第五話 白の王妃
王城の北東に位置する白の宮殿。
その名が示す通り、室内の家具や調度品は純白で統一されている。客間の大きな窓の外に広がる庭園でも、白い花ばかりが美しく咲き誇っていた。
宮殿の主は、第二王妃ナターシャ・レーネ・ランドルリーベ。
ウィラードの実母であり、先達て行われた花比べにて、エリスの依頼人を務めた人物だ。
現在はナターシャが講師となって、エリスは日々、王侯貴族の令嬢が行う花嫁修業に励んでいた。
「本日もご指導ありがとうございました」
座っていた椅子から静かに立ち上がり、スカートの裾を摘まんで優雅に一礼する。
そんなエリスの楚々たる風情に、白の王妃は菫色の瞳を柔らかく細めた。
「こちらこそ、充実した時間を過ごせて喜ばしい限りです。エリスさんは飲み込みが早いので、すぐに教えることが無くなりそうですよ」
「それは、ナターシャ様が丁寧にお教え下さっているお陰です」
「わたくしも王家に嫁ぐと決まった時は、それはもう大変な苦労をしたものです。息子のもとへ嫁いでくれる大切なお嬢さんに、同じ想いはさせられません。結婚式を挙げるまでには、誰もが認める立派な淑女にしてみせるので、それまで一緒に頑張りましょうね」
お嫁さんや結婚式など。大して器量の良くない自分にとって、最も縁遠いと思っていた単語が、ナターシャの口から次々と飛び出す。
じわじわと頬を赤らめたエリスは、消え入りそうな声で「よ、よろしくお願いします……」と答えた。
(そう言えば、ナターシャ様のご実家は貴族の中でも身分が低いんだっけ)
代々、海辺の小さな領地を受け継ぐ伯爵家の出身だと、福音を作る際に聞いていたのを思い出す。
お忍びで視察に訪れていた国王と恋に落ち、二人は降りかかる様々な苦難を乗り越え、貴族間では珍しい恋愛結婚を果たしていた。
身分差のせいで幾度も辛い経験をしてきたナターシャだ。今のうちから貴族の行儀作法を教え込むことで、いずれ社交の場に出るエリスを、少しでも守ろうとしてくれているのだろう。
そんな彼女の他者を慮る慈愛の精神は、息子のウィラードに色濃く受け継がれていた。
(それにしても……本当に私が、ウィラード様と結婚しても良いのかな?)
現時点で第一王子が婚約した事実を知る者は、王家の人間と極一部の高官のみだ。今なら破談になっても、最初から婚約話など存在していないと誤魔化せる段階だが――「生涯を掛けて幸せにする」と誓ったウィラードが、約束を違えるとは思えない。
何せ彼は、生来の強い責任感でエリスとの婚約を決めたのだから。
(花祝の儀でウィラード様が呪われてなかったら、私達は今とはまったく違う未来を歩んでたよね。こんな偶然から生まれた関係で、将来を誓い合う仲になるとか……ウィラード様は嫌じゃないのかな?)
魔女が問題さえ起こさなければ、彼の婚約者は平民の小娘などではなく、立派な家柄のご令嬢だったはずだ。
無意識に、ウィラードと他の女性が親密にしている場面を想像すると、胸中が不穏にざわめき立つ。
(……この気持ちは何だろう?)
初めて生じた奇妙な感情に、エリスが脳内で疑問符を浮かべていた時だ。
客間の扉が控えめにノックされ、メイドに先導されたウィラードが入室してきた。
丁度、彼について想いを巡らせていたエリスは、ビクッと肩を大きく揺らしてしまう。
「まぁ、珍しい。今日はウィルがエリスさんのお迎えにきたのですか?」
「父上の元へ急ぎの書類を届けに行ったのですが、どうせ帰るのなら彼女と共に……と、思いまして。護衛の者は宮殿の外に待たせております」
母親と和やかに言葉を交わしたウィラードは、すぐさまエリスの元へ向かう。
本日のエリスは、胸元にフリルがあしらわれた薄藍のドレスを着ている。
たっぷりとしたドレープの下には、繊細なレースが幾重にも重なり、動く度に風を含んでふわりと揺れた。
エリスの前で徐に跪いたウィラードは、流れるような所作で彼女の手を取る。
いつもは解呪のためにウィラードの手を取っているので、まったく逆の立場になったエリスは、不思議そうに大きな翡翠の瞳を瞬かせた。
「エリス、今日は私の寄り道に付き合ってもらえないだろうか? どうしても、君に見せたいものがあるんだ」
「? 分かりました、ご一緒致します」
「よかった。きっと気に入るはずだから、楽しみにしていて欲しい。――では、行こうか」
軽いリップ音を響かせて、手の甲に口付けが落とされる。
薄く形の良い唇から伝わるウィラードの熱に、ボッと頬が赤く染まった。
またしても、不意打ちのアプローチだ。ナターシャが見ている前だと思うと羞恥心が更に高まる。
けれど、口付けをした当人はどこ吹く風だ。
「それでは母上、私達はこれにて失礼致します」
跪いていた床から音もなく立ち上がり、ウィラードは母親に折り目正しく一礼する。
一連のやり取りを穏やかに見守っていたナターシャ。
清廉な空気を纏う白の王妃は、不意に柔らかな微笑を消して、自身の息子へ厳かに告げる。
「良いですか、ウィル。エリスさんは貴方が『どうしても』と望んだお嬢さんです。何時如何なる時も、盾となり剣となり必ず守り抜きなさい」
「はい。重々承知しております」
強い意志を秘めたウィラードの瑠璃色の眼差しと、全てを見透かすようなナターシャの菫色の眼差しが、深い沈黙の中で真っ向からぶつかり合う。
親子の間に漂うピンと張り詰めた空気に、話題の中心人物であるエリスは、「ど、どうしよう?」と心中でオロオロするばかりだった。
しばらくして、ナターシャがふっと吐息交じりに口元を綻ばせる。
「若い頃の陛下と同じ、良い目をするようになりましたね。……ウィル。そして、エリスさん。わたくしはいつでも貴方達の味方ですからね。困ったことがあれば遠慮せずに頼りなさい。そして、いつか煩わしい問題が解決したら、三人でゆっくりお茶でもしましょう」
普段のおっとりした雰囲気に戻ったナターシャに、ウィラードも軽く嘆息して笑みを零す。
コロコロ変わる空気の変化に付いていけず、エリスだけが情けなく眉尻を垂らし、困り果てた表情で硬直していた。
「引き留めてしまってごめんなさい。寄り道が素敵な想い出となるように祈っていますよ」
茫然と立ち尽くしていたエリスは、ナターシャの優しい声掛けにハッと我に返る。
片手はウィラードに握られたままなので、軽く膝を屈伸させて別れの礼をした。
そして、若人の二人は手を繋いだまま客室を後にする。
白の王妃はその光景を、心底嬉しそうに目を細めて見送った。




