第六話 残酷な選択
紅の宮殿の周囲は、紅華騎士団が総出で警固していた。
恐らく、母親を人質に取られているクリストファーが、グレアムに逆らえず指示を出したのだろう。
正面突破を試みて捕らえられたら最後。その場で殺されることはないだろうが、紅華騎士団に拘束された後、グレアムが何も行動も起こさないわけがない。
事故か事件でもでっち上げ、ウィラードとエリスの命を奪うに決まっている。
故に二人は、紅の宮殿の内部へ続く地下の隠し通路を走っていた。
「ウィラード様、ここは一体……?」
「非常用の逃走経路の一つだよ。子供の頃、クリスに教えてもらったんだ。『兄上の時間がある時に会いにきて欲しい』とお願いされてね。最近は使っていなかったが、潰されていなくて本当に助かった」
通路は人がすれ違えないほど狭いが、壁だけでなく天井や床まで煉瓦で固められており、崩落の危険はなさそうだ。
昨夜、通路の入り口にカンテラを用意しておいたので、今はその灯りを頼りに先を急いでいる。
(私が知らないだけで、蒼の宮殿にも秘密の通路が沢山あるんだろうなぁ)
エリスが胸中で独り言ちている間に、終着点へ辿り着いたらしい。
少し錆びた鉄の梯子をウィラードが先に上り、天井の扉を押し開ける。
周囲に人気がないことを確認すると、ウィラードは小声で「おいで」とエリスを呼んだ。
梯子を上り切った先は、生活感が一切感じられない石造りの小部屋だった。
「ここは、クリスの私室にある隠し部屋だ。絵画の裏に扉があるんだよ」
火が付いたままのカンテラを床に置き、ウィラードは内鍵付きの鉄扉へ近付く。
エリスも足音を立てないように注意して付いて行くと、耳を澄ましているわけでもないのに、私室内の会話が漏れ聞こえてきた。
「エイボリー猊下、先輩と師匠を殺したって本当なんですか!?」
怒りと悲しみが混ざり合った悲痛な叫びは、間違いなくイレーネのものだ。
彼女の問いに答えるのは、場の空気にそぐわない落ち着き払ったグレアムの声だった。
「あぁ、そうだとも。私の従順な部下が処理をしたのだ。今頃は骨すら遺さず、師弟揃って冥府を彷徨っているだろう」
「そんな……っ!」
「多少予定は狂ったが、第一王子とマリオン・プロイツもこの世を去った。私の計画を阻む者が完全に消えた今、全てを知るお前の存在が唯一の脅威なのだよ。安心するが良い。独りで歩む黄泉路は心細いだろう? すぐに、お前の家族も同じ場所へ送ってやる」
「待て、グレアム! 何もイレーネまで殺さずとも良いだろう」
今にも凶行に及びそうなグレアムを止めたのは、切羽詰まった様子のクリストファーだ。
慇懃無礼な敬語が取れた彼は、必死にグレアムの説得を試みる。
「新たな人材を外部から引き入れるのは、あまりにも危険性が高い。この子は生かしておくべきだ。聖花術師の協力者は、これから先も何かと役立つだろう。家族を人質にしているのであれば逃げ出す心配はないはずだ」
「クリス、お前が私に意見するとは珍しいではないか。腹違いの第一王子と似て、泥臭い田舎娘に懸想でもしたのか? まったく、実に趣味の悪い兄弟だ。この娘は多くを知り過ぎた。こやつの家族の監視に割く人員もタダではない。無駄は省かねばならんのだよ」
「無駄……だと……? ふざけるのも大概にしろ! この世に無駄な命は一つも存在しない。兄上やこの子の師匠と姉弟子だって、価値のある人生を歩んでいた!」
ついに我慢の限界に達したクリストファーが、血を吐くように怒鳴る。
正義感に溢れたその行為が、グレアムの逆鱗に触れるとも知らずに――……。
「ふざけているのはどちらだ? 私に歯向かえば、お前の母親がどうなるか理解しているだろう。大事な人質だ。お前が王位を継承し、私に国の全権を委ねるまでは生かしておくが……お前が私に逆らうのであれば、死なない程度に痛めつけるとするか」
「や、止めろ! 母上には手を出すな!」
「では、お前がこの娘を始末してみせろ。拒否すれば、黄の宮殿に潜り込ませた私の部下に命じ、お前の母親の食事に毒物を混入させる。――さぁ、クリス。お前は実母と田舎娘、どちらの命を選ぶ?」
最低な二択を迫るグレアムに、目の前が怒りで赤く染まる。
今すぐイレーネとクリストファーを助けなければ――と、沸々と込み上げる激情に任せて、エリスが鉄扉を開けようとした時だ。
ヒュッと空を切る音が聞こえたかと思えば、ウィラードの長い足が硬い鉄扉を蹴破った。
その衝撃で、扉を隠していた巨大な絵画が吹っ飛ぶ。
「クリス、そんな馬鹿げた選択はしなくていい」
「兄上!? 生きておられたのですね……!」
「逆賊に虐げられる弟を残して死ねるわけがないだろう。随分と長い期間、辛い想いをさせてしまったな。暗愚な兄を許しておくれ」
隠し扉から私室内へ歩み出たウィラードに、クリストファーが驚嘆の声を上げる。
続いて現れたエリスの姿を見つけたイレーネ。
感極まって泣き出した彼女は、「先輩!」と叫んでエリスの元へ駆け寄ろうとした――……が。
「おっと。何処へ行くつもりだ?」
「きゃっ!?」
グレアムがイレーネのおさげ髪を片側だけ掴み、力任せに彼女の身体を引き寄せた。
左腕で小柄なイレーネの身動きを封じると、痛めた右手を無理やり動かし、グレアムは法衣の懐からナイフを取り出す。
鞘が乱暴に振り飛ばされ、少女の細い首筋に研ぎ澄まされた白刃が突き付けられる。
「クリス。この娘の命が惜しくば、死にぞこないの第一王子を殺せ」
「な……っ!?」
淡々とした口調で残酷な命令を下すグレアムを、クリスは絶望の眼差しで見返す。
「早く剣を抜け。呪いも効かず、暗殺者も退ける。これほど私の手を煩わせるとは、腸が煮えくり返りそうだ。怒りで手元が狂わぬ内に、お前が敬愛する兄をその手で始末しろ」
首筋に刃先が食い込み、イレーネは恐怖でカタカタと小さく震えている。
血が滲むほど唇をきつく噛みしめたクリストファーは、やがて静かに腰の剣帯から剣を引き抜いた。
剣先を兄に向けるクリストファーの真紅の瞳は、薄っすらと涙の膜が張り不安定に揺らいでいる。




