第八話 突然の解呪
(……今のは、なに……?)
何度か瞬きをしていると、暗転していた視界に色が戻り始める。
やがてエリスの視界に広がったのは、危うく倒れかけたところを抱き留めてくれた、ウィラードの恐ろしく端正な顔だった。
「急にふらついたけれど、大丈夫かい?」
形の良い柳眉を垂らして、平民の小娘を気遣ってくれる心優しい王子様。
彼の問い掛けに「はい」と答えようとしたが、エリスは口を半開きにした状態で固まる。
エリスを抱き留めた際に、目深にかぶっていたウィラードのフードは、ぱさりと背中に落ちていた。
その下には、獣耳が隠されているはず――……なのだが、露わになったウィラードの頭部から、獣耳はいつの間にか消えていた。
その代わりに、烏の濡れ羽色をした髪の隙間からは、チラリと人間の耳が覗いているではないか。
「ウィラード様、耳が元に戻ってますよ!」
エリスから上ずった声で指摘され、ウィラードは彼女の身体を左手のみで支え、空いた右手で自身の頭部に触れた。
そして彼は小さく息を呑む。
本当に獣耳が消えていると、ウィラードは何度も手櫛で髪を梳いて確認する。かと思えば、今度はローブの上から臀部の辺りを弄り出した。
やがてウィラードは、信じられないといった面持ちで呟く。
「どうなっているんだ……。耳だけでなく、尻尾まで消えている」
「それって、呪いが解けたってことですよね? 一度掛かった呪いは、術者本人にしか解けないはずなのに、すごい奇跡じゃないですか!」
自分は魔女疑惑が晴れて、火炙りにされる最悪の結末を回避した。
ウィラードも人間の姿に戻ったので、後は事件の元凶である本物の魔女を見付け出すだけだ。
(よかった。これで、色々あったけど一件落着だよね)
エリスが安堵の息を吐いたのも束の間――……。
突如として、目を疑うような現象が起こった。
「なっ!?」
ウィラードの頭頂部辺りの髪がもぞりと不自然に蠢く。
次の瞬間、その場所に勢いよく立派な獣耳がピンッと生える。反射的に彼の足元へ視線を落とすと、ローブの裾から尻尾の先端が揺れているのが目に入った。
横髪の合間から見えていた人間の耳は、今やどこにも見当たらない。
「一体、何が起きているんだ?」
ウィラードは再び頭と臀部に触れて、呪いが再発した事実を確認する。
表情では平静を装っているが、獣の部位は当人の心情を何よりも雄弁に語るらしい。その証拠に、立派な獣耳がしょんぼりと垂れてしまっていた。
「次から次へと厄介事が起きるわねぇ」
エリスが声のした方向へ顔を向ければ、マリオンが扉を薄く開けて廊下の様子を伺っている。
反対側ではジュダも窓の外へ鋭い視線を走らせ、何かしらを警戒しているように見えた。
マリオンが扉を閉めながら「どう?」と尋ねると、ジュダは黙って首を左右に振る。
その答えに大仰な溜め息を吐いたマリオンは、カツカツとブーツの踵を響かせて、今度はウィラードの元へ足早にやってくる。
「エリスの言った通り、一度掛かった呪いは術者本人にしか解けないの。解呪の福音の研究は、宮廷聖花術師が長年続けてるけど、何の成果も得られてないのが現状よ。呪われる前に福音で防ぐのも、確実な対処法とは言えないわ。事実、ウィルは不完全な形で呪われたでしょう?」
「だとしたら、一瞬でも私の呪いが解けるはずがないだろう?」
「その通り。ウィルの呪いが解けてすぐ、部屋の外を確認したけど誰もいなかったわ。すなわち、術者本人である魔女が戯れに解呪した可能性はありえない」
だが、解ける術のない呪いが一時的にでも解けてしまった。
それは聖花術師だけに留まらず、フィオーレ教団全体を揺るがす衝撃の大事件だ。
「これは、あたしの勝手な推論なんだけど……解呪に必要な条件が偶然揃ったんじゃないかしら? 意図して起こせる事象なら、とっくの昔に呪いは脅威で無くなってるだろうし、普通の研究では思い付かないような、かなり突飛な手法だと考えられるわ」
「マリオン。お前は『偶然揃った突飛な手法』とやらに、心当たりはないのか?」
「いくら推論だからって、何の根拠も無く語ったりしないわよ。ほら、耳を貸してごらんなさいな。仮説の域を出ない方法だけど、試す価値は十分にあるはずよ」
にんまりと猫のように笑ったマリオンは、ウィラードの獣耳に唇を寄せた。
二言、三言。最小限まで絞られた声で、麗しの枢機卿が一方的に何事か囁く。
彼がすべて語り終えると、ウィラードはなぜか口元を片手で覆い頬を赤らめた。
「確かに呪いが解ける直前に行ったのは〝それ〟しかない。だからと言って、再度実践を試みるのは無理だ。私一人の問題では済まなくなる」
「それじゃあ、ウィルは一生呪われたままでいるつもり? 解呪の可能性があるにもかかわらず、試しもしないで諦めるなんて許さないわよ。これがきっかけとなって、完全な解呪方法の発見に繋がるかもしれないんだから、それこそ〝あんた達〟だけの問題じゃないんだからね」
「だが、私は不誠実な男になりたくない。お前の提案を試すにしても、けじめだけは付けさせてもらう。この条件だけは決して譲らないぞ」
わずかでも解呪の見込みがあるのなら、マリオンの進言通りダメ元で試してみるべきだ。
しかし、ウィラードは頑として首を縦に振ろうとしない。
聡明な青の王子が忌避するような解呪方法とは、果たしてどんな物なのだろう?
(うーん……私には、見当もつかないや)
貧血の影響が残っているエリスは、早々に思考を切り上げた。




