赤
1.
冷たい夜風が吹き荒ぶ。まるで、八木の心情に同調するかのように。
「化物めっ……」
思い出せば心がざわめく。屈辱に魂が震える。格の違いを見せつけられ、その上で見逃されたという現実に。
「絶対に、許さないっ」
目に物を見せてやると、強く誓う。傷つけられた自尊心は、最早志賀を殺すことでしか取り戻せない。接触致死の殺し屋であるために、志賀の死は必須だった。
八木は、振り返ることなく、夜の街を駆けて行った。
2.
血だまりに沈む男。圧倒的なまでの力を誇っていた圧縮の殺し屋は、今は見る影もなく沈黙する。その体はもう二度と動くことはない。眉間に空いた穴が、それを雄弁に物語っていた。
「……さて、おまえはどうする?」
無言で死体を眺めていた志賀が、振り返る。赤い瞳で、八木を射抜く。
「選ばせてもらえるのかしら……?」
声が震えないように、細心の注意を払って話す。もう死は受け入れていた。しかし、恐怖を悟られることだけは、耐えられない。殺し屋としての矜持が、弱みを見せることを拒む。
「選ばせてやろうか?」
それは思いがけない甘言。覚悟した死からの、助け舟。
「なら、この支配を……制圧を、解いてもらえるかしら」
「いいだろう」
八木の要求はあっさり通る。それこそ、驚きを隠しきれないほどに。
「どうして……?」
拳を握り開き、身体の制御権が戻ったことを確認しつつ、志賀に目を向ける。瞳は異常なく、光を消した深い黒色だった。赤は、残っていない。
「おまえが望んだんだろう?」
事も無げに志賀は言う。解放するのが当然だと言わんばかりに。
「それは、そう、だけれど……」
「……俺の力は必殺だと」
中空に視線を彷徨わせる八木を、低く小さな呟きが捉える。
「そう言ったな、俺は」
確認の言葉。大和とのやりとりを聞いていただろう、と。
「ええ……」
「それは、おまえには当てはまらないだろう?銃殺のできない、おまえには」
動きを支配したところで、物理的に傷がつかないのなら殺しようがない。必殺たりえない。
「だから、見逃す、と?」
「殺せない以上、制圧しておくのは、不毛だからな」
裏を感じさせない言葉。
「……私が殺しにかかるとは、思わないの?」
「できるのか、おまえに?」
抱いて当然の疑問に、ひどく冷めた答えが返る。そんなことはできないと、確信の響きを持って。
「っ!!」
弱者を見る憐れんだ視線に晒され、唇を噛む。接触致死という異能ゆえに、そんな目で見られる経験など、八木にはなかった。はっきりと格下だと表明され、屈辱に心が波立つ。
「……さようなら」
しかし、それは言葉にはでない。蜘蛛の糸を自ら断ち切る真似など、できはしない。
八木は別れを呟くと、志賀と目を合わせることなく立ち去った。
「さようなら、か」
小さな、そよ風にすらかき消されそうな、本当に小さな呟き。それをこぼした主は、八木の言葉を反芻し、冷酷な笑みを浮かべる。それはそれは冷たい、冷え切った笑みだった。
「せいぜい逃げ回るんだな、撒き餌が」
酷薄な言葉は、誰に聞かれることもなく、夜の闇に溶けていった。
3.
オフィス街を貫く幹線道路。その中ほどに、ビルが六棟建つくらいの敷地面積を持った広場があった。昼間は食事をとる人や仕事に追われる社会人が行き交い、活気にあふれる場所であるここは、夜の帳が下りきった今、その面影をなくしていた。シンボルマークである、日光で動く噴水も、その機能を止めている。
八木が立っているのは、その噴水のすぐそばだった。夜風にざわめく木々を見つめ、乱れた息を整えるように長い呼吸を繰り返している。
「良い風ね……」
髪をなびかせ、八木は笑う。
「私を見逃したこと、後悔させてあげる」
ここにいない相手への、報復宣言。志賀を殺すという意味合いの、力強い言葉。八木は笑みを深くする。嗜虐的な色が見えるほどに。それは、勝利が約束されたかのような高笑いだった。
「八木さんですね?」
「っ!!」
凶笑を振りまいていた八木に、ふいに声がかかる。冷や水を浴びせられたように笑みは引き、動揺と共に振り返れば、そこにはまだ10代前半ほどの、幼い少女が立っていた。
音も気配もなく背後に現れた存在がこの少女であると認識するのに、一拍の間が空いた。
「……あなた、何者?」
ようやく紡げた言葉は、ひどく抽象的なもの。それほどに、少女は異質だった。純白に赤い花弁を散らした意匠の着物を纏い、能面を張り付けたような無表情で佇む少女。明らかに、普通ではない。
「申し訳ないですが、死んでいただけませんか?」
帯の内側からナイフを取り出し、決定的な言葉を言い放つ。問いへの答えとしては適切ではないが、これで八木に得心がいく。この少女は同業であると。
「死んでと言われて死ぬほど愚かじゃないわよ?」
同業者だと判断してからの八木の動きに、迷いはない。素早く後方に跳び退き、油断を欠片も見せず、少女を注視した。
「いえ、あなたは死ぬんです」
起伏のない声は、整いすぎている容姿とも相まって、人形を思わせる。
「話にならない、わ、ね……」
視界が回り、言葉が乱れる。それは一瞬ではあったが、少女には十分すぎる隙だった。手を伸ばせば届く距離まで、詰め寄られる。回避は、間に合わない。
「では、さようなら」
少女はナイフを差し出した。
4.
致命的な、隙だった。八木が接触致死という異能を宿してさえいなければ。刃は八木に届かない。それは揺るぎようのない事実。だから、彼女は勝利宣言を行う。
「私にナイフなんて効かな……どういう、つもり?」
宣言は疑問に犯される。刃は八木を傷つけてはいない。しかしそれは、接触致死という力によってではなく、少女の意思によって。
ナイフの柄が、八木を向いていた。
「あなたは死にます」
少女の瞳が光る。見覚えのある、忌々しい赤に。
「っ!!」
ゆるゆると、八木の手が持ち上がる。そこに彼女の意思はない。動きを、支配されていた。
「あなたは自ら喉を掻き切って死ぬんです」
少女の言葉を支持するように、八木は両手でナイフを握り、首の高さまで持ち上げる。切っ先を、内側に向けて。
それは、祈りをささげる姿に酷似していた。
「さようなら。どうか、良い死を」
少女が再び別れを告げる。それはまさに、死刑宣告。一瞬後には、彼女は血のシャワーを浴びることになる。
はずだった。接触致死という、異能さえなければ。
「いいえ、私は死なないわ」
突き立てられたナイフはその刃を消している。いかに身体を操ろうと、直接的な攻撃を用いる限り、八木には傷一つつけられない。
「反則だっ……」
接触致死の発動は、無表情一辺倒だった少女に感情を露わにさせた。彼女は驚愕をうかべ、不平をこぼす。人間らしさの、発露。
それと同時に、身体の制御権が八木に戻る。狩る者と狩られる者。一瞬にして立場が逆転していた。
「さようなら、幼い殺し屋さん」
八木の手が少女に伸びる。それは、殺意の表明。人間を生きたまま腐食させるという、異常の殺人。
「私も、死なないっ!」
赤い眼が八木の足をその場に縫い付ける。伸ばした手が空を切り、致命の能力は発動しない。
少女は踵を返し、全速で広場を離脱する。すぐに、八木の視界にはその姿を捉えられなくなった。
「……なんなのよ、いったい」
今宵遭遇した二種類の赤。他者を支配する、異能の瞳。それらに射抜かれ、そして二度とも生還した八木は、嘆息をもらす。この邂逅に、意味はあるのかと。
疑問に答え得る存在はこの場にない。闇の時間は終わり、空が白み始めていた。