隣人①
その家が隣に建った日のことは、未だに鮮明に思い起こせる。ご近所挨拶を恙無くこなすその人柄や容貌を見て、互いを忌み嫌うような後ろ暗い未来は想像できなかった。いつもと変わらぬ日常を過ごしている傍らで、少しずつだが、確実に変化は起きていて、ゆくりなく子どもが声を上げるのである。
「あの黒いの何?」
凝視しなければ気付かぬ仔細な黒い模様は、家族の団欒の時間に差し込んだ暗い影となり、侃侃諤諤とやり取りを行うまでもなく、結論は出た。それが黒カビによる侵食であることに。とりとめもなく日照権を訴え、恥知らずにも退去命令を求める厚顔無恥な振る舞いは自重しつつ、顔を合わせれば素っ気ない挨拶に終始した。
しかしある日を境に、隣人とは大手を振るっていがみ合う関係に至る。誰が初めに認知したかは分からない。だが、黒いゴミ袋が当然のようにゴミ捨て場に投棄されていることへの不信感は、懐刀のように忍び持っていた。近在する住民を疑う者はいない。通りすがった素性の知れない者が投げ捨てているのだと思い込み、炯々たる眼差しで監視し合うような真似は避けた。
千九百九十三年、日本の首都である東京二十三区に於いて、それまでは主流であった有色のゴミ袋の規格を見直す半透明推奨袋制度が導入され、それはのちに全国へと波及した。ゴミの分別が徹底される現代日本の住宅街では、黒いゴミ袋は目に余る。中身を晒せば、公的理由から指摘は免れないと踏んだ疾しさが露見しており、奇異な視線を送るのに無理がない。
漸次的に担当することになる自治会組長を任されたとき、初めてその黒いゴミ袋の出所を知った。組長という役職に喜ばしい感情を抱くことはない。持ち回りが約束された面倒事であるために、表札の横に掲げられる自治会組長の文字には労をねぎらう意味で頭が下がる一方である。顕著なのは朝一番にゴミ捨て場にて、網を広げることにあり、結果として黒いゴミ袋を出す隣人の姿を見るはめになった。当然ながら、見て見ぬふりは出来ない。毅然とした態度で、黒いゴミ袋を突き返す。だが、聴従するような相手ではないことを直下に知ることになる。
「はぁ? ゴミの分別はしっかりとしているし、貴方には直接、関係のない話でしょう。中身を確認するのはゴミを処理している人たちなんですから」
如何にも自身に正当性があると断言し、鋭い眼光から迸る憤りは、理不尽な指摘を受けた被害者面そのものであった。出来るだけ穏便にことをやり過ごそうと、その場では矛を収め、自宅へトンボ帰りする。隣人への鬱憤は限界に達しており、噂話として隣人の醜聞を語って回った。すると、伝聞は瞬く間に町へ広がり、通りがかって隣人の表札を確認すれば、誰もが白眼視を浴びせた。




