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「お父さん、やめて!」
鋭い切っ先のナイフにも怯むことなく、お姉ちゃんが飛び出す。
テーブルに突っ伏しているアインザッツさんに覆いかぶさるように、身を挺して彼を庇ったのだ。
「そうだよ! やめて!」
一瞬ためらってしまったけど、私も身をひるがえす。
アインザッツさんやお姉ちゃんを守るように、私はお父さんのすぐ目の前に自らの体を滑り込ませた。
さすがに驚いたようで、お父さんは反射的に一歩、あとずさる。
でもその瞳は、キッと私とお姉ちゃんを睨みつけていた。
「……許すというのか? お前たちのお母さんを、そしてお前たちふたりをも捨てたこの男を」
「ええ、そうよ!」
お父さんに負けない強い表情で、お姉ちゃんが叫ぶ。
お姉ちゃんの瞳は、今にもこぼれ落ちそうなきらめきで満ち溢れていた。
「人は誰しも生まれながらにして生きる権利を持っている。そう教えてくれたのは、お父さんでしょ!?」
溢れ出た言葉とともに、熱い雫が赤味を帯び始めた頬を伝って軌跡を描く。
「隠されていた日記を読んでどうしても我慢できなくて、半信半疑のままだったけど、それでもあたしはここまで来た。この人の前で聖歌を歌っていたときに感じたの。この人が本当の父親だというのは間違いないって。私を見つめる目には、お母さんに対する想いが溢れていたから。無意識だったのかもしれないけど、私の歌声を通してお母さんの面影を感じていたのよ、きっと」
お姉ちゃんは、いまだに意識の戻らないアインザッツさんの肩をぎゅっと抱きしめながら、お父さんに向けて思いの丈をぶつける。
「しかしだな……そいつは、チャルメラを死に追いやった。だから私には、天罰を与える使命が……」
そう言いながらも、お父さんの声は力なく揺らぎ、まるで燃え尽きた儚いろうそくの炎のように消えていった。
ただ、言葉こそ消えたものの、アインザッツさんを睨みつけるお父さんの瞳は、いまだ怒りの念を灯し続けていた。
「お父さん……」
私は一歩前に踏み出す。
お父さんは鋭い視線を向けてはいたけど、ナイフを持つ手はすでに力なく垂れ下がっていた。
「もうやめよう。私たちは神様の想いを伝える、教会の神父と巫女なんだよ?」
すっと息を吸い込み、私はお父さんの目をじっと見据えながら続ける。
「神様は天罰を与える存在じゃない、許しを与える存在なんだって、私は思うの」
お父さんは、その場に膝から崩れ落ちた。
☆☆☆☆☆
「う……ん……」
目を覚ましたアインザッツさんの傍らで、チェルミナお姉ちゃんが心配そうな表情を浮かべていた。
その横で、私も同じようにアインザッツさんを見つめている。
お父さんやマニスも含めて、他のみんなは部屋から出てくれていた。
蒼いローブの人たちも、屋敷の主を心配に思っていたかもしれないけど、部屋から出てもらった。
今、この部屋にはアインザッツさんと私とお姉ちゃんの三人だけが残っていた。
「私は……、いきなり激しい痛みが襲って、それから……」
なにがあったのか、まだよくわかってはいないのだろう。アインザッツさんはぼやけた頭のまま、どうにか身を起こす。
そんなアインザッツさんの手を、私とお姉ちゃんのふたりでぎゅっと握る。
そして私たちは、自然と声を合わせて言った。
『大丈夫だった? ……お父さん』
一瞬なにを言われたのか理解できないという表情をしていたけど、少しずつはっきりしてきた頭に、その言葉の意味が染み渡っていったようだ。
「キミたちは……私を父親と、認めてくれるのか……?」
「うん……。だって、あなたがいなかったら、私たちは今ここにいないんだから……」
「チュルリラ……」
私の言葉に、戸惑いと嬉しさが半分ずつ同居したような瞳を向けるアインザッツさん。
「そういうわけだから、ま、一応ね」
いつもの調子が戻ったのか、お姉ちゃんは真っ赤になってそっぽを向きながら、素直じゃない言葉を吐き捨てるように放つ。
「チェルミナ……」
私たちを交互に見据えるアインザッツさんの瞳には、温かな輝きが浮かんでいた。
「こんな大きな屋敷で生活していて、お手伝いもしてくれる手下の男性はたくさんいるみたいだけど、女性は誰もいなかった。それは今でも、お母さんを愛しているからなんですよね? お母さんが亡くなってしまったことは、手下の人たちに調べさせて知っていたでしょうけど、それでもあなたの心の中にはずっと、お母さんがいた……」
「それを示しているのが、蒼いローブにつけられた青林檎の刺繍や、この屋敷の門にあった青林檎のレリーフなのよね? お母さんとふたりで食べながら笑い合った遠い日の思い出を、いつまでも心に刻みつけるように……」
私とお姉ちゃんの紡ぎ出す穏やかな湖面のような言葉に、アインザッツさんは黙ったまま頷きで答えた。
「あなたはお母さんと出会って、お母さんもあなたのことを好きになった。いろいろとすれ違いがあったせいで、お母さんは悲しい結末になってしまったけど、でも恨んでなんかいないはずよ」
お姉ちゃんの声は、心からの優しさに満たされているように思えた。
「うん……。だから私たちは、あなたに……お父さんに言います。お母さんの想いを乗せて……」
私はお姉ちゃんと一瞬だけ視線を交わしてから、そっと目を閉じ、ゆっくりと口を開く。
『ありがとう』
部屋に響いた私とお姉ちゃんの声には、天国からのお母さんの声も重なっているように感じられた。
「……ふたりとも、本当にありがとう……」
アインザッツさんは――私たちの本当のお父さんは、ぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら、何度も何度もそう繰り返していた。