第二話 師匠と弟子
エリスが一階のリビングに降り立つと、丁度、庭に面したフレンチドアが開いた。
朝露に濡れるテラスから現れたのは、大人の魅力たっぷりの美しい女性だった。
「おはよう、エリス。そのドレスとても似合っているわよ」
年の頃は三十代前半。艶やかな赤銅色の髪を優雅に結い上げ、藍白のタフタ生地で作られたマーメイドドレスを纏っている。ドレスに合わせた厚手のストールや、首元を彩るチョーカーなど、センスのよい小物類が女性の艶麗さに更なる磨きをかけていた。
この麗しき女性こそ、工房リデルの主。
エリスとイレーネの師匠も務める、ベテラン聖花術師のギーゼラ・バッツドルフだ。
「おはようございます! こんなに素敵なドレスを私が着られたのも、師匠が事前に用意して下さったおかげです。本当にありがとうございました!」
「私が好きでしたことなんだから、そんなに畏まらないでちょうだい。愛弟子の晴れ舞台をお祝いするのは、師匠としてこの上ない喜びなんだもの。むしろ、プレゼントがドレスだけでは物足りないくらいよ。――だから、こちらへいらっしゃい」
敬愛する師匠から優雅に手招きされ、「何だろう?」と翡翠の瞳を瞬かせる。
それでもエリスは言われた通りに、ギーゼラの元へ小走りで向かった。
「これは、私から貴女に贈る祝花よ」
銀朱の双眸を細めて微笑んだギーゼラは、駆け寄ってきたエリスへ両手を差し出す。
繊細なレースの手袋に包まれた手がそっと掴んでいるのは、摘み取られたばかりと思われる六輪のスイートピーだった。
「花言葉は【門出】と【至福の喜び】。エリスの髪はボリュームがあるから、大輪の生花を髪飾りにしたら栄えると思って、庭の隅でこっそり育てていたの。どうかしら、聖花術師らしい小粋なお祝いでしょう?」
「うわぁ、すごく綺麗ですね! 花言葉に込められた師匠のお気持ちも嬉しいです! あっ、でも……このスイートピー、赤っぽいのが混ざってますよ。師匠のご厚意を無下にしたくはないのですが、これを髪飾りにしたらマナー違反になりませんか?」
最初はギーゼラの手に包まれたスイートピーを見て、無邪気にはしゃいでいたエリスだったが、花の色の微細な違いを発見して表情を曇らせる。
国儀では毎回、参加者の服装の色が指定される。今回は青系の正装をするよう招待状に記されていた。エリスが薄藍色、ギーゼラが藍白のドレスを纏っているのも、ドレスコードに従ってのことである。
不安そうに眉根を寄せている一番弟子に、ギーゼラは「大丈夫よ」と大らかに笑う。
「赤と言っても、花弁の縁がほんの少し薄紅色なだけでしょう? こっちの色味の強い青紫を隣に持ってくると、光の反射で綺麗な菫色に見えるのよ。青いリボンも結ぶから見咎める人なんていないわ」
リビングの片隅には、外出時の身だしなみチェックに使われている姿見が置かれている。その前まで連れて行かれると、じっとしているようにギーゼラから指示された。
エリスが大人しく従えば、結い上げた髪の根元にスイートピーの茎が手際よく差し込まれてゆく。
「ほら、これでどうかしら?」
作業を終えたギーゼラは、満足気に軽く息を吐いた。
ひだ状に広がるスイートピーの花びらは、色合いの違う二色を隣り合わせることで、確かに落ち着いた紫の濃淡を生み出している。右端の一輪にだけ付けられた青いリボンも、花にとまった蝶のようで愛らしい。
「さすがです、師匠! 普通の菫色よりも綺麗な発色で驚きました」
初めて知った花の魅せ方に、エリスは頬を紅潮させて興奮する。同時に、「これなら師匠が言う通り、薄紅色の花だってバレないだろう」と胸を撫で下ろした。
弟子の顔に笑顔が戻ると、ギーゼラも口元を綻ばせる。
「十歳で私に弟子入りをした貴女は、今日に至るまでの五年間、挫けずひた向きに仕事へ打ち込み続けてきたわ。今日は同じ聖花術師として肩を並べる記念すべき日よ。工房リデルの技術を披露するパートナー同士、頑張りましょうね」
「――っ、はい!」
姿見を熱心に見つめていたエリスは、慌ててギーゼラへと向き直った。
勢い込んで返事をすると、ギーゼラは「その意気よ」と蕩けんばかりの笑みを湛える。
(私が、師匠のパートナー……)
噛み締めるように心中で呟くと、気分がより一層高揚する。
落ちこぼれな自分を快く弟子に取ってくれた、気高く慈悲深い自慢の師匠。
いつだって家族のように寄り添い、細やかな指南をしてくれた。その甲斐あって、エリスの作品は少しずつ教会に評価され、前代未聞の花咲き体質でも正式な聖花術師になれたのだ。
(師匠の面子を潰さないように最善を尽くさないと!)
二階にいるイレーネに向けて、「そろそろ出発するわよー」と呼び掛けているギーゼラ。
そんな、尊敬してやまない師匠の姿を視界に収めつつ、エリスは固い決意を胸に刻むのであった。
✿ ✿ ✿
今から五百年前。
聖リュミエール王国は、春を迎えて尚も降り止まぬ未曽有の豪雪に襲われた。
日毎減りゆく食料や薪を巡り、国民同士が争いを始める。寒さと飢えに耐え切れず落命する者が相次ぐも、分厚い雪に覆われた大地を掘り返す術はなく……教会の中には埋葬を待つ棺が増えるばかりであった。
王都の教会で修道女をしていた少女セラフィーナは、人の手では太刀打ち出来ぬ天災に心を痛め、三日三晩、不眠不休で天の神々に救いを求めた。
そんな彼女のひたむきな祈りを聞き届けたのが、後に聖リュミエール王国の国教神となる、花の女神フロス・ブルーメだった。
地上へ降り立った女神は、色鮮やかな花々が閉じ込められた小瓶を手にしていた。
女神が栓を抜いた瞬間、瓶の中から発生した恵風が凄まじい勢いで空へと吹き上がり、分厚い雪雲を蹴散らす。数ヵ月ぶりに現れた青空からは、暖かな日差しと共に色とりどりの花弁が大地へ降り注いだ。
極彩色の花弁が凍てついた大地へ舞い落ちると、瞬く間に雪が溶け消える。柔らかく肥沃になった土壌では数多の植物がみるみるうちに育ち、田畑では麦や野菜が収穫を待つばかりとなり、果樹は枝もたわわに実りを迎えた。
雪に閉ざされた氷の大地へ、春の息吹と豊穣を齎した女神の小瓶。
色彩豊かな花々で満ちた小瓶の正体こそ、地上で初めて使用された〝福音〟だった。
こうして、滅亡を待つばかりだった国は救われ――女神は天界へ戻る去り際に、敬虔な修道女へ奇跡の御業である福音の作り方を伝授した。
やがて、天恵を受けた聖リュミエール王国では、女神と性別を同じくする女性にのみ、神に通ずる力が発現し始める。神力と呼ばれるその力を宿した女性は、無から幻影の花を生み出す特徴を持ち……それこそが、福音の作り手となり得る何よりの証とされた。
女神の御業を習得せし者は、いつしか聖花術師と呼び称されるようになり、教会に属する聖職者の一員に加わった。
福音の作り方を国中に教え歩いた修道女セラフィーナは、救国の聖女として歴史の一頁に名を刻んだ。
彼女の血を引く聖花術師にのみ、聖女の称号を受け継ぐ資格が与えられているが、三代目の聖女以降セラフィーナの血族は歴史上から忽然と姿を消した。
教皇と等しい権力を持つ、聖花術師の頂点に君臨する聖女。
その地位は何百年も空席のまま、今も尚、正当な後継者の出現を待ち続けていた。