第一話 蒼の宮殿の賑やかな朝
愛らしい小鳥のさえずりが、朝の訪れを告げる。
「……むぅ……」
布団の中で丸くなっているエリスは、小さく呻いてごろりと寝返りを打った。
(聖花のお世話、しないと……。でも、あと五分だけ……)
普段の寝起きは良いはずなのに、今朝は異様に瞼が重たい。
全身を綿雲に包み込まれたような感覚が心地良くて、身体が「まだ起きたくない」とごねている。何気なく抱き締めた枕もふわふわで、自然と幸せな笑みが零れてしまう。
「今日も、か……」
その時。何事か呟く声が聞こえ、遠慮がちに肩を揺さぶられた。
優しい声音で「朝だよ」と起床を促されるが、エリスは胸に抱えた枕に顔を埋め、幼子の如くイヤイヤと頭を振る。
次の瞬間、枕が腕の中から逃れようと暴れ出した。
当たり前だが、枕は自発的に動いたりしない。そこでようやく何事かと目を開ければ、眼前に男性の広い背中が飛び込んできた。
驚きのあまり声も出せず、何度も目を瞬かせていると、肩越しに振り向いた人物と視線が合う。
――獣耳をペタリと倒して、微かに頬を赤らめたウィラードだ。
「ごめん。起こすつもりはなかったんだけど……やっぱり〝それ〟に触られるのは、どうしてもくすぐったくて我慢出来ないんだ」
動揺と羞恥が混ざり合った表情で、そんなことを切々と訴えられる。
〝それ〟って何だろうと疑問に思いつつ、今は暴れ続ける枕が問題だ――と、胸元へ視線を落としたエリスは、凍り付いたかのようにビシッと固まった。
彼女が枕だと思い込んで頬擦りまでしていたのは、ウィラードの尻尾だったのだ。
「……申し訳ないけど、離してもらえるかな?」
「こ、こここ、こちらこそ、すみませんでした――ッッ!!」
慌てて尻尾を解放すると、弾むように飛び起きて土下座する。
エリスが蒼の宮殿で生活するようになり早一週間。
豪奢な天蓋付きのベッドの上で、米つきバッタよろしく何度も頭を下げる彼女の一日は、七日連続で同じ幕開けをするのであった。
✿ ✿ ✿
「お前、死相が出ているぞ。大丈夫か?」
ウィラードの執務室のフレンチドアを開き、優美なティーテーブルが置かれたテラスへ出ると、見送りで付いてきたジュダに身を案じられた。
魔女疑惑を掛けられていた頃は、常に敵意を隠さず睨みを利かされていたが、今やエリスの良き理解者となっている。彼も存外苦労性なので、仲間意識が芽生えているのかもしれない。
朝っぱらから疲労困憊のエリスは、「ははは」と乾いた笑いを零す。
「第一王子の婚約者になったら、優雅な日常を過ごせると思ってたんですけど……正直、工房の生活とは比べ物にならないほど疲れます。主に精神的な方面で」
「お前は特例の婚約者だからな。こればかりは時の流れに解決を任せる他ないだろう」
「そんなの無理ですよ。どう考えても、平民の私とウィラード様は釣り合いません。……今からでも、婚約を無かったことに出来ませんかね?」
「この不毛なやり取りは何度目だ? いい加減、王族の決定は絶対だと腹を括れ」
でも……と、エリスは唇を尖らせて不満げな顔をする。
そんな彼女の表情を視界の端で捉え、ジュダは大仰な溜め息を吐いた。
「今は殿下と釣り合いが取れていなくとも、今後のお前の努力次第で、その点はどうにでも改善出来るはずだ。ナターシャ妃殿下の花嫁修業にも、毎日通っているのだろう?」
「だって、王妃様からのお誘いなんですよ? 断れるわけありません」
「ほらな。最初からお前に選択肢は存在していないんだ。悪い事は言わん、これからも真面目に妃殿下の元へ通い続けろ。礼儀作法だけでも完璧にしておけば、身分差で難癖を付けられたとしても、堂々と殿下の隣に立っていられるはずだ」
「それは、そうかもしれませんけど……」
王子様と結婚したいと思えるのは、童話の中の優しい世界だけだ。
現実で王子様と結婚などしてみろ。めでたしめでたしでは終わらない。その先には、自由を奪われた窮屈な生活が待っている。
どのような政務をするのかまでは知らないが、王族の一員として振舞う重圧は如何ほどか。
――……想像するだけで眩暈がした。
いつまでも煮え切らないエリスの態度に、ジュダはやや難色を示した表情になる。
「婚約の件はお前も一度は了承したんだ。己の発言には責任を持て」
「う、うぅ……仰る通りです……」
へにょり、と。萎れた幻想花がエリスの頭頂部から生えた。
力無く項垂れるくすんだ花を見て、さしものジュダも「言い過ぎたか」と内心で焦る。
目を泳がせつつ何事か思案し始めた彼は、やがて渋々ながらも一つの案を出す。
「そこまで嫌なら、さっさと解呪の福音を完成させてしまえ。殿下の呪いが完全に解けさえすれば、少なくともお前が王城に留まる理由が一つ減るからな」
「――っ! ジュダさん、それ名案ですよ! 呪いを解いてしまえば、解呪要員の私は不要になりますもんね。そうしたら、婚約解消も夢じゃないはず……!」
ウィラードのことは嫌いではない。むしろ、出会って間もない平民の小娘のため、あれこれ親身になってくれている時点で好意的な印象を抱いている。
だが、彼自身がどれだけ善人だろうと、身分は一国の王子様なのだ。
第一王子の婚約者ともなれば、大小様々な試練が付き纏うだろう。
魔女のみならず常に命を狙われる立場となり、四六時中気が抜けない日々を過ごすだなんて――はっきり言って、耐えられそうにない。
(私はひっそりと、平穏な生活を送りたいだけだもん)
刺激ばかりの非日常なんて、これっぽっちも求めていないのだ。
「よし、これまで以上に解呪の研究を頑張るぞ!」
「張り切るのは勝手だが、必ず研究の成果が実を結ぶ保障はないのだろう? 最後の忠告だ、花嫁修業も手を抜くんじゃないぞ。後で泣きを見るのはお前自身だ。……――殿下が一度決めた事柄を覆すなど、天地がひっくり返ってもあり得ないからな」
「? すみません。最後の方、声が小さくて聞き取れなかったんですけど……何て言ったんですか?」
「気にするな、ただの独り言だ。それよりも手を出してみろ」
なぜだろう。無性に、重要なことを聞き逃した気がする。
それでもエリスはジュダに言われるがまま、素直に両手をお椀の形にして差し出した。すると、手のひらの上に丸い物体が三つほど転がる。
一個ずつ丁寧に包装された飴玉だ。
「お前の苦労も分からんでもない。愚痴くらいなら聞いてやるから、あまり抱え込むなよ」
「うわぁ~、ありがとうございます。飴、休憩時間に頂きますね。ジュダさんも、福音が必要になったら遠慮なく仰って下さい。研究の合間でよろしければ作成しますので」
「それは助かる。お前が作った癒しの福音で心の持ち様は変わったが、細々とした悩みは尽きそうにない。時期を見て再度依頼させてもらうが、今は己の役目に慣れる事だけに専念しろ。他所事にかまけてお前が倒れでもしたら、殿下にまで不都合が生じるからな」
ジュダなりの気遣いに、エリスは「気を付けます」と素直に返す。
貰った飴玉をポケットの中にしまっていると、中庭の噴水でジョウロに水を汲んでいたマリオンが、タイミング良く戻ってきた。
最後にジュダは「無理はするなよ」とだけ残し、執務室の中へ引っ込んだ。彼の代わりに、ここからはマリオンがお目付け役の任に付く。




