自衛隊怪談「ドレミファソラシド」
私が自衛隊にいた頃に体験した怖い話です。
私は10年間ほど陸上自衛隊で自衛隊員として勤務していました。
自衛隊には陸、海、空に関わらず「当直勤務」という仕事が存在します。
当直勤務というのは幹部隊員と若手・中堅クラスの隊員の2名1組が1週間ほど駐屯地に泊まり込み不測事態の対処や電話対応をするというのが主な仕事内容なのですが、その中には「巡察」という仕事も含まれていました。
巡察とは駐屯地内の決められた区域の見回りをするという簡潔に説明するとビルの夜間警備員のような仕事です。
巡察は大体が夜遅くの決められた時間に若手・中堅クラスの隊員が行くのが通例でした。
自衛隊に入隊して6年ほど経ったある日、私は当直勤務に就いていました。
その頃の私はデスクワークを始めたばかりで慣れないパソコン操作に苦しみながら当直勤務の合間にたまっていた仕事を片付けようと奮闘していました。
他の隊員は全員帰ってしまい誰もいない夜の事務室で一人キーボードを叩いていると一緒に当直勤務に就いていた上官が事務室入り口前の廊下から私を見て驚いた表情を浮かべ自分の腕時計と私の顔を交互に見つめながら
「アレ?巡察もう終わったの?」
上官からのその一言に私は腹の底が冷えた感覚に襲われました。
すぐさま事務室にかかった壁時計に目をやると時計の針は0時10分を指している。
その日の見回りは0時から開始しなくてはならなかったのに私は目の前の仕事に集中するあまり巡察の時間を10分も過ぎてしまったのです。
「すいません!今から行きます!」
慌てて席を立ってドタバタと準備をする私に上官は優しくなだめるような口調で
「いいから仕事してなよ。 俺が行ってくるから大丈夫だよ」
そう言うと上官は廊下を歩いて巡察に行ってしまいした。
私は自分の不注意と本来なら若手の仕事である巡察に上官を行かせてしまったという申し訳ない気持ちから自責の念を感じていましたが、ここは上官の心遣いに甘えて少しでも早く仕事を終わらせようと体をパソコンに向かい直して再びキーボードを叩きました。
パソコンに集中して10分ほど経ったころ、タンタンタン!と廊下を走っているような音が聞こえたかと思うと同時に巡察に行った上官が事務室前の廊下を走っていくのが見えました。
なんだ?と思う間も無く上官が事務室内に飛び込んで私の机の前に来ると大きく深呼吸を始めました。
血相を変えた上官の両手には「マグライト」が握られていました。
何事か?と聞く間も無く上官は私に片方のマグライトを押しつけるように渡すと息を切らしながら
「すぐに屋上に向かう階段まで来てくれ」
と言い残し事務室を飛び出していきました。
そのとき大変なことが起きていると思いました。
というのも上官が私に渡した「マグライト」というのは半分が武器のようなライトなのです。
映画等でアメリカの警官や機動隊が腰から下げている取っ手が太くて長い重厚な作りのライト。
小さいライトならいくらでもあるのに何故あんなにも不必要に大きく重い造りなのか。
その理由はライトを使用中に急に暴漢に襲われた際、そのまま相手を叩き伏せることができるようにするためそのような大きく重い造りになっているからです。
つまり警棒とライトが一緒になっているような造りのライトなのです。
そんなマグライトを非常に慌てた様子で渡されたので私は状況が飲み込めないながらも急いで上官の後を追うように事務室を飛び出し階段を駆け上り廊下を走って屋上に向かう階段の下まで走りました。
私が到着すると上官は屋上に向かう階段を見つめたまま立っていました。
「どうしたんですか?何があったんですか?」
私の問いかけにも反応せずに上官は強ばった表情で階段の上を睨みつけるように見ていました。
私が再び声をかけようとした瞬間こちらをグッと振り返って
「スマン、俺の勘違いだった」
と言って私の肩に手をやると今きた道を戻るようにして歩きはじめました。
私は何があったか分からないまま、しかし上官の青ざめた顔色とその場の雰囲気に気圧されて何も聞けないまま一緒になってその場を後にしました。
翌日、当直勤務が終わる日の朝、私は上官に昨日は何があったのかをあらためて聞きました。
上官は小さなため息をつくと実は…と話してくれましたが内容は信じがたいものでした。
私の代わりに巡察に出た上官はその日の巡察担当区域であり勤務場所でもある4階建ての建物を私たちの事務室がある2階から見回り、1階、3階、4階と見て回りました。
2階に私たち当直勤務者がいる以外その建物には人がいる部屋は無かったので上官は長くて暗い廊下を手持ちの小さなライトを頼りに歩いていきました。
そして最上階である4階を見回っていたときかすかに音がするのに気づきました。
聴いた覚えのあるリズム、人の声なのか、楽器の音色なのかそのときはまだ分からなかったそうです。
上官は音の正体を明かそうと音のする方へと歩いていきました。
しばらく歩くと音が鮮明に聴こえてくるようになりました。
そのときそれは音ではなく女性の歌声だと分かりました。
「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド、ド・シ・ラ・ソ・ファ・ミ・レ・ド」
リズムはあるが抑揚も無く少しか細いけれども力強い歌声でそれは繰り返し響いていました。
上官はそれが携帯電話の着信音だと思ったそうです。
忘れたケータイを無くしたと勘違いして持ち主が自分のケータイにかけているのだろう。
早く見つけて電話に出てここにあることを伝えなくては、と上官は歌声のする方へ歩みを進めました。
しばらく歌を追って歩くと屋上に向かう階段の前で歌声が鮮明に聞こえてくるのが分かりました。
携帯電話は屋上にあるのかも。
上官は階段を上がり屋上に出るドアの前まで進みました。
さらに歌声が大きくなったのを感じ、予想が確信に変わります。
屋上のカギは夕方5時を過ぎると閉められていましたが、ちょうど当直勤務者が屋上のカギを持っていましたので上官はドアノブにカギを差し込み回しました。
カギをひねり、ドアノブを握って屋上に一歩踏み出した瞬間……「ドレミファソラシド、ドシラソファミレ……」まで聞こえて耳元で
「ド!」
息遣いも声も確実に耳元で聞こえたそうです。
上官はその瞬間パニックになり階段を転がり落ちるように駆け降りながら私のいる2階の事務室に逃げ込んですぐさま私を呼んだそうです。
「そんなことがあったんですか」と感心していた聞いていましたが実際に見たわけではなく、そのときはまだ半信半疑でしたのですぐに気になっていたことを聞きました。
「なぜ私を呼んだにも関わらず屋上まで上がって見に行かなかったのか」と。
2人で行けば怖くなかったんじゃないですか?
もしかしたらタチの悪いイタズラだったのかもしれませんよ?
そう言う私の言葉を遮るように「アレはイタズラなんかじゃなかった」と首を振りながら言うと続けて私に「だってお前は聞こえてなかったんだろ?」と聞いてきました。
何がです?と返す私に
「お前が屋上に向かう階段の下に着いた途端にな、歌が変わったんだよ」
上官によると今まで抑揚の無い女性一人の声でドレミファソラシド、ドシラソファミレドと聞こえていたのですが私が屋上に向かう階段の下に着いた瞬間、男女入り乱れた大勢の声で
「ど・ち・ら・に・し・よ・う・か・な!」
と鳴り響いたそうです。
私にはまったく聞こえている様子がなかったので上官はこれはイタズラなどではない、と思い屋上に行くことをやめたそうです。
あのとき、もし我々2人が屋上まで上がっていたらどちらかがどうにかなってしまっていたのか…今となっては分かりません。
「駐屯地ではたまにそういう不思議なことが起こるんだ」
そう言って上官は缶コーヒーを私の手に握らせると自らの持ち場に戻ってしまいました。