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彼岸よ、ララバイ!  作者: 湯ノ村
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或るアパートにて②

 肩が絞り上がり、髪の毛が逆立つ感覚を覚える。異臭の出所が如何に胡乱な出来事だったかを理解する。だが直ぐに、俺は納得した。あの異臭を管理できるのは、唯一部屋を自由に出入りできる大家による仕業だと仮定するのがもっともだ。酒の肴の干しイカをしがみながら、汗として流れた怖気に別れを告げる。


 履き潰す手前の靴ほど履きやすい靴はない。すんなりと足が入り、靴紐をわざわざ結び直すこともない。ただ、カスタネットさながらに地面を叩く靴底の離れ具合は頂けない。見目も悪く、雨が降った日は泣きを見る。今日はそんな憂鬱な天気模様であった。維持費や燃料費、その他諸々の事情を鑑みたとき、自動車を持つことの意味は大きく異なる。俺の人生にとってそれは負担でしかない。十八歳を折に取得した運転免許証が今や埃をかぶって久しい。自転車移動に付き纏う天候不順には頭を悩まされるし、バイト帰りの降雨は倦怠感がより増す。自宅に辿り着く頃には、それが雨なのか汗なのか、判断が付かないほど濡れそぼつ。


 二階へ続く鉄骨の階段を登るのに、疲労した両足を慮る。顔を上げることすら億劫に思って、顎を僅かにしゃくり上げて睨め上げた。階段を登り終えた直後、空室であるはずの例の部屋から、白髪混じりのほうれい線を深く掘った中年女が出てきた。このアパートの大家である。俺は居住者として礼節を持って接した。しかし大家は、まるで鉢合わせたことによるばつの悪さを隠すかのように、目礼に留めてすれ違っていく。


俺は、友人の伝聞を確認した。表札に名前はなく、郵便受けが白い板によって塞がれている。それは封鎖といって差し支えない。いわゆる事故物件に類される対応を施されていた。一体、何故? 疑問がこんこんと湧いて止まらず、俺は部屋に駆け込んだ。水を蹴るように靴を脱ぎ捨てて、廊下から居間までの間を早足で通り抜ける。同居人の機嫌などなりふり構わずベランダまで一目散に向かった。降りしきる雨粒に頬を濡らしながら、薄い衝立の向こうに耳を傾けた。あの低音は聞こえてこない。俺は煙草に火を付けて、雑然とまとまらない頭を燻して窒息させる。


 一度亀裂の入った関係を修復するのはなかなか難しい。趣向の差違から始まり、それが嫌悪に終わる。部屋を出て行くまで時間はそう掛からなかった。だが、かえって都合が良かった。あの開かずの間に振り回される生活なんて御免だ。


「忘れ物よ」


 同居人がそういって差し出した煙草の空箱を、俺は喜んで受け取った。

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