はじまり1-1
どうすべきか迷っていると、男子は手招きしてきた。どうやら近くに来いと言いたいらしい。
少し迷ったが、荷物を持って窓辺の席まで移動した。
「窓開けて」
ニカっと笑いながら、仲のいい友人のように話しかけてくる。言われるまま、窓を開ける。
「ええっと……ごめんなさい、見覚えはあるんだけど名前、思い出せなくて」
未来は素直に伝える。
すると男子は楽しそうな笑顔を浮かべた。
「俺は山里一馬!」
「やまさとくん……?私は」
「須田未来、だろ?」
「え、うん。どこかで話したかな」
未来は焦ったように聞く。覚えている限り、一馬と話した記憶はない。
「話したの初めてじゃない。何度か授業で隣同士になってちょっと話した程度だけど」
それで見覚えがあったのか、と未来は納得する。
あれ?でも名乗ったっけ……?
「私、山里くんに名前言ったかなぁ?」
「一馬でいいよ。名乗ってませーん。俺がこの子誰?って他の奴に聞いた」
ニコニコと笑いながら、一馬は楽しそうに話す。いかにも今時の大学生という感じで、ちょっと癖のある、明るいブラウンに染めた髪もよく似合っている。顔立ちも整っていて、愛花のようにモテそうだ。
「あ、引いた?」
「ううん、引いてないよ、黙っちゃってごめんね」
観察に気を取られて、黙ってしまっていた。一馬は名前を知っていたことで、未来が引いたのではと心配したようだ。
「焦ったー、引かれてたらどうしようって」
爽やかに笑う人だ。それにどこか、外見のような派手さのない、さっぱりとした性格のように感じる。未来からしてみれば、話しやすい部類には入るが、つい視線を逸らしてしまう。
過去の事もあり、男性に少なからずとも恐怖心があるのだ。その事を悟られまいと、笑顔を作る。
「えへへー、ごめんなさい。そういえば、こんな時間にどうしたの?食堂はもう閉まるよ?」
「それはこっちの台詞!こんな時間まで1人で何してるんだろうって思ってさ」
「それで声をかけてくれたんだね」
「そりゃ気になる子だもん」
「え、私そんなに変?」
「え、そう来る?」
一馬はちょっと困ったような笑みになった。
「ええっと、私よく変なこと言うって言われるから」
お互いの間にほんの一瞬、気まづい空気が流れる。
「あのさ」
「うん?」
「名前で呼んでもいい?」
「うん、私もそうさせてもらっているし」
瞬時に空気を切り替えた一馬に感謝しつつ、未来はまた笑顔を作る。
一馬から静かに笑みが消えた。
「なぁ、その笑顔、辛くない?」
「え……?」
一馬の言葉は未来が無理をしているのを見抜いている。未来は僅かだが、動揺してしまった。その僅かな変化を、一馬は見逃さない。
「やっぱなー、いっつもニコニコしてるけどさ。1人でいる時とか、たまにさっきみたいな目になる。それ作り笑顔だろ?」
「そんな事ないよ、一馬君とお話しするのが楽しいから笑ってるんだよ?」
これ以上、踏み込ませないために一線を引いた未来だったが、呆気なくその線は踏み越えられてしまった。
「……それが、素のミライなんじゃないの」
「な、なにし……」
未来はみるみるうちに頬を赤く染めていく。当然だ、突然キスされたのだから。
当の一馬は先ほどまでの笑顔に戻っている。少なからず、未来にはそう見えている。
やばい何やってるんだよ俺ー?!
未来はどうやらキスをされた事実で、相当混乱しているらしく気付いていない。だが、はたから見れば、一馬も耳まで赤くなっている。
ちょっと声をかけて、知り合いになれれば、くらいのつもりだった。
半年ほど前、授業中に一馬は居眠りをしていた。授業が退屈だったからだ。授業も半ばに差し掛かった頃だろうか。何かで頬を突かれた。気持ちのいい眠りを妨げられ、ぼうっとした目で突かれた方を見れば、穏やかに笑う女生徒。
何度か同じ授業で隣席になったことがある、あまり印象に残ってはいなかったが。
「ここ、ノートに残しておかないとテスト範囲だよ」
周りに気づかれないよう、小さな声で彼女は話しかけてきた。その時の笑顔が愛らしくて、以来ずっと、声をかけるタイミングを探していたのだ。
友人達から情報を得て名前を知った。同じ授業の時は出来るだけ隣席を取った。
一馬は半年前のあの一瞬、未来が見せた笑顔に恋心を抱いたのだ。女友達は多いので、すぐに仲良くなれるだろうと思っていたのだが……
いざ気になる女子ともなると、声をかける勇気すら出なかった。
今日はたまたまサークルが休みで、食堂の近くの自販機で飲み物でも飲んで帰ろうと思っていたら、その食堂に未来がいたのだ。
以前から時々、彼女が見せる暗い表情が気になっていたのは事実。
だからといって、ここまで踏み込むつもりはなかった。
「ごめん、その」
「あの、買い物に行かなきゃいけなくて!さよなら!」
ばたばたと、荷物を持って走っていく背中に、声をかける事はできなかった。
「なにやってんだよ、俺マジでサイテーじゃん……」
その場にしゃがみ込み、髪をぐしゃぐしゃになるまでかき乱す。
一馬は暫くの間、その場から動けずにいた。