第一話 工房リデルの朝
花の女神フロス・ブルーメの加護を受けし大国、聖リュミエール王国。
堅牢な砦に護られた王都ルベリエの近くに、緑豊かな小さな森がある。
天高く張り出した梢が生み出す緑のアーチに出迎えられ、土を踏み固めただけの小道をしばらく進むと、徐々に視界が開けて広大な花畑に辿り着く。四季を問わず、様々な種類の花が咲き誇る幻想的な空間には、レンガ造りの瀟洒な館が建っている。
そこは、花を用いた神の御業を扱う【聖花術師】の工房。
商号をリデルという。
工房リデルは個人経営店で、年中無休のはずなのだが――本日は「臨時休業」と彫金されたプレートが、玄関の扉に下げられていた。
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工房リデルの二階。
日当たりの良い南向きの角部屋が、門下生エリス・ファラーの自室だ。
「どこかおかしな所は……っと」
部屋の隅に置かれた姿見の前に立ち、エリスは大きな翡翠色の瞳で鏡面を覗き込む。
鏡に映し出されているのは、薄藍色の清楚なドレスを纏った小柄な少女。
白いファーで縁取られたケープを羽織り、青い花のブローチで前を留めている。あどけなさを残した顔には薄化粧が施され、背中まで届く亜麻色の癖毛は、頭の高い位置で結い上げられていた。
「よし、準備完了!」
身体を左右に捻って後ろ姿まで確認を済ませると、エリスは会心の笑みを浮かべた。
次の瞬間、ポポポンッとエリスの周囲に小さな花がいくつも咲き乱れる。
その色は浮足立つ彼女の胸中を表しているような、幸せ気分のパステルカラーだ。
上機嫌なエリスは宙を浮遊する花など気にも留めず、捲っていた姿見のカバーをかけ直すと、ベッド脇に用意しておいたなめし革のトランクを手に取る。夜寝る前と朝起きてから、合わせて七回もチェックしたので忘れ物はないだろう。
最後にケープの内ポケットを探り、一通の手紙を取り出す。
(ついに、この日がやってきた!)
封筒には国教会を示す、フィオーレ教団の薔薇十字の紋章が金で箔押しされている。
この手紙がエリスの元へ届いたのは、一ヵ月ほど前のこと。
聖花術師は聖職者に属する職業であり、特に優れた術者には国儀への招待状が届く。
王侯貴族が大勢集う国儀への参加は、聖花術師の間では至高の誉とされているが、実際に招かれるのは多くても十人程度だ。
そんな狭き門を、エリスは見事に潜り抜けた。
今、彼女が手にしている手紙こそ、栄誉ある国儀への招待状なのだから。
(招待状が届いたってことは、仕事の成果が教会に認められた何よりの証だわ。てっきり〝落ちこぼれ〟は選考外だと思ってたけど、努力は必ず報われるって本当だったのね!)
――どんな依頼でも選り好みせず、地道に頑張ってきてよかった。
胸の奥から溢れ出る充足感を伴う感動に浸っていると、先ほどから空中を漂っている花がポポンと数を増す。
ようやく花の存在に気が付いたエリスは、慌てて両手を払うように動かした。
すると、空飛ぶ不思議な花は細かい光の粒子となって掻き消える。
(私ったら、また無意識に花を咲かせてた……)
待ちに待った国儀は本日開催される。
(会場で同じ失態を犯すわけにはいかないわ。もっと気を引き締めて挑まないと!)
心機一転。招待状をケープの内ポケットの奥深くへと戻し、壁掛け時計に目を向ける。
そろそろ集合時間なので、トランクを持って部屋から出ると……、
「うわっ!?」
「…………」
猛禽のように鋭い鳶色の瞳と、至近距離で目が合った。
丁度、ノックをしようとしていたのだろう。黒いロングドレスに白いエプロンを付けた、栗色のおさげ髪の少女が、開け放たれた扉の前で不自然に右手を上げていた。
――扉が内開きでなければ、大惨事になっていただろう。
エリスは内心で冷や汗を掻きながら数歩後ろへ下がると、眼前の少女に明るく声をかけた。
「おはよう、イレーネ。急に扉を開けてごめんね。大丈夫だった?」
問われた少女は行き場をなくした右手を下しつつ、「問題ありません」と単調に返す。
先ほどからピクリとも動かない表情も相俟って、機械的な印象を強く受ける。
彼女の名前はイレーネ・ベーレント。
工房リデルに入門して間もない見習い聖花術師だ。
「師匠がお呼びです。至急、リビングへ向かって下さい」
「あっ、うん。分かった、すぐ行くね。わざわざありがとう」
「別に先輩のためではありません。師匠に頼まれたので、仕方なくお伝えしにきただけです」
ズバズバと明け透けな物言いをするイレーネは、エリスの謝意を問答無用で突っぱねた。
あまりにもあんまりな態度だ。
呆気に取られて立ち尽くしたエリスだったが、即座につり目がちなイレーネの双眸に睨まれる。
「私、言いませんでしたか? 至急、リビングへ向かって下さい――と。言伝の内容を正しく理解されたのでしたら、いつまでもそんな所に突っ立っていないで、さっさと師匠の元へ行ったらどうですか? のろまな先輩のせいで、私の評価まで下がるのは御免被ります」
「う、ぐ……っ!」
今日も今日とて、後輩の態度が極北の地で吹き荒れるブリザード並みに冷たい。
(私の方が一つ年上だし、工房で働いている期間も遥かに長いのに……)
姉弟子として敬われるどころか、徹底的に嫌われているのが悲しき現状だ。
イレーネの慇懃無礼な言動に、腹が立たないと言ったら嘘になる。しかし、どんなに悔しくても何も言い返せない。
何せ自分は、前代未聞の〝落ちこぼれ聖花術師〟なのだから。
「……あぁ、先輩。一つだけ言い忘れていました」
自室の扉を閉めて一階へ下りる階段を目指し、エリスがとぼとぼ歩き出した時だった。抑揚のないイレーネの声が、冬の名残を留めた初春の冴えた空気を震わせる。
肩越しに振り替えったエリスが「何?」と返せば、彼女は無表情のまま口だけ動かす。
「本日は私も補佐役として同行致しますが、くれぐれも会場で花を咲かせないで下さいね。師匠や私までいらぬ恥を掻くことになりますから。この程度の自制すらできないのであれば、先輩は欠席した方がよろしいですよ。工房の品格が損なわれては困るので」
「――っ!」
それは、心の一番柔らかい部分に、深々と氷の刃を突き立てられたような衝撃だった。
「招待状をもらったからには欠席はできないよ。でも、イレーネの言う通り、今回は私だけの問題じゃ済まないもんね。花を咲かせないように最善を尽くすよ」
無理やり作った笑顔を顔に張りつけて。「じゃあ、先に行くね」と、震えそうになる声を喉の奥から絞り出し、エリスは足早にその場を後にした。
(花を咲かせたばかりだったから、今のはきつかったなぁ……)
廊下の角を曲がって階段が見えると、徐に足を止める。
頭のてっぺんに違和感を抱き、髪型を崩さぬよう頭頂部の辺りに触れると――丁寧に結い上げた髪の隙間から何かが生えていた。躊躇いもせずブチッとむしったそれは、へにゃりと萎れているくすんだ色の花だ。
力無く頭を垂れている花を握り締め、エリスもがっくりと項垂れる。
(どうして私は、無意識に花を咲かせちゃうんだろう? 神力をコントロールする修行は、毎日欠かさずしてるのに……)
きつく握った拳の中で、さらりと花が霞のように消えた。
エリスの部屋で突如空中に咲き乱れた花や、今しがた彼女の頭部に生えた花は普通の花ではない。
幻視・幻嗅・幻味・幻触が備わった、すべてが幻で出来ている花だ。
――その名も幻想花――。
神々の御座す天上界に咲く花の幻影であると、フィオーレ教の経典に記されている。
聖花術師になる資格を持つ者にのみ、幻想花を咲かせる能力が発現し――花の女神の愛し子として、神に通ずる力〝神力〟を扱えるようになるのだ。
普通の聖花術師であれば、意識して咲かせようとしない限り、幻想花を暴発などさせたりしない。
しかし、エリスは違った。いくら血の滲むような努力を重ねても、幻の花は所構わず勝手に咲いてしまうのだ。
(これじゃあ、イレーネがつっけんどんな態度を取るのも仕方ないよね)
――落ちこぼれ。出来損ない。不良品――。
遠い昔に罵倒された言葉が脳裏で蘇り、氷の手で心臓を鷲掴みにされた不快感に陥る。
前代未聞の花咲き体質な自分のせいで、師匠や後輩まで白い目で見られたら……と考えるだけで、途方もない絶望感から消えてなくなりたくなった。
(あーっ、ダメダメ! 私ったら、なに後ろ向きになってるのよ。大事なのは過去じゃなくて未来でしょ? いつまでもくよくよしてないで、しっかり前を向いて歩かないと!)
気合一発、両手で頬をパンッと軽く叩く。
落ちこぼれだろうが何だろうが、今の自分は正式な資格を持つプロの聖花術師だ。栄えある国儀への招待状が届いたのだから、落ち込む必要などこれっぽっちもない。儀式の場で渾身の作品を披露すれば、工房の評価を貶めるどころか、名声を上げる良い機会になるだろう。
(改めて、今日は頑張るぞ!)
しょぼくれ顔からしゃんとした表情に戻ると、エリスは小気味よいヒールの音を響かせ、手すりに軽く触れながら階段を下りた。