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第三話 甘い誘惑に酔う獣

 翌日は晴天に恵まれ、絶好の散策日和になった。

 午前中に政治関係の会談を済ませ、昼食後にまずは湿地帯へと向かう。


 木製の遊歩道から望む景色は、雨が降った後のような潤った大地。小規模な浅い池のような場所がいくつもあり、水分をたっぷりと吸った土の上へ転落でもすれば、抜け出すのに相当な苦労を強いられるだろう。

 案内役のマクニース侯爵も、遊歩道から足を踏み外さないようにと、事前に注意をしてくれていた。


 侯爵と談笑しながら歩くウィラード。

 彼の背後にジュダと共に控えているエリスは、国内では珍しい湿地帯の植物に、目を一等星の如くキラキラと輝かせていた。


(すごい、一年中水で覆われた大地に色んな種類の植物が生えてる! アヤメにカキツバタ、水面に浮かぶハスも綺麗! あっちの茶色い棒みたいなのはガマだっけ? ソーセージみたいって言ったら、師匠が珍しく涙を零すくらい大笑いしてたなぁ)


 そう言えば――と。

 カキツバタを眺めていたエリスは、とある少女の事を思い出す。


(師匠の用事が終わるのを待ってた時、聖花術師(せいかじゅつし)を目指してる女の子と会ったんだよね)


 希望していた工房への弟子入りを断られた直後だったらしく、名前も知らない少女は道端にうずくまって泣いていた。

 どうしても放っておくことが出来ず、即席でカキツバタの福音を作り、エリスなりに精一杯励まして……最終的に少女は「ありがとう」と笑ってくれた。


 自分が勝手にしたことだし、依頼料だってもらっていない。

 けれど、あれが聖花術師としての初仕事だったとエリスは断言出来る。


(あの子の願い、叶ってると良いなぁ……)


 懐かしい思い出に浸っていると、不意に右袖を指先で軽く引っ張られた。弾かれたように顔を上げると、呆れ顔のジュダと目が合う。

 彼から小声で「真面目に仕事しろ」と注意を受け、エリスは同じく声量を落として「すみません」と頭を下げた。


(そうだよね、今の私は聖花術師じゃなくて新米書記官だもん。蒼華騎士団の名に傷を付けないよう、立派に職務を全うしなくちゃ!)


 気持ちを切り替えたエリスは、ズボンのポケットから懐中時計を取り出す。

 解呪効果が切れる一時間を計るために持たされた、見るからに高価そうな純銀製の代物だ。


(さっき口付けしてから、もう三十分経ってる。遊歩道の終点はもう少しみたいだから、そこで休憩を挟んでもらおう)


 人間の状態を保つために、本日もエリスは頻繁にウィラードへ口付けをしていた。

 これまでは手の甲であっても、羞恥心が疼いてどうしようもなかったが、今となってはもはや流れ作業と化している。


 慣れとは実に恐ろしいものだ。


(残り三十分もあれば湿地帯を抜けられるよね。そうしたら、人の目に付かない場所で口付けを済ませて、竹林へ出発って感じかな)


 頭の中で淡々と予定を立てるエリス。






 ――しかし、彼女の計画は大幅に狂い始めた。






「殿下、そろそろお薬の時間です」


 遊歩道の終点に到着すると、エリスがそっとウィラードに告げる。


 マクニース侯爵は噂通り、女神フロス・ブルーメを心から信仰する聖人だった。

 東国の植物についての知識など、聖花術師でも舌を巻くレベルで、ウィラードが少しでも興味を示すと、侯爵は分かりやすく説明をした。それはもう、丁寧に情熱と時間を掛けて。


(最後の方でジュダさんがやんわり急かしてくれたけど、あと三分もしないうちに解呪効果が切れちゃう! 急いで口付けしないと、大変なことになっちゃうわ!)


 病に臥せっていた設定のウィラードは、薬を飲まねばならないと言い訳をして、口付けをするタイミングを確保していた。

 薬の時間と耳にした侯爵は、「どうぞごゆっくり」とにこやかに送り出してくれる。


 侯爵が他者を慮る穏やかな気性の人物で助かった。

 何度も練習した騎士らしい一礼をしたエリスは、すぐ近くにある休憩所の方へウィラードを先導する。侯爵達の死角に入ると、エリスは「急いで下さい」とウィラードを急かして、休憩所の奥にある雑木林を目指して走った。


 この辺りは観光名所のため、休憩所の他にも飲食店や土産店が立ち並んでいる。

 第一王子が視察をしている最中は、一般客の入場は制限されており、エリスとウィラードは誰の目にも留まることなく、雑多に木々が生い茂る林の中へ飛び込んだ。


 次の瞬間、ウィラードの頭部から獣耳がにょきっと生える。

 ジャケットの長い裾からも、尻尾の先端がチラチラと覗いていた。


(林の中には……良かった、誰もいないみたい)


 素早く周囲へ視線を巡らせたエリスは、人っ子ひとりいないことに胸を撫で下す。

 迷わず林の中へ飛び込んだのは正解だった。少しでも身を隠す場所に迷いが生じていたら、ウィラードは人前で呪われた姿に戻っていただろう。


 早く役目をこなして侯爵達と合流しなければ――と、エリスが思考を働かせていた時だ。


「ぐ……っ!」

「ウィラード様!?」


 突然ウィラードが小さく呻き、胸の辺りを押さえてよろめいた。

 咄嗟に支えた彼の身体は驚くほど熱く火照っており、エリスは翡翠の瞳が零れ落ちんばかりに目を瞠る。振り仰いだ先にあるウィラードの顔は赤く上気し、呼吸は浅く早いものへと変わっていた。


「……甘い、香りがする……。幻想花(げんそうか)とは違う、強い香りだ……」


 どろりと溶けたように潤む瞳で、一心にエリスを見つめながら――……。

 ウィラードは熱い吐息交じりの声で、苦しげに声を絞り出す。


 即座にエリスが鼻の頭をひくつかせると、確かに甘い香りがした。

 人間のエリスでも嗅ぎ取れるのだ。解呪の効果が切れて獣の嗅覚に戻ってしまったウィラードは、何倍も強くこの香りを知覚しているだろう。


(この香りは、マズいわ……)


 辺りに漂う甘い香気は、香木として有名な白檀だろう。

 香炉で焚いて使用すると、荒立っていた心が鎮まったり、集中力を高める効果を発揮する。他にも、肌や免疫力に良い効能をもたらすのだが――、


 ウィラードに現れているのは、間違いなく催淫作用だ。


「ウィラード様、もう少しだけ我慢して下さい。口付けをしたら人間の嗅覚に戻るので、そうしたら身体も楽になるはずです」

「……口、付け……?」

「はい、そうです。口付けです。手袋は私が外しますので手を貸して下さい」

「……嫌、だ……。喉が渇いて、死んでしまいそうだ。もう、待てない……ッ!」

「きゃ……!?」


 獲物を狩る猛獣の如く、ウィラードの瞳孔が縦長に細くなる。

 彼は自分を支えているエリスの両肩を掴むと、近くの木の幹へ身体を押し付けた。条件反射でウィラードを突き飛ばそうとしたが、押し返した胸板はビクともしない。


 そうこうしている内に顎をすくい上げられたエリスは、噛み付くようなキスをされた。


「ん、う……ッ!?」


 ファーストキスもセカンドキスも、唇同士の軽い触れ合いだったのに――こんなに深い口付けは初めてだ。

 淫靡な水音を立て口内を蹂躙され、陸にいるはずなのに、溺れているような錯覚に陥る。呼吸が苦しい。頭がクラクラして全身から力が抜けて行く。


 エリスの身体が完全に弛緩すると、今の口付けで人間に戻ったウィラードが、ようやく正気を取り戻した。

 彼は勢い良くエリスから離れると、赤面した顔を隠すように深く頭を下げる。


「す、すまない! 私は何てことをしてしまったんだ……っ!」


 謝罪の言葉をぼんやりと聞きながら、エリスはずるずるとその場にへたり込む。


 無意識に咲かせてしまった幻想花が、大量に周囲を浮遊している。顔が燃えるように熱くて、バクバクと脈打つ心臓が壊れそうだ。

 瞬きをしたら生理的な涙が頬を伝い落ち、おずおずと顔を上げたウィラードが、運悪くそれを目撃して更に取り乱す。


「肉体のみならず、心まで獣に成り下がるとは……自分で自分が許せない! どうしたらこの罪を償えるだろうか?」


 地面に膝を付いたウィラードは、エリスと目線を合わせた。

 理性を失い蕩けていた双眸が、今では辛そうにきつく眇められている。


 指先で涙を拭ったエリスは、ウィラードの哀切な問い掛けに頭を振った。


「ウィラード様は何も悪くありません。先ほどの現象は白檀という香木の影響なので、聖花術師であるにも関わらず、逸早く異変に気付かなかった私の責任です」

「し、しかし……!」

「それより、早くマクニース侯爵様の元へ戻りましょう。私なら大丈夫です。何も気にしてませんから」


 本当は何も大丈夫ではないし、ウィラードを異性として意識しまくっているが、無理やり笑顔を作ってしれっと嘘を吐く。


 今ここで悠長に話し合っている暇はない。

 一時間毎に飲む薬は、「免疫力を高める特別な生薬」と言い訳をしていた。マクニース侯爵も「此度の視察で病がぶり返しては一大事ですからな」と、快く服薬の時間を取ってくれているが、あまり時間を掛けては不信に思われてしまう。


(第一王子の重病説でも流れたら、どんな恐ろしい仕打ちをされるやら……)


 脳裏に思い浮かぶのは、腹黒い笑顔でロッドをぶん回すオネェ枢機卿だ。


 何度も深呼吸をして気持ちを落ち着かせ、エリスは周囲に浮かぶ幻想花を消す。

 未だに心臓はトコトコ駆け足を続けているが、これでもだいぶ大人しくなった方だ。火照っていた顔も熱が引いたので、人前に出ても大丈夫な顔色に戻っているだろう。


 気合いを入れて立ち上がり、服に付いた汚れを手早く叩き落す。そしてエリスは、「お待たせしました、行きましょう」とウィラードを促したのだが――彼は酷く傷付いたような面持ちで、未だ地面にしゃがみ込んでいた。


 小首を傾げたエリスが「ウィラード様?」と呼べば、彼はハッと息を呑んで立ち上がる。


「そうだね、早く行こうか。次は竹林でタケノコを見せてもらう予定なんだ。エリスも余裕があれば、こっそり景色を楽しむと良いよ」

「は、はい……」


 先ほどの表情は見間違いだったのだろうか?

 切なげに眉根を寄せて、今にも泣き出しそうなのを堪えるよう、口をきつく引き結んでいたのに……エリスの呼びかけに応じたウィラードは、いつも通りの朗らかな笑みを湛え、穏やかな口調で何気ない話題を振ってくる。


 途端、モヤッとした気持ちが胸中を満たす。


 この感情が何なのか正体を探ろうとしたが、腐葉土の地面を踏み締めて、ウィラードが先に立って歩き出した。

 慌てて彼の後を追い掛けるエリスは、今度こそはっきりとした違和感を抱く。


(どうして、手を繋いでくれないの?)


 こっそり隠れて口付けをした後、人目に付かない間は毎回手を引いてくれたのに。

 空っぽの右手を見下ろすと、いかんともし難い寂しさが込み上げてくる。


(事故みたいなものだけど、あんな大人の口付けをした直後だし……仕方ないよね)


 時間が経てば解決する問題だろうと、この時のエリスは楽観視していた。

 しかし、視察を無事に終えて王城へ戻ってからも、ウィラードとの間に空いた微妙な距離は一向に埋まらず――……、


 関係改善を図る前に、第二王子クリストファーの誕生祭を迎えたのだった。

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