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彼岸よ、ララバイ!  作者: 湯ノ村
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虎視眈々③

 勤務時間はとうに過ぎていた。節々に霜が降り、頭まで被った布団は積雪めいた。立て続けに三度も着信が鳴ると不思議なもので、機械音にも関わらず感情が透けて見えて来る。ただ黙殺を決め込み、手に取ることすら放棄していると、携帯電話は鳴り止んだ。


 窓から労働意欲を投げ捨てたアパートの一室は、独居房に横たわるシジマが鎮座まします。人間らしい営みがやおら失われていく感覚は、焦燥とは無縁の位置にあり、漠然とそこにあった死の形が意思を伴って立ち現れる。何日も洗い流されていない頭皮の脂は酸化して臭いを放ち、湿った毛髪が枕によって整えられる。


 朝方の環境音はひとえに不快だ。通りすがる人間にしらみつぶしに威嚇する身重の雌猫が見せる苛立ちに親近感を覚えた直後、貧相に凹んだ腹の底で腸が一人でにうねる。垂らす糞も抱えず思想の探究すら放棄した今の俺は肉塊と大差ない。徐に近付いてくる死を座視する日々は、冷えた鉄をしがむかのような味気なさだ。


 水さえあれば、人は辛うじて生きていられる。洗面台に顔を突っ込んで蛇口から直接、水を流し込む。頭を傾けただけで目を回してしまう身体の衰弱具合に恐れをなし、いそいそと布団の中へ潜った。今一度考える。俺は何故、このような振る舞い立ちをし、自らを追いやっているのか。いよいよ限界が近付いてきて、原因について考えるときがきた。


 始まりはそうだ。この一室に引っ越した晩、布団に入って寝入ろうとした刹那、額にあの雫が落ちてくる感覚を味わったのだ。俺は雨漏りだと思い、電気を付けて天井の具合を伺った。だがご覧の通り、天井に不具合は見当たらず、釈然としないまま布団に戻る。落ちてくる雫の存在に頭を悩ませていれば、いつの間にか朝を迎えており、一睡も出来ずにバイトの出勤時間を迎えていた。


 ここの大家は一階に住んでいる。還暦を目前に控えているであろう女性とのやりとりは首尾よく行われ、入居までの手続きに全く、問題はなかった。部屋は六畳一間で三点式ユニットバスの日当たりも悪くない角部屋だ。初めに言った通り、一人暮らしに於いて何ら問題はないのだ。しかし、暮らし始めた分かったことがある。予め備え付けられた家具の全てがアパートの外観に似つかわしくないほど綺麗で、まるで前の入居者の気配を根こそぎ消すかのような徹底ぶりだった。


 箪笥に足の指をぶつけた際、俺は気付いた。備え付けの家具の全てが軽微ながら少しずつズレて置かれている。壁掛け時計も同様である。ずっと気分が落ち着かず、形容し難い不満の原因とするには少々、無理があったが考えざるを得ない。今の俺は、手ぐすね引いて待つ思惑を看破する手立てのために目敏くいるべきだ。


 衰弱した足に鞭を打ち、義憤を覚えた背中に通る芯を頼りに辛うじて歩き出すと、玄関の方で物音がした。玄関の右隣には、キッチンが配置されている。食器を洗う際は味気ない磨りガラスを前にすることになり、その磨りガラス越しにインターホンを鳴らそうとする人影を覗けた。今磨りガラスには、蠕動する芋虫のような影が全身に渡って映っており、俺は言葉を失った。


「……」


 耳をそばだててみると、何やらボソボソとした人間の蠢きが聞こえてくる。俺は抜き足を心掛けて玄関の方へ向かう。よりにもよって、この軽い身体がまさか役立つとは思わなかった。ほとんど雑音を出すことなく玄関の前まで辿り着くことができた。


「、キア」


「サタナ」


 それは会話の主たる情報の伝達を一切無視した不可解な単語の連呼であった。数にして五人以上の人間が通路で整然と列を作り、このような行動に赴く道理はどこにある。玄関の扉を一気呵成に開いて叱責するような豪放磊落さもない俺は、恐々と後退りする他なかった。布団に戻ろう。この異様な状況に蓋をしてしまおう。そう思った俺の肩に雫が飛来する。


 怒気を伴って天井を見やれば、獣のような息遣いと暗闇の中を動く正体不明な影の存在に俺は心臓を掴まれた。


「サタナキア」

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