第六話 ミモザの花
花嫁修業は毎日、午後に一時間だけ行われる。
どうしてたったの一時間なのか? 答えは、エリスが蒼の宮殿を離れる際にかけている、ウィラードの解呪効果が切れてしまうからだ。
それに加え、解呪の福音の研究もしなければならないし、夕方にも花壇の手入れをする必要がある。
第一王子の婚約者と、彼の呪いを解く聖花術師。
二つの役割を一人でこなすには、一日が二十四時間では足りない――と、日々、エリスは心の中で嘆いていたりする。
(ウィラード様も、お疲れじゃないのかな?)
一時間前、蒼の宮殿を出る時の彼は執務机に向かっていた。
朝の会合で急ぎの案件を任されたらしく、昼食の時間を削り、黙々と書面にペンを走らせていたのだ。国王へ届けた書類は、間違いなく朝から奮闘していた案件だろう。
休み無く激務をこなして酷く疲れているはずなのに。真っ直ぐ自分の宮殿へ戻らず、わざわざ迎えにきてくれた。
しかも、寄り道のお誘い付きだ。
――何だか、いつもの帰り道よりも心が弾む。
(私に見せたいものって何だろう?)
普段は通らない外回廊を、ウィラードと共にゆったり歩く。
白の宮殿を出る前に口付けを済ませたので、途中で解呪の効果が切れる心配は無い。少し離れた後方にはジュダの姿もあるので、身の安全も確保されている。
(こうしてると、デートみたい)
身に付けているのは、豪奢なドレスと煌びやかな宝飾品の数々。亜麻色の長い癖毛をハーフアップにして、春らしいピンク系のメイクが施されたエリスは、すっかり垢抜けた風貌をしていた。
見た目だけなら貴族令嬢と比べても遜色無いだろう。
おまけに、ウィラードと軽く腕を組んでいる。
これもアプローチの一環なのだろうか? 気が付いた時には既にこの態勢だった。
高いヒールの靴は慣れていないので、歩調を合わせてくれる気遣いが嬉しい。
よろけそうになっても、すかさず支えてくれる力が逞しくて……さっきから心臓が、トクトクと駆け足のようなリズムで脈打っていた。
「大分歩かせてしまっているけど、足は痛くないだろうか? エリスは羽のように軽いのだから、もっと私に寄り掛かっても大丈夫だよ」
頭一つ分高い位置から、程よく低い声で囁かれる。
そこはかとない色香を含んだウィラードの声音に、エリスの背筋がゾクリと甘く痺れたように震えた。
喉元まで出かかった頓狂な声を必死に呑み込み、ポンッと咲いた幻想花も即座に手で払って散らす。
「お気遣いありがとうございます。足はまだ問題ありませんので、痛みが出始めたらお言葉に甘えさせて頂きますね」
「エリスは本当に謙虚で良い子だなぁ。では、今回は私が甘えさせてもらおうか」
えっ――と、思った刹那。
少々強引に腕を引かれ、完全にウィラードと密着してしまう。
化粧の上からでも分かるほど、エリスの頬が薔薇色に色付く。
咄嗟に身を引いて距離を取ろうとするも、ウィラードがわざとらしく咳き込んで先手を打った。
「寄り道は良い気分転換になるが、今の時期の回廊は少し冷え込む。体調を崩して政務が滞ると困るから、エリスさえ嫌でなければ、そのまま私に寄り添っていてくれないかな? 君の体温はとても心地良いんだ」
確かに、歴史を感じさせる石造りの外回廊は冷気が集まりやすい。しかし、柔らかな春陽が降り注ぐ今の時間帯は、日陰にいてもぽかぽかと暖かい。
更に言えば、現在のウィラードは普段着の上に、大きなフード付きの白いローブを羽織っていた。
ローブと言っても野暮ったいデザインではない。裏地は青く、細部に至るまで金糸で刺繍が施され、正装としても通用する代物である。
人前で解呪の効果が切れた際、取り急ぎ耳と尻尾を隠す保険として、蒼の宮殿の外では常に着用している物だった。
エリスより厚着をしているのに寒いなんて嘘だろう。
けれど、折角寄り道に誘ってもらったのだ。ウィラードのお願いを断って、雰囲気をぶち壊しにするのは気が咎める。
それに――……こうして彼と寄り添って歩くのは、決して不快ではなかった。
(ウィラード様のアプローチ作戦、効果あり過ぎだよ……っ!)
顔良し。性格良し。仕事も出来る。
そんな異性から日に何度も好意を示され、雰囲気に流されないでいられる乙女はいるだろうか?
少なくとも恋愛未経験者のエリスは、たまに胸の高鳴りの意味が分からなくなる。
慣れない異性との接触に驚いてドキドキしているのか?
はたまた、恋愛対象としてウィラードを意識してドキドキしているのか?
(……なんか、私ばっかり振り回されてる)
その事実に少しばかりモヤッとする。
こうなったら仕返しをしよう――と、エリスは安直に思い立つ。
とは言え、どうしたらウィラードの気を惹けるだろう? あからさまな色仕掛けは下品で逆効果だろうし、それを実行するだけの色気も度胸も持ち合わせていない。
そこで良案をひらめく。
自分の得意分野である聖花術を活かして、心の安らぎを提供するのはどうだろう?
一緒にいて癒される女性を、男性は放っておかないらしい。
情報元は故郷のお喋り好きなおばちゃんだ。
第一王子としての重責に、いつ襲いくるか不明な魔女の脅威。
呪われた半獣の身や、突然の婚約……他にもエリスが知らないだけで、ウィラードが抱えている問題は山積みだろう。
(あっ、駄目だ。これ、仕返しとかしてる場合じゃないわ)
このまま放っておいたら、遅かれ早かれウィラードの胃に穴が開く。
彼には普段からよくしてもらっているので、「恩返しの一環として全力で癒さなければ!」と密かに決意する。
そんなこんな思考を巡らせていると、不意にウィラードが歩みを止めた。
意識を現実へ引き戻したエリスは、我知らず俯けていた顔を上げ、
「うわぁ……っ!」
思わず、感嘆の声を漏らしてしまった。
眼前に広がっているのは、王城の中央に位置する壮麗な中庭だ。
春特有の低木と芝生の淡い緑が目に優しく、凝った彫刻が施されている花壇では、色とりどりの花が咲いている。どの位置から眺めても絵になる美しさは、並大抵の庭師の腕では作り出せないだろう。
中でも目を惹かれたのは、中庭のあちらこちらに植えられている木だ。
蒼穹を背景に大きく枝垂れて咲いているのは、小さな綿毛のように愛らしいミモザ。
満開の黄色が春風に揺れる光景は、呼吸すら忘れるほど輝いて見えた。
「段差があるから足元に気を付けて」
夢心地のままウィラードにエスコートされ、回廊から中庭の遊歩道へと降り立つ。
恋人のように寄り添ったまま、二人は一際大きなミモザの木の下へ向かった。
「国の南東に位置する、エマニュエル領独自の習慣を知っているかい?」
ミモザの花を愛おし気に見上げているウィラード。
唐突な質問を投じられたエリスは、若干訝しみながらも、該当する知識を記憶の中から引っ張り出す。
「確か、告白をする際にミモザの花束を贈るんですよね? ミモザの代表的な花言葉が【秘密の恋】なので、これまで身の内に秘め続けていた想いを相手に受け取ってもらい、正式なお付き合いへと昇華させる――……とてもロマンチックな伝統だと、書物で読んだことがあります」
「その通り。だから私は、エリスをこの場所に連れてきたんだよ」
「? どういう意味ですか?」
少しだけ強い風が吹き抜けて、ドレスの裾と髪の毛先がふわりと揺れる。
黄色い雪のように、ふわふわとミモザの花が舞い散る中。組んでいた腕が唐突に解かれ、エリスは困惑に揺らぐ眼差しで、ウィラードの整った顔を見上げる。
すると、切れ長の目元を柔らかく眇めたウィラードは、エリスの細い両肩にそっと手を置いた。
典雅な微笑を湛えた青の王子は、エリスの大きな翡翠の瞳を一心に見つめて告げる。
「いつの日か私達の間に愛が芽生えたら、この木の下でミモザの花束を贈らせて欲しい。今はまだ、お互いに気持ちを育んでいる最中だから、これは近い将来へ向けての約束だ」
「……っ!」
「変なこだわりだと笑ってくれて構わない。エリスに贈る最初の花は、ミモザ以外に思い付かなくてね。せめて今年は、この風景を君に捧げたいと言ったら……迷惑だろうか?」
ウィラードの予想外な告白に、心臓がバクンと一際大きく跳ねた。
黄色いミモザよりも目立つ、茜色の幻想花が空中で次々と花開く。
その幻想花よりも鮮やかな赤に顔を上気させ、エリスは喘ぐようにはくはくと唇を戦慄かせる。
底知れぬ羞恥心に耐え切れず、ついに小さな両手で顔を覆った彼女は、暫くしてか細い声を喉の奥から絞り出した。
「……め、迷惑だなんて……そんなこと、ありません……」
聖花術師をしていると、自分自身に花が贈られる機会など滅多にない。
師匠のギーゼラは記念日を花で祝ってくれるが、異性から花をプレゼントされたのは、ウィラードが生まれて初めての相手だった。
思いがけない最高の贈り物に、喜びの感情が炭酸水のように胸の内で弾ける。




