第二話 開かれた心
第一王子一行が東の聖域マクニースに到着したのは、王都を発った日の夕暮れ時だった。
マクニース領の現当主は、リヒター・ヴィルケ・マクニース侯爵という。
敬虔な教徒であると同時に、女神の御業を扱う聖花術師にも深い敬意を表する、徳の高い人物として有名だ。
フィオーレ教団の熱心な信者であれば、教会と縁が深い第二王子の派閥に属している者がほとんどだ。
しかし、マクニース侯爵は第一王子を次期国王に後押しする、蒼の派閥に身を置いていた。
聖域の番人を蔑ろにして、国教神を冒涜していると見なされでもしたら、第一王子陣営と教会の関係悪化は必至だろう。
故に、呪いが解けていないにもかかわらず、ウィラードは此度の視察を強行したのだった。
移動時間を含めて視察の日程は丸二日。
本来は四日間の予定だったが、呪われた当初ウィラードは病に臥せっている設定を活用していたので、病み上がりを理由に日程をギリギリまで短縮したのだ。
✿ ✿ ✿
(つ、疲れた……)
マクニース侯爵邸に到着すると、ウィラードは宿泊用の離宮に案内された。
聖域で育つ植物にあやかっているのだろう。領内の街並みや侯爵邸の意匠は、極東の建築技術がさり気なく取り入れられている。
本邸で開かれた晩餐会でも、東の国の料理が振舞われた。
エリスが馬車の中で話したタケノコ料理について、ウィラードが「今が旬だと聞きました」と話題に出すと、侯爵は「良く御存知ですな!」と嬉しそうに声を弾ませ――終始和やかなムードで食事を終えた。
晩餐会の最中、解呪の効果が切れずに済んで良かった――と、大きなベッドに潜り込みながら、エリスは張り詰めていた緊張の糸を緩める。
場所は当然、離宮にあるウィラード用の客室だ。
彼と共寝をするのは視察中であろうと変わらない。
(ジュダさんが見張りの気を引いてくれて助かったわ)
ウィラードの部屋に新米書記官が入って、朝まで出てこなかった――なんて、騎士団内で話題になったら悲惨だ。
第一王子に男色の趣味があると誤解をされては堪らないので、誰にも目撃されず客室に入った後は、扉に背を預けてその場にへたり込んでしまった。
(視察を軽く考えてたわけじゃないけど、こんなに大変だなんて想定外だよ。今日だけで何年分寿命が縮んだことやら……)
新米書記官に変装中のエリスは、晩餐会の場にも忍び込んでいた。
巨大な円卓を覆うテーブルクロスの中に潜み、念には念を入れて、十五分置きにウィラードの手の甲へ口付けをしていたのだ。
その間、羞恥を感じる余裕などあるわけもなく、ただひたすらに無心だった。
『マクニース侯爵は、あたしの出世に必要な人材なのよ。ウィル繋がりでこれから親しくなる予定だから、下手なボロを出さないように安全策を取りなさいよね?』
エリスにそう告げてきた強欲オネェ枢機卿は、影のある笑みを浮かべていた。
鈍器――もとい、ロッドを手のひらでバシバシ弄んでいたので、ウィラードが呪われているとバレでもしたら、頭をかち割られるかもしれない。
ちなみに、今回の視察はマリオンだけが不参加だ。
婚約者の立場でエリスが視察に同行するのは、とてつもなく非常識な行動らしい。
そのため、エリスは男装をして別人を装う必要があり、マリオンは彼女の不在を誤魔化すべく蒼の宮殿に残ったのだった。
「大丈夫……とは、聞かない方が良さそうだね」
ベッドのスプリングが軽く軋み、先に横になっていたウィラードが、エリスの方へ身体の向きを変える。
既に解呪の効果が切れているため、光源の無い室内では、瑠璃色の瞳が淡く光を発していた。頭の上に生えた犬耳もへにょりと垂れている。
「いくら掃除が行き届いていたとしても、テーブルの下なんかに隠れさせてごめん。けれど、エリスのお陰でつつがなく晩餐会を乗り切れたよ」
「いえ、ウィラード様のお役に立てたようで何よりです」
「役に立つなんて次元の話ではないよ。エリスが快く側にいてくれるから、呪われた私でも自らの責務を果たすことが出来る。いくら感謝をしても足りないくらいだ」
本当にありがとう――……と。
柔和な笑みと共に僅かな掠れ声でお礼を言われ、心臓がバクンと大きく跳ねた。
(今のって、ウィラード様の声……だよね?)
いつも眠る前に他愛もない会話をしているが、今し方、彼の口から発せられたような声を聞くのは初めてだ。
エリスの体調を気遣う彼も、普段と異なる環境で疲れているのだろう。
疲労感を隠し切れていない声音は、意図せず濃密な大人の色気を孕み、初心なエリスの羞恥心を一気に臨界点まで到達させた。
「ん……幻想花が咲いたみたいだね。相変わらず、自然と肩の力が抜ける心地良い香りだ。でも、いつもより花の量が多くないかな?」
元の声音に戻ったウィラードが大きく深呼吸する。
普通に呼吸をしているエリスでも、室内が一瞬にして、花の甘い香り包まれたのが分かった。
夜目が利く獣の目には、宵闇の中を浮遊する花の形が鮮明に映し出されているのだろう。
不思議そうに辺りを見回すウィラードに、平静を装ったエリスが「気にしないで下さい」と短く告げる。
幻想花を咲かせた理由を問われたら一巻の終わりだ。「貴方の声が色っぽいせいですよ!」とは、口が裂けても言えない。
なので、エリスは速やかに話題の転換を図る。
「明日はマクニース侯爵様に、湿原と竹林を案内してもらうんですよね? 竹林も素晴らしいのですが、湿原も神聖な雰囲気があって素敵なんですよ。『苔を扱うならマクニース産以外あり得ない』と言われるほどですから」
「驚いたな。苔も福音に使うのかい?」
「作品のイメージと合うのなら、飾りの植物は何でも使用しますよ。特に、東国の花をメインにする時は、瓶の底に程よく敷いてあげると、静かな美が引き出される気がします。向こうの言葉では〝侘び寂び〟と言うみたいですよ」
「侘び寂び……か。異国の言語は実に興味深いね。いずれ身辺が落ち着いた時にでも、じっくり勉強をしてみよう。それに、東国の話題はマクニース侯爵が喜ばれる。これで明日の散策時の話題に困らなくなったよ」
ウィラードの腕が伸びてきたかと思えば、髪を梳くように頭を優しく撫でられた。
子ども扱いされているような気分になるが、決して嫌ではない。
猫のように目を細めてされるがままになっていると、今度は足に柔らかな物体が巻き付いてきた。
極上のモフモフ加減がクセになるウィラードの尻尾だ。
尻尾が足に巻き付くのは、これから抱き寄せるという無言の合図である。
未婚の男女が抱き合って眠るのは、無分別も甚だしい行為だ。しかし、暗殺者は未だ逃走中で、エリスの心に巣食う恐怖心は消えていない。
ウィラードも離れているより深く眠れるそうなので、お互いの良質な睡眠を守るべく、今も合意の上で抱き合って眠っているのだ。
「さて。もう少し話をしていたいけど、明日に備えて早めに休もう」
「あ、あの……ウィラード様、今夜は離れて眠りませんか?」
「……何故?」
ウィラード用の客室に到着した時、エリス用に食事と湯浴みのお湯が準備されていた。
聞けばジュダが運んでくれたらしい。
湯浴みが出来るのは助かったが、いつもと違って、すぐ近くにウィラードがいる状況だ。ササッと汗を流したエリスはすぐに着替えを済ませた。
今日はたくさん汗を掻いた自覚があるので、あんな烏の行水で完全に匂いが取れたとは思えない。五感まで獣に近くなっているウィラードに、汗臭いと思われるのは絶対に嫌だ。
「えっと、その……に、匂いが……ですね……」
目線を左右に泳がせながらも、乙女にとって非常に繊細な問題をぼそぼそと説明する。
そんなエリスの話を最後まで聞かず、ウィラードは彼女の腰を引き寄せ、小さな身体を胸元へすっぽりと抱き込む。
逞しい胸板に顔を押し付けられていなければ、絶叫の一つでも上げていただろう。
どうにかしてウィラードの腕の中から抜け出そうと、エリスがささやかな抵抗を試みようとした時だ。
彼女のつむじの辺りに鼻先を埋めて、ウィラードが深く息を吸った。
「ひいぃぃっ!」と、胸中で金切り声を上げるエリスに反して、半獣の王子は蕩けんばかりの微笑を湛える。
「太陽と、土と、花……いつもと変わらない、温かいエリスの匂いだ」
安心する――と、甘えるような声で告げられ、不意にウィラードの腕の力が緩む。
「どうしたんだろう?」と目を瞬かせ、そろりと顔を上げたエリスは、彼の顔を見てポカンと大きく口を開けた。
余程、疲れていたのだろう。いつもはエリスより先に眠らないウィラードが、安らかな寝息を立てていた。
初めて見る彼の寝顔を、物珍しそうにじっくりと観察するエリスは、やがて微かに愁いを帯びた表情になる。
(解呪の効果がいつ切れるか分からないのに、今日はずっと人間の姿で過ごしてたもんね。無理をしてたのは分かってたけど、会話の途中で寝落ちするなんて、私の想像以上に気を張ってたんだろうなぁ……)
心の中で「お疲れ様です」と労わりの言葉を掛け、めくれていた布団をウィラードの肩まで引き上げた。
一息吐いたエリスは、体臭は気にしなくて良さそうだと安堵して、自分も眠りに就くため瞼を閉ざす。
(私の匂いで安心してもらえるのって、少し照れるけど嬉しいかも)
それはきっと、ウィラードに心を開いてもらえている証拠だろうから――……。




