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陸海軍特別混成演芸隊

作者: 山口多聞

「東京からこんな田舎までよういらしたね。大変だったでしょ?・・・新幹線で来たからそんなに時間は掛かってない?う~ん、本当に時代は変わったもんだね。私たちが若いころなんて、新幹線どころか特急列車さえまともになかったから。私は生まれも育ちもここだけど、試験会場まで丸1日。東京までは3日くらい掛かって行ったかな?・・・おっとごめんなさい。今日は昔話でも、そんなことを聞きに来たんじゃなかったね。私がいた部隊、陸海軍特別混成演芸隊の話だったね」


「まずは私の身の上話から。つまらない話だけど、これを話さないと私が演芸隊に入る流れを説明できないから。私は昭和の初めにこの地区に生まれたんだけど、まあ典型的な子宝貧乏の農家の生まれなのね。私は長女で、下に弟妹が8人もいたわけ。あら?そんなにビックリかね。今どきは一人っ子どころか、子供のいない夫婦も多いみたいだけど、その頃はそれくらい子沢山が別に珍しいこともなかったのね。小さいうちに死ぬ子も多かったし。現に弟妹のうち2人は赤ん坊のうちに死んだね」


「まあ、それはともかくとして。そんな子沢山なのに、我が家は自作農とはいえそんな大きな畑はなくてね、父も母も懸命に朝から晩まで働いたけど、子供の頃はとにかく貧乏だったね。私も学校は半分くらい休んで、農作業や内職、家事を手伝ったもんだよ。だけどそれでも暮らしはよくならなくてね。オマケに時代も時代だったし。ちょうどそのころ、中国・・・あの頃は支那て呼んでたね。戦争が始まって、ただでさえ貧乏なのに物がなくってますます生活が貧しくなったね。だから私にとって、小学校の授業後の時間。週に1回出来ればよかったけど、友達と歌を歌うあの時間が好きだったね」


「そんな時だったね、男の先生に歌を歌っているのを見つかったのは。あの時は一瞬ドキッとしたよ。何せ歌ってたのが、曲調の明るい唱歌だったから。戦争も始まっていて、明るい曲はあまり好まれなかったから。この厳しい時局にそんな歌を歌うとは何事か!なんて文句付けられた同級生もいたしね。ところが、先生から言われたのは「お前お国のために歌を歌ってみないか?」だったから、最初ワケがわからなかったね。で、職員室に呼ばれて教えられたのが、軍が新しい女子の歌劇隊を作るって話だったわけ。軍属として軍に入って歌や劇をして、三食付きでお給料も出るって内容だったかな?歌や劇の上手い娘を募集しているから、お前も受けてみろって・・・で、私は即答で募集に応募を決めたのよ」


「ただ正直に言うとね、歌を歌うとかよりもお給料に惹かれたかな?さっきも言ったけど、貧乏だったし、弟や妹たちはいつもお腹を空かせていてね。とにかく、少しでもお腹一杯に食べさせてあげたかったから。でも親には反対されたね。軍の歌劇隊だから戦場に行くことになるから。ただあの頃はそういうことは言いにくいから、家の手伝いが必要だとか、お前の歌で受かるはずもないとか。そんな感じで反対されたのを覚えてる。でも、私はとにかく応募だけさせてくれって頼んだのね。結局親が根負けして、私は採用試験を受けることになったわけ」


「試験は県庁のある街だったけど、何せ山奥の村だったからね。さっきも言ったように丸1日掛かるから、前日のうちに出発したよ。あの頃汽車に乗るのは大変だったけど、軍が切符を手配してくれていたから、満員だったけど列車には乗れたね。で、県庁の近くの基地で試験を受けたんだね。試験内容ははっきりとは覚えてないけど、すごく緊張したのだけは今でも覚えてる。何せ偉そうな軍人さんが試験官だったし、周りの女の子たちは私よりも美人さんばかりだったからね・・・え?当時の試験内容はこれ。へ~、お兄さんよう調べたね・・・歌に簡単な寸劇かあ。確かにそんな感じだったかもね」


「それで、家に戻ってから1週間くらいして結果が来たけど、これがまさかの合格だったから、私もビックリだし、周囲もビックリしたもんだよ。先生や弟妹きょうだい、友人たちは皆お祝いの言葉を掛けてくれたね。ただ両親はやっぱり反対だったんだね。その日の夜、皆が寝静まってから私を呼び出して「非国民と呼ばれても構わない。考え直しなさい」本当に強く言われたね」


「でもね。お国のためとか、そういう云々の前に、やっぱり私は少しでも家が楽になるようにがんばりたかった。だから私は頑として、親の言うことを聞き入れなかった。後で自分自身が親になってから、随分と親不孝なことをしたと思ったけど、まあ若かったからね。まだ12だったし。結局、両親が折れてね。その1週間後、私は親や弟妹、友人や村の人たちに盛大に見送られて、村を出た。ただそこからが大変だったね。何せ今度は県庁のある街のはるか先の東京まで行かなきゃいけなかったから。3日かけて東京に辿り着いたけど、ホームに降りたときは本当にクタクタだったよ。でも、現金なもんでね。お迎えが来ていたんだけど、それが海軍の錨のマークの付いた車だったの」


「今の若い人には考えられないことだったけど、その頃自動車なんてそれはそれは珍しい存在だったからね。私なんかその時まで乗ったどころか、見たことすらほとんどなかったし。しかも、その車から見える東京の景色もね~。ド田舎から出てきた私には、高いビルや近代的な建物がそれは眩しく見えたものよ。あの時の私は本当におのぼりさんだったね。で、連れていかれたのが海軍省にほど近い古ぼけた小さなビルだったの。そこが陸海軍特別混成演芸隊の本部兼練習場だったわけ。そして、私を含めて集められた14人の女の子が、その日から終戦の日まで一緒に行動することになったのね。」


「陸海軍特別混成演芸隊なんて大袈裟な名前は付いたけど、メンバーは私たち13人と陸軍の年老いた大佐さんが一人に海軍の若い大尉さんが一人、そして私たちと同じく軍属の事務員さんが2人だけ。さすがに宝塚とかは期待していなかったけど、メンバーの中には明らかに失望の顔をしているもいたわね。でも、私は嬉しかったな。東京ていう大都会に出て、新しい友達もたくさんできたしね。今じゃ珍しくないけど、その時集められたのは本当に日本中からで、北は樺太から南は台湾まで。外国人とのハーフまで混ざってたの。聞いたこともない方言や見たことのない顔立ちをした娘ばかりだから、最初はびっくりしちゃった。しかも年齢も上は20から下は12までバラバラでしょ。それまで同い年のくらいしか付き合ったことなかったから、それも新鮮だったわね」


「で、東京に集められた私たちはそれから毎日特訓ね。歌に劇が中心だったけど、時々軍隊の見学とか、映画鑑賞とか、劇の鑑賞、それからお茶やお花の時間もあった気がするわね。とにかく、朝から晩までみっちりだったわ。つらいと言えばつらかったけど、でもお腹一杯になるほどの食事が出たのは嬉しかったな。特に当時貴重だったお肉やお魚に、砂糖を使ったお菓子も出たし、滅多にお目に掛かれなかった真っ白な御飯とか、パンなんて生まれて初めて食べたかも。もちろんお給金も出たよ。一応軍属だから。まあ、ほとんど家に送ったけどね。あとで親からはずいぶん助かったって言われたのは、素直に嬉しかったな」


「そんな感じで、みっちり1カ月間の練習をした私たちは、初めて軍向けの慰問に出かけたの。最初は、確か横須賀だったね。東京駅から電車に乗って。私たちは陸海軍それぞれの軍属だったけど、制服は皆同じで特別の物を支給されたね。白い海軍風だけど、下はスカートでハイカラだったな。なんでも、大尉さんの発案だったとか。今考えると、随分派手な格好で、あの頃の人が良く考えたもんだよね。まあそれはともかく、最初の仕事は横須賀の海軍基地で、軍艦の水兵さんや基地の兵隊さんの前で踊りながら歌を歌ったね」


「緊張したかって?そりゃあ、緊張したわよ。それに、あんなに大勢の男の人を目の前にするのなんて初めてだったから。ちょっと怖さも感じたかな。でも、その時参加した仲間全員が団結したからね。大尉さんも応援してくれたし。だから幸いにも最初の公演は大成功。しかも帰り際には兵隊さんたちがキャラメルだの饅頭だのラムネだのお土産を持たせてくれたの。そのことだけははっきりと覚えてるわ。まさに花よりなんとやらね」


「最初の公演が成功したから、その後も海軍さんや陸軍さんの基地や飛行場に慰問公演に出ていくようになったの。ただ、最初の内は東京周辺だけだったわね。神奈川や千葉、埼玉あたりまでだったかな。でも公演をこなしていって、歌を歌うのも劇をするのも慣れたころに、外国へ行くことになったのよね。最初は確かシンガポールだったかな?いよいよ戦場に近い場所に行くから、身辺を整理して遺書を書くように言われたときは、さすがに緊張したね。どんな遺書を書いたかはしっかり覚えていないけど、出発する前の夜は泣いたね。そしたら、一番仲の良かった娘が、優しく抱いてくれたの。大丈夫、私たちも一緒だよ。確かそんなこと言われたな」


「で、私と他に2人がシンガポールに。他のメンバーもそれぞれマニラ、上海、香港に分かれて行ったね。羽田の飛行場から飛行機に乗ったんだけど、生まれて初めての飛行機だからそれはそれで緊張したわ・・・え?楽しくなかったのかって?もちろん楽しくなかったわけじゃないけど、あの頃飛行機に乗るなんてよっぽどのことだったし、今ほど安全な乗り物でもなかったから。まあ、幸いにも墜落することはなくて、無事にシンガポールに着いたけど。で1週間、間に休みを挟みながら歌やダンスを兵隊さんたちに披露して、また飛行機で帰ったわ。シンガポールはとても暑かったし、観光をしている暇もなかったけど、内地じゃ貴重になっていた砂糖とかコーヒーが手に入ったから、飛行機の空きスペースにこれでもかっていうほど積んだわね。もちろん、私たちも分け前いただいて、郷里に送ったよ。これもスッゴク喜ばれたわね」


「ただ後で知ったけど、本当に私たちは特別扱いだった。その頃南方との航路は敵の潜水艦のせいでたくさんの船が沈められて、民間人もたくさん死んだって聞いたね。それなのに、私たちは安全な飛行機を使わせてもらったんだから。本当にあの時は、そんなことも知らず、ただただ言われるままに歌って踊ってたわ。そして、不謹慎だけどそれを楽しんでた。まあ、そんな楽しい南方行きは結局その1回こっきりだったけど。結局海も空も危険になっちゃって、その後は朝鮮と台湾と沖縄には行ったけど、それより南は行けなかったね」


「で、本土に戻ったら、休暇が出てね。故郷に戻ったの。とにかく皆にお土産をと思って、南方から持ち帰ってきた砂糖や米、それから軍から配給された缶詰を、それこそ持てるだけもって帰郷したの。そして、この時は大尉さんが私に付き添ってくれた。私がまだ幼かったし、家が東京から遠いってのもあるけど、だんだんと切符も手に入らなくなるし、それに大量の食料を持って長旅するのも危なかったから。一応普通の軍属用の服を着てたけど、もしかしたら闇の食べ物を持ってるってことで、警官に捕まらないが心配してくれたみたい。ただ、大尉さんは制服で来たもんだから、周りのお客さんがぎゅうぎゅう詰めの中を席譲ってくれたのは、逆に恐縮しちゃったけどね」


「片道3日も掛かるから、実家にいられたのは1日だけ。それでも、親や弟妹のたちも見れたのは嬉しかったな。大尉さんは親とお話したり、弟や妹と一緒に遊んでくれたりしてね。海軍の将校さんだから、二人とも恐縮しきりで、それからめったに海軍さんなんか来ない田舎だったから、近所の人が挨拶や見物に来たりしてたね。本当にあの時は楽しかったね~。でもその分、東京に戻る時は悲しかった。親も弟妹たちも、やっぱり不安そうな顔してたし。そしたら大尉さんが「娘さんは絶対に無事にお返しします」て言ってくれたのは今でもはっきり覚えてる」


「東京に戻って、仲間たちと集まってまた踊りや歌の練習が再開したけど、ちょうどその頃サイパン島が陥落して、本土空襲が現実のものになったでしょ。だから練習の時間が減らされて、防空演習や空襲時の対処法なんて勉強したよ。ただ大尉さんと大佐さんは演習や勉強会が終わると「役に立たない」て言って笑ってたけど。実際、私たち自身はちょうど地方に出かけていて東京大空襲に遭わずには済んだけど、帰ってきてから見た東京のことを考えるとね、大尉さんたちの言ったことは正しかったみたい」


「そんな合間でも、私たちは内地を中心に巡回して講演したわね。さっきも言ったけど、北は樺太から、南は台湾まで。ほとんどは飛行機か列車で移動したんだけど、夏を過ぎると空襲警報で足止めを喰らうことも多くなったわね。ヒヤッとすることも増えたし。10月に台湾に講演に向かおうとしたら、給油のために立ち寄った大分で足止めを受けたわ。最初はエンジンの不具合で着陸したんだけど、その次の日も出発できなくて、そうしている間に沖縄が空襲を受けたの。しかも、すぐに台湾も空襲を受けて、大分の飛行場も大騒ぎになっちゃって。結局台湾講演は中止になって、代わりに朝鮮の鎮海に行ったわね。その時台湾出身の娘がスゴク不安そうにしていたけど、どうにもならなかったわね。その娘の家は空襲では無事だったけど、結局戦争に負けちゃって一家は本土に引き揚げたって後で聞いたわ」


「11月に東京も空襲を受けるようになると、ますます大変になったわ。警報が出るたびに防空壕に飛び込まなくちゃいけないもの。おかげで練習も度々中断。食事もだんだん粗末になるし、服装も必要な時以外は暗い色の服に変わったのもその頃ね。だから皆内心、この戦争は勝てるのかな?て思い始めていた。もちろん、そんなこと言おうものなら、憲兵か特高に捕まっちゃうんだけどね。ただ私たちの心配は杞憂だったけどね。だって大佐さんや大尉さんが「この戦争は勝てない。だから皆こんな戦争で死んじゃいけないよ」なんていうんだもん。最初に聞いたときは本当に驚いたわ。ただすぐに納得したけどね。実際戦争はますます負けが込んできたから」


「B29の空襲が激しくなってきたけど、不思議と私たちは空襲そのものには遭わなかった。まあ、それまで歌や踊りの練習をしていた東京のビルから、伊東の旅館に移ったっていうのもあったんだろうけどね。こんなこと言ったらまた不謹慎だけど、海辺のいい所でね。泳ぐことも出来たし、広いお風呂もあったりで、戦時下だっていうのに、なんか最後まで修学旅行気分だったわ」


「まあそれは置いておくとして、そうそう。空襲に遭わなかったことね。これが本当に遭わなかったのよ。その頃には外地へ行くのは無理になって、国内の部隊を回ったんだけど、空襲の影響で列車や飛行機が足止めになることはあっても、空襲そのものには遭わなかった。空襲に遭った直後の街を通過したり、通過した町や公演をした街が出発したすぐ後に空襲を受けたみたいな際どいことも一度や二度じゃなかった。だけど、本当に直に空襲に遭うことだけはなかった。今でも不思議に思うね~」


「空襲には遭わなかったけど、日に日に食べ物は少なくなるし、衣装も粗末になるし、慰問のために出かけようにも、もう飛行機は飛ばないし、列車も時刻表どおり走らないわで、結局6月くらいかな?最後に静岡の部隊で歌を歌ったのは。結局そのまま伊豆で終戦を迎えたわ。そりゃショックよ。薄々負けるとは思ったけど、本当に負けるなんてね。特に実家が空襲で焼かれた娘や、故郷に帰れなくなった娘はワンワン泣いて、本当にかわいそうだったね」


「でもね、大尉さんが「お前たちは親御さんからお預かりしてるから、必ず俺が守り切る」て言ってくれたのと、大佐さんの「戦争には負けたが、君たちは立派に働いた。この経験は絶対に将来に生きる」て言葉は素直にうれしかったかな。私はそのまま故郷に帰ることになったけど、何人かは東京に残って、歌や映画の世界に進んだのね・・・そう、知ってるのね。仲間として本当に誇らしいわ。私は結局、その後は平凡な田舎の女になって、もうすぐ人生を終えるけど、一緒に過ごした仲間が大成したのはやっぱりうれしい。戦後何度か同窓会もやったけど、一緒に努力して、戦果を潜り抜けた仲間だったから。その生き残りも、いよいよ私だけ。もうすぐ皆のところに行くけど、こうして昔の話をするとやっぱり楽しいね」


「私たちがしたことは、戦争の手伝いだったし、つらいことや苦しいことも多かった。皆が苦労している時に、贅沢もさせてもらって、不謹慎だったかもね・・・それでもね。あの隊での時間は、私たちにとっちゃ掛けがえのない大事な思い出。そのことだけは、若いあんたみたいな人にしっかり伝えたいわ・・・ああ、けど。ただ、一つだけ心残りがあるけど」


「それが何かって?いやね、仲間たちとは戦争が終わってからも何度か連絡を取り合って会ったけど、私たちの面倒を見てくれた大佐さんや大尉さんには終に会えずじまいだった。色々調べても見たけど、結局足取りが掴めなくてね。本当にあの人たちは何だったのかね?教えてくれた歌や踊りは随分とハイカラだったし、それになんというかね。あの頃の大人にはなかった自由な人たちだったというか・・・まああんたに言ってもわからないわよね。ごめんなさい。とにかく私の話はこれでおしまい。長いこと付き合わせて悪かったわね」


「それじゃあ、玄関まで送ろうか。体が元気な時だったら駅まで送ったけど、今はそんな自由利かないもんでね・・・じゃあ、気を付けて帰るんだよ。え?何?また会いましょうだって?もうこの老いぼれにはそんな機会ないかもしれないけど、もし会えたらそうだね。じゃあ、さようなら」


「・・・そういえば、あの人。どことなく大尉さんに似ていたね・・・まさかね」


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[良い点] 何となくほっこりする面白い作品です。 [気になる点] 出来れば終戦の日まで歌い続けてもらいたかったかな。 [一言] 史実でも前線での慰安はなかなか知られていないですよね。 この隊のように実…
[一言] おもしろかったですが、プロパガンダと聞いて少佐を想像したのは私だけでしょうか? ところで、キーワードが家訓のプロパガンダになっていました。 他の参加作品も読んでみます。
[一言] 空襲などの危険を事前に知っていたように避けているので、この物語に出てくる大佐と大尉は仮想戦記よくいるタイムスリップか転生した人間のように感じました。 もし、そうだとしたら、色々と努力したけ…
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