プロローグ
刹那ーー凄まじい衝撃音が轟く
避難している時の事だった。車内から数メートルの高さまで放り出された人が一人、そしてまた一人。宙を舞ってから、道路沿いの草むらに強く打ち付けられた。
男女二人とも鈍い音で地面に衝突したため、受け身は取れていない。武術の熟練者でも、そうそう受け身を取ることは出来ないだろうと思うほど、それほど突然の事だった。
暫くして、うつ伏せで倒れていた人の指がピクッと動く。どうやら彼、霧島仁は意識が戻ったようだ。
「あっ、はぁ......何だ? ッ! 痛ってぇ」
全身を打撲したらしく左腕しか、まともに動かせないようだ。
地面に叩きつけられた時の衝撃を、地に生えていた雑草が和らげてくれたのだろう。だがもしこれがコンクリートのような硬い地面であった場合、どうなっていたかは容易に想像がつく。飛ばされ、落ちた先が道路沿いの草原だった事は、不幸中の幸いだろう。
「あれっ......俺、車に乗ってて......避難してたんじゃないのか?」
何が起きたのか分からず混乱しているのか、顔に手を当てたまま動きがない。しかし意識がハッキリしてくるに連れて聴覚、嗅覚などの五感もその機能を果たすために一斉に働き出す。
そしてまず聴覚、次に嗅覚が異常を捉える。
「何だこの音? それに......すげぇ鉄臭い」
地べたに付いていた顔をゆっくり上げていくと、その異常の正体がジンの網膜に映し出された。
「何だよ......あれ」
十メートル程先の道路にいたもの、それは彼にとって見た事も聞いた事もない全身真っ黒な、化け物と形容するほかない容姿をした生物だった。
ヒトと同じような骨格で、大人の身長の二倍はあるであろうガタイの良い筋肉質な体は、どんな物でも軽く捻り潰してしまうのではないかと思うほど圧巻だった。
禍々しいオーラを放つ化け物の、頭部であろう部分に髪は生えてなく顔に目や鼻、耳も付いていない。その変わり、顔の横まで裂けている大きな口が強く強調されていた。
そして何かを口に運び食している。そう、異常だと感じたあの音は、咀嚼音だった。人間ならばまず出ないであろう程の、とても大きな咀嚼音。それを可能にしているのは、あの大きな口のおかげだろう。
それから黒い化け物の足元に横たわっていたのは、ジンの両親。左手で彼らの体から強引に肉塊をむしり取ってそれを食べながら、今度は右手で人肉をむしり取っては食べる、を繰り返していた。
「おいっ......何だよ......何で母さんと父さんを喰ってんだよ!」
悲哀と怒気が入り混じったような声でジンは嘆くが、黒い巨体はそんな事は御構い無しに、人肉を貪り続ける。
ジンの母さんの顔は血塗れで、白目を剥きながらジンの方を向いていた。父さんの顔も同様血に塗れており、生前の顔を想像できない程に大きくひしゃげてしまっている。
鼻が曲がるほどの強烈な鉄臭さの正体、それは両親の血だった。二人の人体を穿り、内臓やら手足やらから漏れ出た血液の量は想像を絶する。両親を喰らう者の周囲は血の海と化していた。こんなにもヒトの体には血が詰まっているのかと、目を疑うほどだ。
化け物のすぐ横には、相対的に見ると小さくて貧弱そうに見えてしまう青い軽の車が横転している。両親が愛用していた車だが、今はあちこちが、鮮血で真紅に染まり、フロントではなく車体の側面が大破していて、見るも無残な状態だ。
そんな、夢であるなら今すぐにでも醒めて欲しい状況にあるジンだが、そんな彼の目には涙が浮かび、同時に殺意に満ちた険しい目つきをしていた。表情は恨みと憎しみによって、激しく歪み、奥歯が噛み砕けるのではないかと思うほど、歯を強く噛み締めている。
だが急に、何か大事な事を思い出したかのようにジンは辺りを見回し始めた。
「真理!」
痛むであろう首を必死に動かし発見したのは、妹のマリ。小声は届きそうにないが、歩けば直ぐに着くであろう距離。
その道のりを何とか動かせる左腕のみを使い、這い寄った。そしてマリの元までやっとの思いで辿り着く。極力、化け物に注意を払いながら這い寄っていたが、見つかる心配は無かっただろう。喰らう事に夢中な化け物は、ジンに対し完全に無関心のようだ。
「マリ! 大丈夫か......マリ!」
気を失っているが、息はしているため命はある。
「良かった......無事で本当に良かった」
安堵するのも束の間、ジンが妹を助けるためには今すぐこの場を離れる必要があった。いつあの化け物がジン達に気づき、襲ってくるかも分からないこの場所に留まる事は死を意味する。
しかしジンは、全身を負傷しているため妹を背負って逃げることは出来なかった。だからと言って猟銃やナイフを所持しているわけも無く、現状ここに留まる以外に取れる選択肢が無い彼らの状況は絶体絶命。
仮に火器があったとしても、ジンは怪我を負っているため満足に使う事も出来ないであろう。もっとも、野生動物であったなら、ごく僅かだが勝機があったかもしれない。が、あの化け物にそのような武器が通用するとは思えない。どちらにせよ絶望の淵に立たされている事に変わりは無かった。
「マリっ......お前だけでも助けたい。でも俺には無理かもしれない。ごめん......マリ」
妹に涙声でそう告げるが反応は無い。空虚な空間に響いて消える虚しい音吐。
化け物はあと少しでジンの両親を全て食べきろうとしていた。残るは頭部のみになり、ジンはそれをただジッと見ているしかなかった。
黒い化け物は上を向き、両手に持ったジンの両親の頭部を二つ一緒に口に詰め込むと、それを丸呑みにした。喉が膨らみ食道を通っていく様が見て取れる。
それでもジンはただただ、見続けた。自分の両親の最後の様を。
そしてジンは、もしかしたら気づかれず助かるかも、との考えが頭を過った。絶望的な状況にも関わらず、楽観的な思考をしてしまうのは人間の性なのだろうか。
だが全てを食べ終えた化け物は「次の獲物はお前だ」と言わんばかりにジンの方を向き、口角を持ち上げニヤリと不気味な笑みをこぼす。
諦観ながらも抱いていた、気づかれないかも、という期待は早くも散った。
「ははっ......そうだよな」
痛む体を無理やり動かし、ジンはマリを自分の身に引き寄せギュッと抱きしめる。とても大事な者を守るように。
それからジンは目を瞑り、マリを懐抱したまま己の最後を待つ。
ーーそして化け物の吐息がジンの脚に掛かった時、彼は極度の緊張と恐怖により気を失った。
初心者ですので拙い所はご了承ください。読んでいただきありがとうございます。