山の鳥居
男は不思議に思っていた。
薄い膜に入ったとき、瞬きを一度しただけ。その一瞬の間に猿は消えてしまったのだ。
喜んで良いのか、怪しんだ方がいいのか、男には分からなかった。
だが、こうやって戸惑っている間にも猪は距離を詰めてきているはずと考え、ふと気が付く。
「足音が聞こえない?」
猿が逃げたことで猪はそちらに行ったのだろうかと思うが、それはないだろうと考え直す。猿を追うには男の隣を駆けていかなくてはならない。猪が通りすぎたら流石の俺でも気が付くと男は呟き、失速する。
後ろを振り向くとやはり、猪はいなかった。
「何でどっちも消えてんだ?有り難いけど意味が分かんなくて不気味」
そう言いながら腕を擦る。猪の足音どころか鳥の鳴き声や木々のさざめきなども聞こえない。
まるで異世界にでも飛ばされたような感覚に、少しの興奮を覚える。
「山の中なのに何も聞こえないっていうのも、また風流ですなぁ」
そして男は歩き出す。下りてもいいのだがまた猪に会ったら今度は間違いなく死ぬだろう。剣道をやっていたと言っても受験を理由に引退してから竹刀さえ握っていない。体力が急速に落ちているのもこの前の授業や新体力測定などで分かっているため、ここまで走ってこれたのが不思議になるほどだ。
少し歩くと山に少しずつだが音が戻ってきた。しかし猪の足音と一緒に聞いていた音とは違って聞こえる。
「まるで俺を癒してくれるような音だな」
さわさわと木々が鳴らす音は疲れた身体を気遣うよう、鳥たちが会話する声は心に染み渡るほど心地が良かった。
「ここが楽園か」
男はそう言いリュックサックの中から清涼飲料水の入ったペットボトルを取り出す。キャップを開け飲むと少し炭酸が抜けていたが、体力が回復していくのを感じた。
周囲を見渡しながら男は歩く。鳥の声は聞こえるが、姿は見えなかった。
そうして少し経つと、目の前に赤い何かが立っているのがわかる。見上げると鳥居のようだった。
「こんな所に鳥居? ってまてまてまずここどこよ!」
男は頭を抱え、蹲った。
山は一本道ではなかったため、既に自分がどこを走ってきたか分からなくなっている。
「膜のところから鳥居までは一本道だったし、そこからこうスーと下れば大丈夫か、な?」
しかし鳥居も潜りたい。もう少し探検したいと自分が叫んでいる。
男は迷った。迷った末にこう決めた。
「鳥居の先に分かれ道があったら戻る、なかったら進む!」
男の瞳はキラキラと輝いていた。