目蓋がピリリ⑤
「こういう場合、お寺とか行った方がいいのかな?」
杓子定規な答えではあるものの、提案できる問題の対処として不足はないはずだ。
「寺か……」
自身が体験し、味わった感情の振れ幅と釣り合わない億劫な口ぶりを見せる同居人の思考がまるで理解できない。本来なら、寺へ駆け込むような必死さを、身をやつして見せるべきなのだ。だというのに、まるで掃除がひと段落したのと変わらない緩慢さを、ソファーの上で足を組む事で象った。私は同居人の胸中が甚だ掴みかねた。
「最悪の起き抜けだが、これも飲み会の肴になるかもな」
泡立つ血液が軽く吐いた息を揺らし、爪の間に溜まった赤みは、同居人が必死に取り繕った体面の穴となった。私とのやりとりを成立させる為の虚勢だと把捉すれば私もそれに倣い、出勤を前にした社会人の忙しさなを拵える。
「そうだね。着替えてくるわ」
颯爽と後腐れなく部屋に戻り、寝巻きから社会的体裁を着飾った。
少なくとも、私は規範に則って生きている。起床と就寝を一定のリズムで行い、社会に勤める為の体作りをしてきた。しかしあの男。出勤する私の背後を厚かましくも追ってくるではないか。この世に生まれた以上、すべからく従うべき枠組みがあり、決して蔑ろにはできない指針がある。それを逸脱すれば、「落伍者」という蔑称を授かり、爪弾きにされて当然。
「冗談じゃないよ……」
鬱憤が如何にして溜まるのかを実感する。そして、人は逆らえない力にこそ、理不尽を覚え、嘆くより怒りが湧くそうだ。損ねた機嫌に合わせて歩調は早くなり、慣例化されたバス停までの時間配分を誤った。寒空の下でバスを待つ時間は苦痛に他なく、狂わされた日常がひとえに疎ましい。
教室の外から覗き込むような男の視線が殊更に嫌らしさとなって、私の身体に怖気をもたらす。眉間のシワが深く谷を作ると、バスはバツが悪そうにやってきた。深い溜息も、時間に厳格な社会人の憂鬱な仕草へ姿を変え、乗り込む際の足取りの重さは通勤を嫌悪する諦観に落ち着く。
「……」
私は座席の窓から、男が徒然と立ち尽くす姿を見送った。
昨今はジェンダーレスを謳った特殊な公衆便所がある。個室トイレのみで構成された男女共有の空間は、打算的な理由をもとに建てられたものに過ぎなかったが、皮相な大義を掲げる事で市民の意識向上を狙ったと、新聞の紙面を飾った。そんな公衆便所に吸い込まれるようにして駆け込み、個室便所の扉を開いた。男が立って用を足したであろう痕跡が、便座の位置で判る。私もそそくさと用を済まして、上がっていた便座を下げた。水を流すのとほぼ同時に個室便所を出れば、
「うわ?!」
偶さか鉢合わせた見知らぬ男に声を上げられる。不躾に思いつつも、手を洗いに洗面台に向かう。訝しい視線は、両手に流水を浴びている時にも持続し、暫くすると個室便所の開閉を聴く。私は、荷物を入れた背負い担ぐバッグに手を伸ばす。




