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彼岸よ、ララバイ!  作者: 湯ノ村
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彼岸よ、ララバイ!①

 物が勝手に売れていくことはない。ペンを一本、売るのにも惹句があるように、如何にそれが魅力的であるか、どのようにして訴えられるかで消費者の需要をくすぐる。ただ、どれだけ商品の長所を訴えたところで、身なりが整っていなければ説得力をなくす。いくら食事が簡素であれ、閉め切った寝室の布団から粘土のような臭いが香ろうとも、額を隠さず、仕立てた紺色のスーツとミルクを一滴垂らした淡い緑のネクタイで装い、よく磨かれた革靴を履けば往々に傾聴を授かれるものだ。


 カーテンの隙間から白みが覗き、頭を布団の中に引き込む。もう少しすると、携帯のアラームが鳴って、仕事へ行く準備を始めなければならない。


 夢の中で長広舌を披露したかのように口が渇いている。物で散らかった床の上を暗がりの中、蛇のように縫って歩き洗面所に向かう。起きて眠るまでの行動全てが、習慣化し、蛇口に目を落とさず捻ることも難なく行えた。しかし、洗面台に落ちるはずの水柱がいくら蛇口を捻っても姿を現さない。ふいに洗面台の鏡を見れば、無理難題に苦悶する尋常ならざる表情がそこにはあった。俺は洗面所を出て、雑然とした床の案配など気にも留めず未だアラームが鳴っていない携帯電話を手に取った。そして、一目散に時計の数字を注視する。


 俺は八歳になりたての頃、黄色い軽自動車に撥ねられて死ぬはずだった。教習所の稚拙なシミュレーションに組み込まれた典型的な交通事故を自ら演じ、被害者と加害者の間に賠償金という名の残滓を積み立てる将来が確かにあった。


 その日は風の強い日だった。母親から貰ったお小遣いを握り締め、駄菓子屋へ向かっていた。子どもならではの視野狭窄は、向こう見ずな歩行を誘引し、左右に車が来てないかをまるで確認せず道路を横切ろうとする。悲鳴を上げるタイヤの甲高い音にようやく、首を回す阿呆な子どもも、鳩が豆鉄砲を食らった顔をしていたはずだ。跳ね上がった鼓動の痛みを今でも鮮明に覚えているし、初めて体験したその出来事を境に形而上の存在を意識せざるを得なかった。


 人間が特定の状況に白眉の集中を見せるとき、物事がゆっくりと動いているかのような錯覚に陥ることがある。それはあらゆる場面で伝聞とし伝わり、訊けば誰もが経験する人間の生理のようであった。だが、俺は少し違う。黄色い軽自動車は、鼻先で完全に静止したのだ。治る気配のない動悸を駄菓子屋へ向かう高揚感に組み込むことにより、俺は一歩目を踏み出し、今度こそ道路を渡り切ろうと黄色い軽自動車の前を横切った瞬間、闘牛をひらりと躱したかのように風が尻を掠め通る。一連の様子を母親に嬉々として話せば、頭から怒声を浴びせられ、あえなく反省を促された。それから四年ほどだろうか。想像の中の産物に消化していた上記の出来事を、死を回避するために備わった能力だと悟る凄惨な光景がある。


 私語を慎めと咎められる学生生活に於いて修学旅行という行事は、正した襟を少し崩し、如何わしさに花盛る心をかろうじて抑えつつ過ごす、青春の思い出になる。多幸感に満ち満ちた観光バスは、教室の中より一体感があった。絶えず話し声が往来する忙しなさは寝不足気味だった身体にとって、子守唄と変わらない心地よさを覚える。熟れた果実が枝から落ちるようにうたた寝を打った瞬間、鶴瓶落としに水を打ったような静けさが降って湧いた。あらゆる方向を向いて有機的に動いていた口々が、冷えたスピーカーのように固まった。馬鹿げた感傷に浸るつもりはない。人間が踏み込んでいい領域を超えているのだ。友人一堂に一瞥もくれず俺は観光バスを一人降りた。再び動き出す観光バスの排気ガスを顔に浴びながら、高速道路の路肩にぽつねんと立ち尽くした。

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