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彼岸よ、ララバイ!  作者: 湯ノ村
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藁にもすがる

 まことに珍妙な景色だ。鄙陋にも中年男が日光浴をする姿と重なりつつも、川の土手に壁のような人垣が形成された。事の始まりは、まことしやかに囁かれた伝聞からである。子どもの好奇心が伝聞を見聞に変え、地元の女子高生が自転車を転がして謁見する。そして、ソーシャルメディアに動画を拡散するのである。「アザラシ参上!」そんな馬鹿げた題名で。


 テレビカメラは宝石でも写すかのように川面にアザラシの顔を探し、人々は目を皿のようにする。はっきりいって、日がな一日そこに張り付いても、徒労に終わるのが常だ。アザラシがいつどのようにして現れるか。砂を噛むような時間の潰し方を出来るのは、筋金入りの野次馬根性の持ち主か、子どもの飽くなき好奇心であろう。呼び掛けに応じて欲しいという利己的な理由で、人々はアザラシに愛称を授けた。「ジンブン」だ。


「やめなさい!」


 買い物帰りの親子の間に怒気が雷のように走った。子どもは原因を把捉できずにいて、酷く困惑した顔をする。安全を思って繋がれた手の力に怒りが込められていると見紛う子どもは、親の横顔をおずおずと覗く。


「あの川は怖いのよ。絶対に近づいたりしないで」


 親が怒気を飛ばす前、子どもはアザラシの愛称を呼んだ。鋭敏に反応する親の姿を癇癪と一言にまとめてしまうのは、あまりに朴念仁だ。


 今より昔、市域におよそ千万戸の家があり、その八割が一夜にして消失した。空襲である。二百三十名もの死者数が出たことが報告される。しかしそんな憐憫な記録も、年月を経れば数字を追うだけの空虚な伝来となる。次代へ悍ましさを伝えるためには、川に逃れた住民が火の手によって蓋をされ、溺死したことすら伝聞しなければならない。だが上記のような生々しい事物がありながらも、夏になれば、子ども達は水遊びに出かける。水難事故は付き物だ。メディアがめざとく報道すればするほど、花火や夏祭りの類いのように扱って悼むことがない。それでも、人文川で起きる水難事故は特別な意味を持った。親は必ず「川へ行くな」と、呪詛さながらに子どもに吹き込む。しかしながら、人文川に人は押し寄せ、黄色い歓声が上がる度に近隣住民は揃って眉をひそめた。


「おい、あれ! 中洲に上がるぞ」


 まるでこの町のモニュメントのような扱いだ。アザラシが川面から顔を出すと、見物客の視線は一点に集まる。アザラシを見ることは難しくはない。動物園に行けばいいのだ。しかし、市街地の川にアザラシが現れる物珍しさは、動物園でカメラを向けるより遥かに有意義に感じる。友人を連れてアザラシを見に来た男は、中洲に上がったアザラシを携帯のカメラを介してまじまじと注視する。


 アザラシの安全に配慮し、川辺に入らぬよう注意が野次馬たちに行き届いていた。一様に土手から見下ろしながら、アザラシの表情を拝もうとカメラの倍率を上げる。遠目には分からなかったアザラシの灰色の体躯には濃淡があり、無数の幾何学模様が伺える。男はアザラシの表情を忘失して、模様の形を追った。


「……」


 もはやコンクリートの地面と遜色ない距離まで寄った携帯電話の画面には、五つに股割れした紅葉模様がアザラシの体躯全体に広がっているのが解った。男は眼鏡を外すかのように、拡大されて映されるアザラシの姿を差し置いて、肉眼で見下ろした。中洲に上がっていたアザラシが転がるようにして川の中へ消えると、水族館のショーに送る拍手めいた歓声が上がった。その後、アザラシが再び川面から顔を出すことはなくなった。

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