっている! だから取引をしよう。今すぐ私を解放すれば、一家と王妃の命を助けてやろうではないか」
身動き一つ取れない状況に陥っても、未だにグレアムは他人の命を弄ぶ行為を止めない。
家族を失う恐怖に襲われ、泣きじゃくっていたイレーネが「ひっ!」と息を呑む。
母親を人質に取られているクリストファーも、剣を床に落して蒼白の顔色になった。
怯える二人の反応を見て、グレアムは満足げに下卑た笑みを浮かべた――が、
「貴様、もう少しマシな命乞いは出来んのか? 交渉材料にもならん条件を提示するとは、呆れ果てて笑えもしない」
ベルトから下げていたロープを使い、特殊な結び方で厳重にグレアムを縛り上げながら、軍服の男が冷ややかに言い放つ。
慣れた手付きで作業を終えた男は嘆息すると、目深にかぶっていた軍帽を脱いだ。
突如現れた黄色い軍服の男の正体。
それは、蒼華騎士団の団長であるジュダだった。
「グレアム・エイボリー。貴様がベーレント一家を見張らせていた兇賊は、一人残らず蒼華騎士団が捕縛済みだ。黄の宮殿のメイドに扮していた逆賊も、俺が秘密裏に潜入して身柄を確保した。……次は貴様が、牢の中へぶち込まれる番だ」
心臓をじわじわと握り潰すように。
普段より何倍も低い声で、あえてゆっくりとジュダは語り聞かせる。
手駒が全滅したと知らされたグレアムは、片頬を引き攣らせた不格好な笑みで硬直し……逃げ道を悉く潰された絶望から、やがて力無くがくりと項垂れた。
(ジュダさんが間に合ってくれて良かった)
見慣れぬ黄色い軍服姿のジュダを眺めつつ、エリスは深く長い息を吐く。
イレーネの実家は、聖花術師の見習い試験記録からマリオンが特定した。
ジュダが蒼華騎士団の精鋭部隊を引き連れ、情報通りの場所へ急行すると、イレーネの家族は数人の監視を付けられ、普段通りの生活を強いられていたらしい。
『一家全員が突如姿を消せば、当然ながら事件性を疑われる。イレーネ・ベーレントの人質が家族なら、逆もまた然り。かどわかした娘の命を脅しの材料にして、一家が外部の人間に助けを求められぬ状況を作り出し、それまでと変わらぬ生活を送らせていたのだ』
荒事とは無縁のエリスに、ジュダは分かりやすく噛み砕いて説明してくれた。
イレーネは家族を救おうと必死だったが、残された家族も彼女の身の安全を第一に考え、地獄のような日々を過ごしていたとは――家族愛を犯行に利用するなど鬼畜の所業である。
双方の心情を想像するだけで、エリスの胸はとてつもない悲壮感で張り裂けそうになった。
監視役とグレアムの使いが頻繁に情報共有を行っていたため、ベーレント一家の救出は花比べの前夜に決行された。
無事に保護したベーレント一家の護衛と、捕らえた監視役の連行を部下に任せ、昼前に王城へ帰還したジュダは休む間もなく新たな任務へ就いた。
彼は事前に、シルヴィアを監視する不届き者を割り出していた。二月前に黄の宮殿で働き始めたメイドがおり、彼女をシルヴィアに紹介したのがグレアムだったのだ。
正式に蒼華騎士団の諜報部隊が調査すると、メイドはグレアムの命令次第で、第一王妃の命を刈り取る暗殺者だと判明した。
流石に、この事態は国王へ報告しなければ不味い。
政務の相談を装い、秘密裏にウィラードが国王へ現状を報せると、
『この件はお前に一任する。王家に牙を剥く知れ者を、完膚なきまでに叩き潰せ』
――と厳命を下され、黄華騎士団の軍服一式を渡されたそうだ。
ジュダが現在黄色の軍服を纏っているのも、グレアムが花比べに参加している隙を突き、黄の宮殿へ潜入して件のメイドを召取るためであった。
(暗殺者を余裕で相手にするマリオンさんも凄かったけど、貫徹でここまで立ち回れるジュダさんも凄いよね)
メイドを捕縛し終えたジュダは、その足でクリストファーとイレーネを保護する予定だったが……逃走したグレアムがジュダよりも早く、紅の宮殿へ逃げ帰ってしまい、そのせいで段取りが大幅に狂ってしまった。
しかし、全員が力の限りを尽すことで計画を成功へと導いたのだ。
(どんな形であれ、グレアム様には犯した罪を贖ってもらわないと。デタラメな噂を吹き込んで師匠を魔女に堕としたり、イレーネとクリストファー殿下を操り人形のように扱ったんだから)
ウィラードが半獣化したのも、もとを正せばグレアムが彼の呪殺を企んだせいである。
エリスも魔女として捕らえられ、危うく火刑に処されるところだった。
細かな罪まで数えれば両手では足りず、法の重き鉄槌を受けるのは確実だろう。
これも自らまいた種。
自業自得の結末だ。
(……あ、れ……?)
抱き付いて離れようとしないイレーネの背を、物思いに耽りながら優しく撫でていると、不意にエリスの視界がぐにゃりと歪む。
急速に血の気が引く感覚は貧血の症状と同じだが、根本の原因はまったく違う。
(調合室で、結構無茶しちゃったからなぁ。完全に神力不足だ)
ギーゼラの呪いを受けた時、ごっそりと神力が削がれたのを忘れていた。
彼女の魔女化を解く際も、神力を消費して幻想花を大量に咲かせてしまったし、今まで倒れなかった方がおかしかったのだ。
(もう、誰も傷付く心配はないから……少しくらい休んでも……大丈夫だよ、ね……)
自分の名を呼ぶ声がいくつも聞こえたが、既に目の前は真っ黒に染まっている。
身体から完全に力が抜けると、エリスは深い眠りの世界へ落ちて行った。




