虎視眈々①
築年数でいえば、確かに老齢といえる。しかし、衣食住を脅かすようなアパートの欠陥に立ち合ったことはなく、地団駄を踏んで不満を吐露する作りはしていなかった。だからこそ殊更に俺は今、辺りに憚らず大声を出して訴えたい気分だった。
「この頭に降ってくる雫をどうにかしてくれ!」
もちろん切り分けておすそ分けする訳にもいかないし、愚痴として並べれば唾棄されてしまうはずだ。口外を図り、あろうことか共感を求めれば、辛うじて所持している自尊心はガラス細工のように砕けて散る。「精神疾患」この言葉を嬉々として受け入れるほどの諦観を持ち合わせていないからだ。
カーテンを開ける機会は、ベランダにゴミ袋を投げる以外になくなり、寿命を迎えつつある電球の退廃加減に携帯電話の明かりは刺々しくなり、目蓋が軽く痙攣した。腹鳴に身体を捻られ、不意に壁に掛かった時計に目がいく。一度も触ったことがない壁掛け時計に地震の名残りを見て、尻に火が着いたかのように俺は立ち上がる。自分でも驚いている。ほんの僅かに壁掛け時計が傾いているだけで、眉間にありったけの怒気を込めて床を踏み抜く重さの足音を立てているのだから。何処からか借りてきたとしか思えない感情がみなぎり、傾いた壁掛け時計に手を伸ばす。水平に戻そうと時計を持ち上げると、白い壁紙がチラリと覗く。それは壁紙が元来有していた色に違いなく、俺が見ていた壁の色が瞬く間に古色へ変わった。
眠気を点眼したかのように日がな一日、うつけている。誰かと会話を求めれば毒気を帯びて険悪な雰囲気を作り出してしまいそうだ。そんな予感は図らずも当たってしまう。最も似つかわしくない現場に於いて。
「品出し、頼むよ」
「お前がやれよ」
ガラスに反射する俺の口が動いたのを見た。耳を疑う部落発言に遭ったかのような店長の顔からして、声に出して言ったはずだ。それでも、信じられない。アルバイトの身の上でも、上司に対して不躾な言い回しや態度は社会人として避けるべきである。たとえそれが、殴打で胸のすく人物であっても畏む道理にある。
「今、なんて言った?」
「品出ししてきます」
俺は問答無用でレジを離れて品出しに向かう。取り付く島もなく盲目的に仕事に従事することを寄る辺とし、迸る怒りの気配を背後にすれば、銅像さながらに冷えた身体を玉のような汗が転がった。人間の脳は都合がいい。記憶の改竄は勿論、過度なストレスを排するために五感にも影響を与える。客の出入りをそれとなく認知しつつ、全自動的に手足を甲斐甲斐しく動かす。その間の記憶は曖昧で、与えられた労働時間を黙々とこなしたように思う。気付けば、帰宅する為の自転車を漕いでいた。




