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白い夏の話

作者: 佐井原 景





     *   *   *


『みていたひと』


 けたたましく降ってくるセミの声が、踏みしめられた砂地を更に固くしようと殴りつけていた。申し訳程度に植えられた木々にしがみついているにしては、なかなかの大合唱だ。太陽は南中を少し越えたばかりである。

 昼食時であるからか、それとも限界まで熱せられた遊具の危険性を知ってのことか、人の姿は見当たらない。この公園で子供達が駆け始めるのはもう少々先の時刻になるだろう。セミの声も、その時間帯は更にやかましい。

 照りつける陽射しのせいで、公園の砂地は目を潰さんばかりに真っ白だった。

 ――恐らくは、それに眩んだのではないだろうか。

 おぼつかない足取りで走ってきた少年は、ぶらんこの横に据えられたベンチにたどり着くや否や、それを支えにしゃがみ込んだ。じゅうと音を立てそうに熱せられているベンチであろうとも、今の彼にとっては希少な休憩所であったのだろう。

 激しく肩を上下させ、酸素を補おうとしているが、今はそれすら熱波であろうと察せられた。

 セミの声は、彼のまだ薄い背中をも殴りつけている。


 不意に、ぶらんこに座っていた女性が立ち上がった。

 彼女は日傘を差していた。

 半身を覆うような白い日傘。ふわりと広がる白いシフォンのスカート。あまりに真っ白で、公園にいたことすら悟らせなかった彼女は、セミの声と陽射しとをやわらかに払いのけながら、ほんの二、三歩で少年に近付いた。

 背丈から見れば、少年と同じくらいの年頃の少女なのかもしれない。身を屈めたその少女の日傘が、容赦なく照りつける日差しから少年を閉ざす。

 気遣わしげな仕草は、彼女の心根を表しているようだ。

 何とはなしにほっとして、その光景をブラインドでようやく閉ざす。オフィスの薄っぺらな窓ガラスで跳ねていたセミの合唱も、これで少しは収まるだろう。

 三十秒ばかり気をとられていたが、さて、仕事に戻らなくては。


   *   *   *


『きめたひと』


 アブラゼミの声が近付いてきたことに、僕は内心ほっとした。この辺りの街路樹は数年前に一気に植えられたものらしく、アブラゼミが鳴いているのはもっぱら公園の中だけだからだ。自分で目標地点に設定したのだから、せめて、そこまでは足を止めたくなかった。あの公園には、確か水道があることだし。

 レンガの歩道に足を打ち付けるたびに、骨まで届きそうな熱さと衝撃がある。思い立ったが吉日、とは言うけど、せめてもう少し靴を選ぶべきだったかもしれない。ぐっと顎を上げたまま、前方を見据える。公園は陽炎のずっと向こう側だ。道端の古びた自販機を横目に、未練がましく通り過ぎる。ペットボトルの一本か、そうでなくとも小銭の数枚は持って来ればよかった。

 歩道に描かれた幾何学模様も、もう頭に入ってこない。揺らめいて、真っ白だ。日光を吸い込んだアスファルトも、もともとは黒いはずなのに白く見える。平日昼間で車通りも少ない。単調。白い視界。ゆらゆらと、まるで水槽を透かしたみたいだ。

 公園に着いた瞬間、僕の視野は本能的に限界まで広がった。一番涼しいベンチ、一番座り心地のいいベンチ、一番近いベンチ。脳裏に閃いた三択。考える前に答えを選んだのは、脳ミソじゃなくて体だった。

 公園に入ってすぐ、ブランコの横の、どこにでもあるプラスチックの青いベンチ。今は日光に焼かれていても、あと少しすれば近くの藤棚が影を分けてくれることを僕は知っている。ただし座り心地は最低の極みだ。僕は地面に膝をつき、ベンチに腕を敷いて頭を載せた。流れてくる汗が目に入らないように、きつくまぶたを閉じる。

 ぱたっ、と、髪の先から水滴が落ちる小さな音。

 一度足を止めてしまうと、途端に体がきしみだした。じくじく痛む足、上下する肩、熱を帯びた空気に喉が焼けてくる。水が欲しい。酷い耳鳴り。どっと噴出した汗も、風が無くては不快なばかりだ。水を探さなくては。

 それでも、ここと決めてしまった僕は動けない。

 目は閉じているはずなのに、まぶたの裏側が真っ白で、その上陽炎のようにぐらぐら揺れる。ヤバい。ヤバい。ヤバい、やばい、やばい……

 水が、欲しい。


 白い。


   *   *   *


『       』


 蝉は七年を地中で過ごし、夏の盛りに樹上に現れ、七日間の恋をする――そういった表現をお好みの方がいらっしゃるのでしたら、申し訳ありません。

 私はその叙情的な一節の裏側に、だから蝉は「あはれな存在」であるのだという、憐憫の押し付けを感じるのです。

 だって、蝉は七年も生きるではありませんか。越冬できる昆虫なのです。それも、幾年も。蝉の中にはもっとずっと長い月日を地中で生きるものもいます。きっとそれは、彼らが生き続けるための、極めて優秀な方法です。彼らという種が選んだシステムなのです。

 蝉の何があわれだと言うのでしょうか。

 白雪の降り積もる地上の冬の美しさを知らないことでしょうか。暗く湿った地下の世界しか知らずに生きてきたことでしょうか。それならば、もっとずっと多くの生物がその憐憫の中に括られてしかるべきです。

 それとも、暖かく柔らかな地中から、太陽の照りつける地上へと繰り出さねばならないからでしょうか。

 ……でもそれは、人類とて、いえ、他の生物とて変わらぬ境遇なのではありませんか。

 ええ、私が感じているのは、むしろ共感に近いのかもしれません。こうして日傘で覆っていないと、私の身体は彼らの呼び声に応えて融解してしまうでしょう。

 彼らが空っぽの腹から響かせるらしい「オト」というものは、私の骨のいくつかをびりびりと揺らすのです。「オト」というものを知覚出来ない私にも呼びかけてくるそれを、きっと皆は「声」と呼ぶのでしょう。

 白い砂地にぽつぽつと開いている穴は、彼らがかつて地中に暮らした証です。つま先のそれをじっと見つめていると、白い砂粒のいくつかがちらちらとその穴に零れ落ちてゆきました。

 顔を上げると、男の子が一人、ベンチに突っ伏していました。肩を上下させる様子を見ると、ここまで走ってきたのでしょうか。ベンチとは座るものだと思っていたので、頭を載せている人を見るのは初めてでした。

 日傘を持ったまま、彼の方に向かいます。蝉の声はびりびりと私を引き止めますが、ほんの二歩か三歩のことでした。

 男の子に日傘を差しかけます。

 彼は顔を上げません。ただ、とても苦しそうに呼吸をしている様子だけは見て取れて、首筋に浮かんだ汗の玉が青いベンチに滴ってゆきました。Tシャツの背中にも大きなしみが出来ていて、髪も雨を浴びたように濡れています。

 汗。このシステムの不条理さに、私はいつも首を傾げます。なぜ我々ヒトは、このような形で体温調節をするのでしょうか。これほどまでに全身から発汗する動物は他にいません。馬くらいでしょうか。汗は確かに体温の調節を行いますが、全身の水分やミネラルと引き換えにするというのはあまりにお粗末です。

 そう、それに、人間はビタミンCさえ自身の体内で合成することが出来ません。こんなに不出来な進化を遂げた生物が、知恵を得て、蝉をあわれむなど、やはり、どこかおかしいのではないでしょうか。

 そんなことをつらつらと考えているうちに、男の子の肩の上下は次第に緩やかになってゆきました。

 三分ばかりもそうして日傘を差し掛けていましたが、もう大丈夫なのでしょう。日に焼け真っ赤になっている首筋からは、すっかり汗が引いています。そこから滴った汗の玉は、青いベンチにうっすらと、(えん)の跡を残していました。それでもまだ疲れているのか、それとも眠ってしまったのかは分かりませんが、彼は顔を上げません。

 ――もし、です。

 もし、男の子が不意に顔を上げて、こちらに向けて何か「コトバ」を発したりしたら、と……そう思うことは、私をひどく不安にさせました。

 だって、そうでしょう。

 だって、私は、その「コエ」を――

 私は、どんな種類であれ、ファースト・コンタクトが得意ではありません。


 屈んでいた膝を伸ばし、日傘を持ち直します。蝉の呼び声に震える骨を宥めながら、白い砂地に残る小さな穴を踏みつけて、私は歩き出しました。

 もう、バスが来る時間です。




 白く揺らぐ夏をお好みの方がいらっしゃるのでしたら、申し訳ありません。


 私はそのまばゆさに、痛みばかりを感じるのです。







                          ――了.

一人称の実験です。

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