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彼岸よ、ララバイ!  作者: 湯ノ村
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五月雨④

——そぞろに傘を閉じていた。軽々と電柱を登り、蛙のように宙を掻き分け、彼女の元へ渡り泳いだ。


「こんな所で何をしてるの?」


「誰かが呼んでるような気がして、」


 彼女はは僕のことを一瞥もしないまま、空を仰ぎ見ている。


「とりあえず、降りよう。危ないから」


 彼女の手を引くと、抵抗の一切を感じないまま、登ってきた電柱へ戻ることができ、手繰り寄せるように地上へ向かって下っていく。間もなくして、両足は地面に根を下ろし、手持ち無沙汰にある彼女の両手に目がいった。


「傘は持ってないの?」


「ごめんなさい」


 彼女の虚な眼差しは、今か今かと待ち望んでいたものに裏切られたような、幻滅した影があり、僕はすっかり絆されていた。


「これ、使っていいから」


 後に引き起こす赤ら顔など露知らず、わらしべ長者のように人から人へと折り畳み傘は渡った。


「ありがとう」


 僕は便座から立ち上がり、排泄もしないまま水を流す——


 青い吊り天井に向かって粉のように牛乳を吐き掛けると、それは薄く広がる雲となり、風に掻き混ぜられて揮発する。そんな下品な夢を見た。寒気を運ぶ雨粒が過ぎ去って、目に毒な強い日差しが肌色のカーテンを白く染め上げている。決まりきった朝の動作は、起床に伴うストレスをなるべく無くそうとする、人間の知恵であり、僕も例に漏れず眠気眼を抱えたまま、着替えと朝食を取った。玄関で靴を履く頃には、両目ははっきりと開き、首尾一貫した出掛けの挨拶をこなす。


「いってきます」


 水気のはけたコンクリートの地面を生き生きと進む。排水溝の水鏡が照り返す太陽の熱い眼差しに僕はやられつつ、頁をめくれば立ち上がる絵本のように本来の形を取り戻した町並みを享受する。雲間すらないひらけた空に浮かぶ、一段と大きな丸い月の上で鳥がもがく姿を見た。手荷物が一つ減るということは、視界の広がりを意味し、思わず足を止めた。


 とりとめもなく、登校の脇目に空を眺めていると、それは出し抜けに鳥の糞のように降ってきた。


「〜〜」


 直下に耳をそばだてれば、群を成して人の声が降ってきていることに気付く。僕は眉間に力を込めて、上空を凝視する。すると、いくつもの黒い点が、徐に大きく肥大していくのを確認した。それは程なくして、腕が生え始める。次に足が生え、舵をとるようにバタつく。黒かった点は地面に向けて飛来する人の頭だと判った。口を開けて待つことしか出来ず、仁王立ちしていると、ボーリング玉がぶつかり合うような重く鈍い破裂音が後方で聞こえた。右手では、断末魔が地面にこべりつく。降り注ぐ人の雨は、読んで字の如く「阿鼻叫喚」と言って差し支えない。あまりの出来事に呆然とする頭は、スーツ姿の女性が上げた悲鳴によって、今置かれている状況の危うさを認知した。


 慌てて、安全の翼下となる軒下に行こうとすれば、この青空に場違いな折り畳み傘が落ちてきた。茶色い傘だ。落下してきた傘の出所を探ろうと上目遣いした直後、入れ違うようにして茶色いスカートが翻り、頭を掠めた。


「ありがとう」


 昨日聴いたばかりの声が今、聞こえた気がした。下は見なかった。しかし、後ずさると先刻に落ちてきた「何か」に足を取られて、尻餅をつく。見逃すつもりでその場を離れようとすれば、そぞろに目が合った。折れた白い竹が首を裂いて飛び出て、煮えたように赤い泡を吹き上げている。「死」という概念に向かって拙速に行われる筋肉の伸縮は、唇を意味ありげに操った。しっかりと開かれた茶褐色の瞳から、今際の際を覗く。そして、ゆっくりと彼女の瞳が動くのを追った先で、寄せては返す波のように遠ざかっていく満月を目にした。

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