8.
さながら不発弾のような様相で地面に埋没するそれを、半ば瞑目するような表情で枝折は見下ろしていた。
剥がれ落ちた表装の断片には、『サファイア・ベール社』という企業のロゴがプリントされている。
ポップなテイストで、だからこそ屈辱的に。
……まるで、家畜の烙印のように。
震える唇を硬く結び直し、青年は腰のデバイスから魔導書を引き抜いた。
腕が人間のものへと戻る。ひとりでに浮き上がった本は、人間の形を傍らに精製した。
それは、シェルフの姿だった。
〈あなた……様は……〉
たたずむ彼女に反応するかのように、足下の怪鳥ロルクロヌスは今際の際に理性を取り戻し、おもむろに口をきいた。
うなずく彼女の姿が淡い光に覆われ、その輪郭がひとまわりほど膨れ上がって、外骨格のようなものを形成した。
鳳と見まごうほどに洗練された白銀の装甲を鎧った『彼女』は、燃えるように強く輝くオレンジの瞳で同胞を見つめたまま、膝を落とした。
〈おお、やはり……『飛将軍』シェルフィード様……我が、いとしき御主! 生きて……おられた……!〉
熱情にノイズ混じりの声をうるませ、切羽詰まった調子で、彼は続けた。
〈申し訳、ありませぬ……! かくも醜き姿をさらした挙句、その後始末までさせてしまい……〉
気力と発声器官を振り絞って懺悔を告げるロルクロヌスに、荘厳な猛禽のマスク越しに、ふわりと微笑む気配を枝折は感じた。
「気にするな。……眠れ、友よ」
そして彼女は、威厳と尊厳に満ちた声とともに、彼の鼻先へとやさしく触れた。
赦しの言葉を得たかのように、安息がこぼれ落ちる。
きしむ音を立てながら、その首がわずかに枝折の方へと向けられた。
〈そこにいるのは……枝折、文弥か?〉
「あぁ」
〈貴殿にも、迷惑をかけたようだな〉
「そうだな。久々に骨が折れた」
比喩とも事実ともとれる物言いで返せば、軽やかな笑い声が返ってくる。
〈ありがとう。最期の一戦が、貴殿でよかった〉
漏れ聞こえていたわずかな呼吸音が、完全に途絶えた。
その機体が自壊しながら塵へと返り、風に乗って流れていく。
あとに遺されたのは、無数のチューブにつながれ、基盤にくくりつけられた隼の書。
その歴史も、そこに宿っていた人格もまるで尊重しない、乱雑な配線。適当に油性マジックで書いた、改造した本人らしき英字のサイン。
それら枝折はその人間のおぞましさを感じ取り、同時に怒りをおぼえた。
拳を握り固める彼の周囲で、撃鉄や安全装置を起こす音が複数聞こえた。
見れば散っていたはずの兵士たちに加え、書徒の誘導に当たっていた部隊までが駆けつけて、それぞれに銃器を構えている。
ただしその手は、小刻みに揺れていた。
彼らの障害は排除したのだが、まるで今度は枝折たちが新たなる脅威だと言わんばかりに敵意を注いでいた。
「今の私は、とても機嫌が悪い」
人間の悪意によって変わり果てた朋友の『亡骸』を拾い上げ、ゆったりと白銀の魔人は立ち上がった。
自身の前置きどおりに怒気を双肩から立ちのぼらせ、それを周囲へと浴びせた。
「この形態にセーフティロックがかかるまで残り三十秒程度。……その間、無思慮に銃を向ける恥知らずどもの首がいくつ飛ばせるか見ものだな……なぁ!?」
挑発と恫喝を兼ねた低い音声は、周囲にたむろする彼らに少なくない同様を与えた。
場に緊張感がはしるなか、枝折がとるべき行動はひとつだった。
ぽん
と、シェルフの後頭部をはたく。
反応はない。そのまま背後から彼女の頭部を抱きすくめ、自分の腕の間に挟み込む。抵抗はない。つづけて、細かな羽飾りがついた頭を撫でまわす。
あっけにとられる兵隊たちの環視のなか、枝折はまるで大型犬でも手慰みにするかのように、真顔で彼女を撫で続けた。
いつしかざらざらとした鉄の手触りは、絹糸の触感へと変化する。
腕のなかに収まっていたのはいかつめしい鳥人などではなく、目力は強いが可憐な少女だった。
「帰るぞ、シェルフ」
不愛想に抑揚なくそう言って身体を離せば、「そうね」と口調を変えて彼女は肩をすくめた。
硬直する兵士たちの間をすり抜けて離脱しようとした矢先、前にジープが停まった。中から、例の指導者が現れた。
怯懦ゆえに完全に安全が確認されるまで後方に控えていたのか。それともただ単純に彼を乗せた分車の速度が遅くなったのか。
今になって肥満将校が現れた理由は、尋ねないかぎり知る由はない。知りたくもない。もはや、関係のないことだった。
「シオリ! ミスター枝折! いや、部下が失礼した」
ついさっき別れたときよりも少しばかり丁寧な口調とともに、
「いや、先ほどは疑ってすまなかった。魔術師殿の戦いを堪能させてもらった。すごいな、あれは」
その声色にはいくばくかの感動を乗せていたが、それ以上に粘性のある媚びを感じさせた。
苦い顔をする枝折の歩幅に合わせて並びながら、上目遣いに彼は尋ねた。
「どうかな? 我々との間で正式な『提携』を結ぶ、というのは。他にも手伝ってもらいたい任務があってな。もちろん、もろもろの手当や報酬は弾む」
そして予想の範疇にあったその提案を、男は恥じることもせず、ためらいも見せずに言ってのけた。
「閣下。残念ながら俺は典型的な日本人でしてね」
枝折は、表情を強張らせたまま足を止めた。
「正直母国から遠く離れたこの地でどんな戦争が起ころうとも、知ったこっちゃない。そこにどんな意義があるのかも興味がない。むしろ、無関係の他人を巻き込むようなバカ共も、そのおぞましさを見てもなお軍事利用しようとするクズ共も、全員残らず死に絶えろと思ってますよ」
早口で積もりに積もった思いのたけをまくしたて、あいさつもなく去ろうとする。
将校はしばし冷水を浴びせられたかのような顔をしていた。
だが、離れつつある間合いなどまるでものともしない無遠慮な声で、言い返した。
「なるほど君はたしかに日本人のようだ! 何かを犠牲にせずして欲しいものが手に入れられると考えている! 不自由なく暮らす人間の思考だ!」
それ以上は、枝折は無視した。将校はつづけた。
「だが君が安い正義感やヒューマニズムでこの話を蹴ったところでなぁ! 誰かが同じものを売りに来る! そして我々は買う! 今の我々が死んでも、どこかの世界の誰かが悪魔に魂を売るだろう! その連鎖は決して止まらないぞ!? 我々が保証してやろうではないかッ」
そして彼の放つ言葉は、ある種道理のとおった事実であり、そして呪詛でもあった。