2、母親
ふぅっと香った甘い匂いに、フェリシアの意識は眠りの世界から浮上した。体を起こすことなく部屋を見回せば、ベッドの側に大きな花束の入った花瓶が置いてあった。白い大きな花と、小さな色とりどりの花が絶妙なバランスで入り交ざっており、甘美な匂いとともに可愛らしい雰囲気を醸し出している。
「あら、起きたのね、シアちゃん。よかったわぁ・・・あ、それね、ギルが置いていったのよ。ギルはついさっき王都へ戻って行っちゃったわ、少し起きるのが遅かったわねぇ」
ふふ、と笑って部屋に入ってきたのは、フェリシアの母、リリアンであった。豊かな小麦色の輝くような髪が優しく揺れている。美形の多い魔族とも余裕で並べるだろう美貌を持つリリアンは、幼いフェリシアの大好きな母親だった。
(相変わらず、美人なお母様。魔族の美貌に並べるほどなんて、どうやってどうなればこうなるの・・・いえ、今考えるべきことは違うはず)
ぼんやりとカーテンを閉めるリリアンを見ていたフェリシアだが、心の中で頭を振ってから、魔界にいた時に読んだ本を思い出す。「人間感情学~感情ってすっばらしい!!~」主題は難しそうなのに、どこか馬鹿にしたような副題のその本は、魔界で発売と同時にそく禁書となったものだった。魔族にとっては感情とは、必要のない邪魔なものでしかない。それを推奨するような内容だということで、各方向から圧力がかかったらしい。
偶然フェリシアは、それを読む機会があったのだが、それによると、人間の子どもは親になつくらしい。そして、親には甘えてみせるのだとか。特にこうして、今のフェリシアのように体調を崩した時などは、少し大きくなっていたとしても甘えたくなるものなのだとか。それが事実だとすれば、今、フェリシアはこの状況でリリアンに甘えるべきなのだ。甘えるべきなのだが。
(・・・甘えるって、何をしたら甘えるになるのか)
とんと見当もつかない。甘える。なんてレベルの高い技術なのだろうか。そんなことを悶々とフェリシアが考えていると、リリアンはベッドの側に置かれた椅子に座り、花瓶に活けられた花束をそっと触った。
王都へ出ていったという長兄、ギルバートはフェリシアが倒れてから一週間、心配して実家に留まっていたのだ。騎士学校に通っているのだから、と何度もフェリシアは戻るように言ったのだが、そのたびにギルバートは首を振ってフェリシアの髪を優しく撫で梳かした。記憶が戻る前は、ギルバートにくっついていた気がするが、記憶が戻った今では鬱陶しくて仕方がなかったことを思い出す。それでなくても襤褸をださないか気を配っていたというのに。
「まだ少し顔色が悪いわねぇ。シアちゃん、何か食べたいものはあるかしら?お母様、張り切って作るわよ!」
何も言わずにただただ母を見つめる娘の頬を軽くリリアンが撫でる。それからフェリシアの頭をゆっくりと撫で、微笑むリリアンに、なんだかくすぐったいような気持ちが胸を燻り、思わず顔をそむけてしまう。リリアンはそんな娘を見て、ふふと笑みを漏らしてその小さな手を握った。
一週間前に倒れてから、娘がどことなくそっけなくなっていることにリリアンはちゃんと気が付いていた。何があったかは知らないが、きっと娘にとって重大な何かが起きたのだろうこともわかっていた。けれどリリアンはあえて何も聞くことはしていなかった。それはリリアンの夫、ファレルもそうだし、二人の可愛い息子たちもそうだった。その代わり、時間があればフェリシアの側に来て手を握ったり頭を撫でたりとスキンシップをいつもよりも多めに増やしていた。
「何がいいかしらねぇ・・・シアちゃんの好きな具だくさんのスープがいいかしらね。そうそう、アーテルがパイを焼いているから後で持ってくるわね」
リリアンが楽しそうに話しているのを、フェリシアは暫く聞いていた。一週間前までは上手く甘えられたし、返事もできたのに、記憶を思い出した今、どう反応していいのかもどう反応していたかさえもわからない。そしてそれが何故かもどかしい。
ただ言えるのは。
「・・・母様、ありが、とう」
人間たちが使うという、言葉。これを言えば、不思議とみんな笑顔になるという、魔法の言葉。「人間界観光-困ったときはこれ!-」に書いてあった、無償で何かされて戸惑ったときの項目に書いてあった言葉を、フェリシアは何とか口にした。なんだかすごくドキドキしていたし、耳が何度か熱を上げたようだった。
「シア・・・」
にこにことしていたリリアンの表情がぴたりと止まった。リリアンは少しの間黙っていたが、そっとそっぽを向いたフェリシアの顔を自分の方へ向けた。柔らかい光を集めてできたようなリリアンの深緑の瞳がフェリシアを見つめる。
これだけまっすぐに見つめられているのに、殺気の一つも感じられないなんて不思議な感覚だ。そんな見当外れもいいところなことを思いながらフェリシアもリリアンを見つめ返す。
「シア、母様はどんなシアでも大好きですからね」
どくん、と心臓が跳ねたのがわかった。柔らかい光が集まっていると思ったリリアンの瞳が、みるみるうちになんでも見透かすような瞳に見えてくる。早くなる鼓動を表情に出さずに、そっとフェリシアが頷くとリリアンはその頬にキスを落とし、スープを作ってくると言って部屋を出ていった。それを見送ってからはぁ、と大きくため息をつく。
「・・・ばれて、る?」
今、人間と魔族は非常に仲が悪い。というよりも、人間は一方的に魔族を悪者だと決めつけている。それというのも、近年魔物が増加しており、治安が悪化しているのだ。魔族と魔物はほとんど無関係なのだが、人間はそうは思わなかったらしい。魔族や魔族の肩を持つ人間を目の敵にしている節がある。もし、ばれれば、大変なことになるのが目に見えている。
だがまさかそんなわけはないだろう。今のフェリシアの状態は、体は正真正銘人間のものである。魂が人間とは違うと言うだけで。いや、もしかすれば魂すらも人間のモノで、魔族のフェリシアが勝手に意識をリンクさせているだけの可能性もある。その辺りはこれから検証しなければならないのだが、とにかく魔族というのが分るのはこの知識だけであるはずだ。外から見ただけでは、フェリシアが魔族の意識をもっているなんてわからないはずなのだ。
「母親の神秘、なのか」
そうつぶやいたフェリシアの頭の中には、再び「人間感情学~感情ってすっばらしい!!~」がくるくると踊っていた。




